デヴィッド・ボウイ(David Bowie)…80年代ボウイを回顧する。僕は君を傷つけない、とボウイは歌う。
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)…80年代ボウイを回顧する。
僕は君を傷つけない、とボウイは歌う。
《ネヴァー・レット・ミー・ダウン》
David Bowie
1947.01.08-2016.01.10.
ほぼすべてのボウイ・ファンに、なかったことにされているアルバムは《ラビリンス~魔王の迷宮(Labyrinth/1986)》というサントラ盤と、《アウトサイド(1.Outside/1995)》、そして《ネヴァー・レット・ミー・ダウン(Never Let Me Down/1987)》というのが、同率1位なのではないか。
べつに、これらがボウイの最高傑作だというつもりはない。
80年代ボウイに関しては、実際、私もリアルタイムで聴いていたときは、別にボウイなんかにそんな方向性なんか求めてはいない、と、昔のカリスマ、今駄目な人、というイメージ(それは、まわりの一般的なイメージでもあった。)で捉えていた。
もっと、なにか尖ったものや、研ぎ澄まされたものが欲しかったのだ。
もっとも、それって、20世紀の十代に特有だった、一種の破滅願望みたいなものでしかないんですけどね。…今にして想うと。
が、《ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ》とか、《郊外のブッダ》とかを聴いて感動してしまって以降、あらためて聞きなおしてみたら、なんか、全部、許せてしまった。
…O.K….てか、結構いいじゃん。
《シャイニング・スター(Shining Star Making My Love)》
単純に悪くないな、と、思い始めるようになったのだった。
そして、しばしば聞き返すうちに、意外に愛聴アルバムになったのが、《ネヴァー・レット・ミー・ダウン》だったりする。
もっとも、それまでにも、結構聴いていたけれども。80年代ボウイ。
愛していましたから。ボウイ氏を。
…というか、前から、実は好きだったんです。80年代ボウイが。心の中では。友達には秘密でしたが。
一番好き、とか、尊敬する、とかではなくて、恥ずかしくて人には決して言えないトキメキを与えてくれる。そんな音楽。この感じは、70年代ボウイには、ない。
なぜなんだろう?
なんでこんなに心がキラキラするんだろう?
いつから俺はこんな乙女になったんだと想いながら、好きじゃない振りをしていた、というか。
この時期の音楽には、思春期の人間の胸につんと来る、妙な甘酸っぱさがあった。
確かに、尖がったところはない。
ただ、時代の主流に対して、若干意図的に外し気味に音を鳴らしているので、そんなに思いっきり古い感じはしない。
…古いが。
昔、レオス・カラックスという映画監督がいて、その人が必ずと言っていいほど映画の中で使っていたのが80年代ボウイの曲だった。
カラックスの《汚れた血》とか、《ポンヌフの恋人》とか、それぞれに印象的な、彼の数少ない映画の中で(本当に、すさまじく少なかった。)、ボウイの《モダン・ラブ》や《タイム・ウィル・クロール》が流れる中、とにかく、主人公の少年は走るのだった。
無意味に。
いきなり、音楽が鳴り始めると、走る。
しかも、全力疾走。
まともなつじつまもあわせないまま、唐突に始まる、完全に無意味なシークエンスなのだが、だからこその映画的な感動があった。彼らは走っている。音楽は鳴っている。カメラが真横から追う。
見ている私たちは、こうつぶやくしかない。
...OK、それが映画だ、と。
その映画を見たときは、ボウイの曲だったら70年代のものをちゃんと使えばいいのに、と思ったりもしたが、考えてみれば、あの、少年の孤独な疾走のイマージュに、70年代ボウイは似合わない。
実は、ベルリンの13歳の売春少女を描いた70年代の映画《クリスティーネ・F》にも、映画に実際に使われ、かつ、本人も出演している《ベルリン~ニュー・ウェーヴ時代》ボウイの曲よりも、実は、80年代ボウイのほうが似合う、と、想うときがある。
この映画は、実在の人物のモノローグを映画化したもので、売春だの麻薬だのレイプだのなんだかんだとひたすら痛いイマージュの連続の中で、ボロボロの少女は唯一、ボウイのコンサートに行った時、ステージの上のボウイを見詰める瞬間にだけ、かすかに微笑むのだ。
儚げな、切ない、すがるような微笑みを。
そして、その日の夜、少女は初めて、ヘロインを打つ。まだ、13歳の、子どもの血管に。…
《ネヴァー・レット・ミー・ダウン(Never Let Me Down)》
When I believed in nothing
I called her name
Trapped in a high-dollar joint in some place
I called her name
信じる心を失ったとき
君の名を呼ぶんだ
なにもかもがめちゃくちゃになったときにも
君の名を呼ぶんだ
And though my days are slipping by
And nights so cruel I thought I'd die
She danced her little dance 'till it made me cry
She was shakin' like this honey doing that
僕の命は墜落する
残酷すぎる夜に死を願う
君は踊った、かわいいダンス、僕が泣いてしまうまで
僕たちの鼓動は重なり合って、…
When I needed soul revival
I called your name
When I was falling to pieces
I screamed in pain
心の手当てが必要だったら
君の名を呼ぶよ
すべてが砕け散って
苦痛の中に叫ぶしかないときにも
Your soothing hand that turned me round
A love so real swept over me
You danced your little dance 'till it made me cry
You were shakin' like this honey doing that …Never let me down
君の癒しの手が僕を生き返らせる
真実の愛が僕を貫いて
君は踊った、かわいいダンス、僕が泣いてしまうまで
僕たちの鼓動は重なり合って、…君は僕を傷つけない
She never let me down
Never let me down
She never let me down
彼女は僕を、決して傷つけたりはしない
When all your faith is failing
Call my name
When you've got nothing coming
Call my name
信じるものを見失ったら
僕の名を呼んで
なすすべもないときにも
僕の名を呼んで
I'll be strong for all it takes
I'll cover your head till the bad stuff breaks
I'll dance my little dance till it makes you smile
Shaking like this honey doing that …Never let you down
君のために強くなる
君を守ってあげる、君を傷つけるすべてのものから
僕は踊ってあげる、君が微笑むことが出来るまで
僕たちの鼓動は重なり合って、…僕は君を傷つけない
I'll never let you down
I'll never let you down
I'll never let you down
君を落ち込ませたりはしない
もう二度と
《ベルリン三部作》は、アート系気取りの人間が、思いっきり格好をつけて聴くのが似合う。
別にアーティスト気取りと言うわけでもない当たり前の、心に何かの傷を抱えた少年少女たちには、ちょっと、似合わない。
タイム・ウィル・クロール(Time Will Crowl)
80年代ボウイの音楽は、そんな、無意味に孤独な思春期の少年たちにささげられた音楽なのだ、という気がする。
時代の先端とか、表現のクオリティとか、同時代的な批評性とか、そんな事など最初から問題にされていない。
ある意味、もうやり尽くしたと想ったのかも知れない。
あるいは、ノンフィクションである、クリスティーネFのような、リアルな自分への眼差しに直接触れたことによって、ひょっとしたら、なにか想うところがあったのか?
明らかに、80年代ボウイは、みんなに優しいポップスターであろうとし、にもかかわらず、売れ筋ど真ん中をはあえて走らない、という、若干のねじれの中を疾走する。
だから、そこで、70年代ボウイに通用したには違いないアート系の価値観を持ち出して、ああだこうだということのほうが間違いなのだ。
もはやボウイは、そんな風景を見ているのではないし、見せようともしていない。
《世界が崩れ落ちるとき(As The World Fall Down)》
《ラビリンス》という映画も、少女が異界にさまよいこむ物語だった。
そして、映画の中で、少女は何かと戦い、何かに傷付きながら、何かを見いだそうとする、のだ。
よくある話なのだが、そういう少年少女に寄り添う音楽として、この時期のボウイほどふさわしい音楽があるかと言うと、…どうだろう?
当時だけではなくて、ひょっとしたら、今も。
もっと破壊的・破滅的な少年たちの姿を破壊的・破滅的に鼓舞する音楽はある。
いくらでも、その時代の最先端の表現の中で。
単純で直接的な共感を煽る音楽はある。いつの時代も。ブルーハーツでもミスチルでも何でも。
しかし、キラキラ系の魔法で微笑みかける的な、80年代ボウイに特有のマジックを持った音楽は、ない。
80年代ボウイが絡んだ映画たちのなかで、無防備なほどに曝される、何かを明確に求めているわけではなくて、何かを明確に拒否しているわけでも、何かに明確に苦しんでいるわけでもなくて、ただ、何かにすがるように、何かに身を寄せなければ生きていけないような、そんな、おぼろげで、遠いまなざしをした少年少女たち。
彼らに似合う音楽は、絶対に、この時期のボウイの音楽しかない。
私が感じた、妙なキラキラ感の正体は、これなんだ、と想う、
もちろん、90年代に入ると、70年代的な、時代の先端を走る、という《仕事》も、80年代的な、少年少女たちのアイドルである、という《仕事》も、良くも悪くも全部なくなってしまったおかげで、本物の、純粋な音楽家としての音楽それ自体を取り戻すのだが、当たり前だが、その時期には、この気配…繊細で、やさしくて、寄り添ってくるような気配は失われてしまっている。
もしも、と、だから、私はあえて想う。あなたが80年代のボウイを、単純に停滞期の、なかったことにすればいいだけの時代だと、そう想ってしまうのなら、それは、あなた自身が、思春期の柔らかい眼差しそれ自体を失ってしまったか、最初から持ってさえいなかっただけだ。…と。
少年が目的もなく無意味に疾走し、少女が何かにすがらなければ微笑むこと出来ない力ない眼差しを投げるとき、もっともふさわしいのは、そんな感情、些細な心のひだにちゃんと寄り添う、80年代ボウイの音楽なのだ。
2018.06.10 Seno-Le Ma