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粋なカエサル

「『コロンブス交換』とパルマンティエ」

2018.06.11 23:05

  パリのメトロ3番線。「レピュブリック」駅の次(「ペール・ラシェーズ」方向)は「パルマンティエ」駅。パルマンティエとはフランスにおけるジャガイモの普及に大きな貢献をしたアントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエ(薬剤師、農学者)。「アッシ・パルマンティエ」などジャガイモ料理にその名を残している。駅のホームには、パルマンティエが農民にジャガイモを手渡している像が立っている。また、彼の功績を含め、フランスにおけるジャガイモの普及の歴史を説明したパネル、ジャガイモ図も掲げられている。パルマンティエは1737年に生まれ1818年に亡くなっている。フランス革命、ナポレオン戦争(ナポレオンは1815年、ワーテルローの戦いに敗れセント・ヘレナ島に流された)の激動期を生きた。逆に、この時代にようやくフランスではジャガイモが普及し始めたということで、いかにジャガイモが長い間フランスでは敬遠されていたかがわかる。

 ジャガイモが初めてパリに姿を見せたのは1665年。それから100年以上たった1782年でさえ、次のように書かれている。

「それ(ジャガイモ)はパリでは無名ではないけれども、もっぱら下層階級の人々の食物であり、一定の社会的地位のある人々はそれが食卓にのっているのを見ると、自らの権威が損なわれたと考える」(ルグラン・ドシー)

 ジャガイモの普及の壁になっていた大きな要因に、「ジャガイモを食べるとらい病(ハンセン病)になる」という偏見、迷信があった。ジャガイモの芽に含まれる毒とこぶ状の形態が生み出したもの。1630年代、フランス東部の都市ブザソンの議会では、「ジャガイモを増やすことは禁止する。もしこの禁を破れば、罰金を科す」という決定まで行なわれた。フランスでも、ジャガイモに対する偏見が大きく変わる転換点はやはり飢饉だった。アイルランドやドイツと比べ気候に恵まれていたフランスでも、18世紀になっても16回の飢饉が起こった。1770年の飢饉は特にひどかった。このとき数多くの人命を救ったのがジャガイモ。これをきっかけに、一人の研究者がジャガイモ栽培の普及に立ち上がる。それがパルマンティエ。七年戦争(1756-63)でプロシア軍の捕虜となった彼は、ジャガイモを食べて生き延びた経験から、帰国後ルイ16世の庇護のもとにジャガイモ栽培の普及を図る。1789年に4500㏊だった栽培面積は、1892年には151万2136㏊にまで拡大。なんと300倍以上!もう少しジャガイモの普及が早ければ、フランス革命は起きなかったかもしれない(ちなみに食糧の自給を目指したナポレオンもパルマンティエの提唱したジャガイモプロジェクトに財政援助。ナポレオン時代に、ジャガイモ生産量は約15倍に急上昇したと推定されている)。

 ところで2016年4月1日、フランスでこんなニュースが流れた。「パリ地下鉄当局RATPは、市内の13の駅の名称を突如変更しました」というのだ。例えば、「「アレクサンドル・デュマ駅」(Alexandre Dumas)は、少し飽きてきたので、彼の作品名に変えて「三銃士駅」(Les trois mousquetaires)に変更します。」と。「パルマンティエ駅」(Parmentier)も変更の対象に。新しい名前は、もちろん、「ポム・ド・テール Pomme de terre 駅」。「じゃがいも駅」だ。。そんな駅名、今パリにないぞ、なんて怒らないでください。ニュースが流れた日は4月1日でした。

(パルマンティエのジャガイモ農場を訪れるルイ16世とマリー・アントワネット)

(マリー・アントワネットにジャガイモの花のブーケを渡そうとするパルマンティエ)

薔薇のイメージが強いマリー・アントワネットだが、ルソーの思想「自然に帰れ」を信奉していた。素朴なジャガイモの花も気に入ったに違いない。

(ジャガイモの花)

(アドルフ・ウルリッヒ・ヴェルトミューラー「マリー・アントワネットと二人の子ども」スウェーデン国立美術館)

(プチ・トリアノンの庭「アモ―(小村落)」)

マリー・アントワネットは莫大な金をつぎ込んで人工的な村をつくらせ、くつろぎの時間を過ごした

(農学者パルマンティエ)ジャガイモの花のブーケを手にしている

(メトロ3番線 パルマンティエ駅)①フランスのジャガイモ史のパネル

(メトロ3番線 パルマンティエ駅)②農民にジャガイモを渡すパルマンティエ

(メトロ3番線 パルマンティエ駅)③ジャガイモの絵図