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マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)…宇宙人、受難劇、ステージ上のイエス。そしてその情熱。

2018.06.11 08:29








マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)

…宇宙人、受難劇、ステージ上のイエス。

そしてその情熱。









Michael Joseph Jackson

1958.08.29-2009.06.25.









マイケル・ジャクソンが亡くなったとき、ものすごい違和感があったのは、僕だけではないはずだ。


違和感とは唯一つ。マイケルって、そんなに人気あったっけ?…と。

リアルタイムでマイケルを知っていた世代はみんな、そうだったんじゃないか。


実際、本当にマイケルの人気が、本当に安定したのはミレニアムに入ってだと想う。(…児童虐待疑惑とか裁判とかあったけど、ね。)

ミレニアム以降、若い世代に、もっと素直に尊敬されていた。

上質な音楽の良心として。そして、重力というものが存在していない宇宙人ダンサーとして。かつ、身体的制約というものが存在していない宇宙人シンガーとして。









マイケルを本当に支持していたのは、《スリラー》も《バッド》もましてやジャクソン5も同時代ではない、もっと若い人たち、それも自分で音楽やダンスをやっている人たち、というイメージがある。


その頃、マイケルのスタイルをスキャンダラスで革命的だとは、だれももう想わなくなっていたが、クラブ通いしてたりする、本当に音楽好きな子たちのなかで、その音楽スタイルが好きとか嫌いとか以前に、認めざるを得ず、リスペクトせざるを得ない、スペシャルな存在として、地味に認知され、心から尊敬されていた。


要するに、マイケルと言えば、《ビリー・ジーン(Billie Jean)》でも《スリラー(Thriller)》でもなく、《バタフライズ(Butterflies)》を思い浮かべる世代、である。



…もう、どうしようもない名曲。

僕は、俺が死んだらこの曲をかけろと、遺言済みだ(笑)

《バタフライズ(Butterflies)》




だから、マイケルが死んで、一番悲しむのは、そういう音楽に本当に詳しい若いやつらが、そんなに大袈裟に、ではなく、クラブや自分の部屋やスマホに突き刺した自分のイヤホンの中で、静かに追悼するもの、というイメージがあった。


が、もちろん、現実は、日本中が、テレビ地上波でパーティ状態だった。


本当の信者の姿は、テレビに映らなかっただけだろう。

インターネット上では、埋もれてしまっただけだろう。

...そんな気がした。


《バタフライズ》は、言うまでもなく、アルバム《インヴィンシブル(Invincible)》のハイライト・トラック。


美しさに言葉もない。光が静かに広がって行く美しさ。


かつ、すごいなと想うのは、マイケルの、生体の声帯が震えている感じが一切ない、スペクトルそのもの状態の、声の、むちゃくちゃな魅力である。


この声に嫉妬しないシンガーがいるとしたら、たぶん、そのシンガーが目指しているのはボブ・ディランなんじゃないか。





* *



マイケルと言えば、なによりスキャンダラスなポップ・スターとして認知されているのだが、より深くマイケルを愛したのは、実際に歌ったり、踊ったりしている人たちだった、と想う。


たとえばダンス。


よくある話が、マイケルのコンサート・フィルムを見ると超=重力状態のマイケルに比べると、あきらかに地上で頑張っているだけのバック・ダンサーは、無慈悲なまでに見劣りする。


実際には、彼らはすごいダンサーだし、彼らだけを見れば、やっぱりすごい。が、マイケルが入ってくると、所詮、人類基準のダンサーに過ぎない。


彼らは、月の上を歩いていない。


実際に、単なる現実として土星の輪の上でステップを刻んでいるマイケルとは、住んでいる世界が違う。


要するに、ダンサーだったら、スタイルやジャンルがどうであれ、マイケルを認めざるを得ないはずだ。

実際、誰もが認めている。

そのすさまじい身体能力を。


シンガーとしてもそうだ。

単なる美声がすごいのではない。…いや、それもすごいのだけれど。実際、マイケル以上の美声というのは、女声・男声・カストラート含めて、ちょっと、思いつかない。


聴くべきは、そのテクニック。

なにも大袈裟に感情をこめるというわけではなくて、ちょっとした声のふるえ、力み、解放、伸び、圧縮、そういう細かい部分のすべてをコントロールしきり、微細な音色表情で音楽を語ってしまうヴォーカリゼーションは、やっぱりすごい。


しかも、ジャクソン5がジャクソンズになったくらいの、ごくごく若い頃から、すでにこの超絶テクニックが完成されていたのだからすごい。


シンガーをひれ伏させざるを得ない、スペシャルなシンガー。


ミュージシャンズ・ミュージシャンと言う言葉がある。音楽のプロが敬愛する音楽家、という意味だ。


ミレニアム入って以降、崇拝者に対してもっとも強固な信頼関係を築いていたのは、マイケルその人だった、という気がする。

純粋に、プロフェッショナルなテクニックに於いて、である。





* *



同時代の反応について言うと、結構、目も当てられないものだった。


僕がリアルタイムで体験したのは《バッド(Bad)》以降に過ぎないが、マイケルは、80%の人間が白い目で見て、20%くらいの熱心な信者が熱烈に支持している、そういう、世界一有名な、あくまでマイナーなカリスマだった、というイメージがある。


たとえば、ロックのミック・ジャガー氏や、マドンナさんなんかのスキャンダラスな《名士》さん、《セレブ》さんたちとは比較にならないほど、そのマイナーな嫌われ者っぷりはすごかった。


初めて、テレビ放送された来日コンサートの《アイ・ジャスト・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー(I Just Can’t Stop Loving You)》を見て以来、熱心なファンになってしまった僕としては、居心地がとても悪かった。


マイケルの《パオ!》とか《シュクチュクッ》とかのシャウトは、お笑いのネタになっていたし、マイケルと言えば整形だらけの化け物だといわれ、本気で聴くに値しないたんなる売れ筋のヒット・メーカーに過ぎず、なにより、気持ち悪かった。

股をつかんで内股になる、あのキメ・ポーズとか。

いまは普通だけど、当時は本当に何それ?という理解不能なポーズだった。


そんなこんなで、80年代のマイケルは、世界一有名だが、とてもではないが、世界が認めた男とは、間違っても言えないパフォーマーだった。

あくまで、一般人みんなに嫌われ、一部だけに熱狂的信者を持つ、そういうマイナーなカリスマというやつの、最大規模の存在だったのである。


90年代に入ると、時代はヒップ・ホップ。

もはや、マイケルの時代ではない、と、誰もが想っていた。僕も、ずっとフォローしながら、でも、やっぱり、ディアンジェロやローリン・ヒルのほうを、より多く愛していたのも、事実だった。


ソロ・アルバムを簡単に整理すると、


《オフ・ザ・ウォール(Off The Wall/1979)》

《スリラー(Thriller/1982)》

《バッド(Bad/1987)》

以上、クインシー・ジョーンズ三部作…と、勝手に僕は呼んでいる。


《デンジャラス(Dangerous/1991)》

《ヒストリー(HIStory/1995)》/《ブラッド・オン・ダンス・フロア(Blood On The Dance Floor/1997)》

以上、90年代三部作。どす黒い漆黒のビートに貫かれる。そのストイックさが、リアルタイムではちょっと古臭く感じられもしたが、今聴いたらO.K.だろう。…聴こう!


ミレニアムに入って、そして、実質ラスト・アルバム。

《インヴィンシブル(Invincible/2001)》


個人的に、マイケルのアルバムの中で一番好きなのは、この《インヴィンシブル》だ。本当によく聴いたし、いまでもよく聴く。


...というか、全部、同じくらいよく聴いたし、聴くんだけれども。


実際、単純に、出会った順番、一緒にすごしている時間の長さの問題で、《スリラー》とか《バッド》のほうが、現実的な回数としてはよく聞いているには違いないのだが(笑)。

とにかく、一番好きなのは《インヴィンシブル》だ。マイケル、と言われれば、まっさきに、あのジャケットの若干抽象的な顔写真が脳裏をよぎるくらいに。

本当に、全曲、捨て曲がない。息苦しくなるくらいに、名曲しか、このアルバムには存在しない。


もっとも、それはシンガー=マイケル・ジャクソン固有のマジックに過ぎない、という事実もある。


たとえば、《ビリー・ジーン》あれは、名曲なのか?

ずっと同じリズム・パターンが意図的に単調に続き、地味なメロディー・ラインというか、メロディと、ラップで言うフロウの中間をたゆたう、印象的ではあっても、ようするに綺麗とは言えないラインが流れる。

かっこいいと言えるのは、実はベース・ラインだけ。

といっても、なにかスペシャルなリフを刻んでいる、と言うわけではない。

単なる地味なウォーキング・ベース。どうと言うほどのものでもない。


…地味でマニアックな、コアなファンだけが知っている曲。本来は、そうであるべき曲。実は、あの曲の素顔は、そんな曲なんじゃないか。


地球上の人類の半分以上が知っているような、そんな曲になるはずがない曲のはずである。


考えてみれば、《バッド(Bad)》も《スムース・クリミナル(Smooth Criminal)》も、みんなそうだ。


なぜなら、本質的にマイケルの音楽は、ジェイムズ・ブラウンの直接的な発展型だからだ。


ジィムズ・ブラウンの音楽には2タイプある。


一つは、《コールド・スウェット(Cold Sweat)》的なゴリゴリ・ファンク。

リズム隊どころか、ピアノ、ホーン、更にはシンガー自体も、ただひたすらリズムを刻み、グルーヴに奉仕する。

目指すはファンクネス。それ以外に目的はない。


もう一つは、《イッツ・マンズ・マンズ・マンズ・ワールド(It's a Man's Man's Man's World)》的な、美メロをとろとろに歌い上げる、さぁみんな、泣いてくれと、ドラムのシンバルさえもがつぶやいているバラード命系。


実は、マイケルはこのJ.B.パターンを頑固なくらいに踏襲している。


前者は、たとえば《Billie Jean》、《Bad》、《Smooth Criminal》、《Scream》、《Blood On The Dance Floor》、《You Rock My World》…

後者は、言うまでもなく、《Heal The World》や《You Are Not Alone》の、あの世界である。…いやぁ…、曲名打ち込んだだけで泣きそうになるね…


実際、マイケルのダンサブルな曲は、ドンッ、カーンッ、ドンッ、カーンッ…と言う感じで、とにかく、きつい。


スネア(…シンクラヴィアだけど笑)、破れそう(笑)。


やたら、きつい。


きつきつ。


はげしい。


どす黒い。


真黒。


本家ジェイムズ・ブラウン以外で、ここまでどぎついグルーヴ・ミュージックを形成し続けたのは、マイケルだけなのではないか。

マイケルの曲が、まるでポップに聞こえてしまうのは、単に、あの美声に騙されているだけである。




《Ghosts》





マイケルの曲の半数以上は、そもそも、メロディらしいメロディなど存在しない曲である。

そして、逆に、当たり前だが、美声のスペシャル・シンガーが、いわゆる美メロを歌い上げてしまったときの、美しさは、最早、言葉もない透明な戦慄と化す。…




《クライ(Cry)》





僕は、《インヴィンシブル》は、マイケル・ジャクソンが残した、最後の、もっとも美しい音楽集だと想う。

想いだすだけで、心がやさしく震える。


もっと聴かれるべきだし、事実、それらの音は、不思議なくらい、十年以上たった今も、古びてはいない。









* *



最後に、ステージ上のマイケルについて。

実は、これが一番言いたいことなのだが、


たとえば、この《ビリー・ジン》を見て欲しい。








ダンス、パフォーマンス、もう、いい意味で枯れきっていて、とにかく自在。力みなど一切ない。風や水のように、あまりの自然さで超絶無重力《ムーン・ウォーカー》身体能力が披露される。


実際、マイケルは、年を取ってからのほうがいい。若い頃は、この頃に比べると、なんか、まだ人間が踊ってる感じがする。


でも、そんなマイケル《月世界歩行》マジックに引っかかることをあえて拒絶して、客観的に、あくまで客観的に見て欲しい。


単純にこれ、変じゃない?


変、というより、痛い。なにかの残酷な公開処刑を見せられてる感じさえ、しませんか?


一人の男がいる。

それ以外には誰もいない。

薄暗いステージにスポットが当たり、それがいよいよその男の孤独を際立たせる。

黒人なのか、白人なのかも最早よくわからない、漂白されたような白さを、男の肌はただ、曝している。

抽象化された人類の標本、というか。

ある風変わりな芸術家がプロデュースした前衛主義舞台芸術のようにさえ、見える。

男は苦しそうだ。

苦しくて仕方ない。

存在していること、それ自体が、苦しく、痛い。

もはや、そんな存在論的苦痛。

…いや、存在していること、それ自体がただ、痛いのだ。

一人で男はそれに耐えている。

表情がゆがみ、身体は容赦なく、くの字に曲がる。

表情さえ隠したぼさぼさの髪の毛。

だぶだぶの、おしゃれとは断じていえないでたらめな格好。

無意味にいじられ続ける帽子。

耐え切れずに踏まれはじめる地団駄。

無意味に隠される口元。

にもかかわらず、人々の巨大な歓声が男を包む。

そして男は、最初から最後まで、にこりともしない。

それどころか、目線をあわせようともしないのだ。

ただひとりで、無際限な苦しみに、耐え続けている…

ついに、最後の最後で、男は無意味な、長い長い叫び声をあげてしまう。

もう、それしか出来ないんだ、とばかりに。

そして、すべては終焉の時を一気に迎える。


これのどこがエンターテイメントなんだ?


寧ろ、凄惨な集団虐待の現場そのものじゃないか。


たとえば、宇宙人が人類が滅びた後にやってきて、このマイケルの姿を見たら、頭を抱えるのではないか。


…ねぇ、これ、一体、なに?

この星の知的生命体、一体、なにやってたの?


そして、人類なら、僕でも誰でも、このステージを見たら、食い入るように見入って、盛り上がってしまうに違いないのだ。


それが逆らえない生理であるかのように。


ときどき、客観的になることがあって、ときどき、本当に、ゾクッとする。


うまく言えないし、こういうことを不用意に言ってはならないことくらい自覚しているのだが、なんか、…磔刑のキリスト。

磔になったキリストに、処刑人ピラトが言う。どちらか一人だけ解放してやろう。盗賊バラバか?救世主イエスか?

群集は歓喜して叫ぶ。「…バラバを!盗賊を解放してやれ!救世主に死を!救世主に磔刑をくれてやれ!」

巻き起こる、怒号のような、群集の歓声…

集団ヒステリー?…いや、むしろ留保無き混乱と熱狂そのものだ。


本当にそんな風景が二千年まえにあったのかどうかは知らない。

しかし、福音書は、そう描写している。

イエス・キリストの受難劇(Passion)

そんな風景。…


ステージ上のマイケルは、そんな、世界の約1/3の人々の原風景を、抽象的に表現しているかのように見えるときがある。


もしも、僕が哲学者だったら、マイケルで、「資本論」くらいの分量の本を書いてしまう気がする。


だから、マイケルが何ものだったのか、あるいは人類にとって、マイケルとは何ものだったのか、僕には未だにわからない。


とてもではないが、《思い出のアイドル》《思い出のシンガー》などには、なってはくれない、いまだにリアルに痛い傷口のように、僕の心の中に存在している。


…君は、だれ?

もし、マイケルに会えたら、そう、尋ねてみたい。




2018.06.11

Seno-Le Ma