「宇田川源流」【宇田川教育論】 教育におけるAI活用を政府は議論できるのか
「宇田川源流」【宇田川教育論】 教育におけるAI活用を政府は議論できるのか
毎週水曜日は「宇田川教育論」か「大河ドラマ」に関してお話をさせていただいている。ニュースの解説ばかりでは肩が凝ってしまうので、州の真ん中は少し気を抜いた話ができるようにということで、大河ドラマに関しては「現在よりも過去について、そしてテレビドラマということに関して話をする」ということを、また「宇田川教育論」に関しては「若者を教育するということを通して、日本の将来を考える」ということをテーマにしている。要するに水曜日は、いつの間にか「現在ではなく、過去や未来を語る日」というようなテーマになりつつある。もちろんそのようなことをはじめから企画したわけではないのであるが、いつの間にかそのようなテーマになっていることに、連休中に考えて見えてきたのである。
さて、今回も「未来」について書いているのであるが、最近の教育に関するニュースはだいたい「受験に関する事」「教育の現場でこのようなことが行われている」という二つの定番の内容に併せて、「コロナウイルス5類移行で何が変わるのか」ということと「受験や教育のお金の話」そして「どのような大学や高校が選ばれているか」というような話が中心になっている。基本的に「教育」とは、本来「人間としてどのように育てる(子供が成長する)野かということであって、「学歴」や「偏差値」とは全く関係がないということになるはずだが、残念ながら日本の場合は「記憶」を中心にした内容だけが出てくるような感じいなってしまっているのである。そして、そのことを題材にして海外の教育との比較ということを書くことも少なくない。そのような記事そのものは、ある意味で「気づき」があるのだが、それだけではなく、様々な内容を見ることができるのである。
ところで、最近のニュースのトレンドの中に急に現れたのが、「G7」の教育担当相会議である。今年は日本が議長国なので永岡文部科学大臣が議長国になり、サンプルも日本の教育機関を海外の大臣が視察をするということになる。その内容はなかなか興味深いし、またその内容がどこに向かってゆくのかということが大きな問題になろう。そしてもう一つは「チャットGPT」や「AI」についての内容が大きな議題になっているようである。技術の進歩と教育ということは当然にリンクしてくるしその時代の流れに取り残された教育は必要はない。そのように考えればこれらが話題になるということは当然の事なのかもしれないが、しかし、その内容がなかなか迷走しているように見えるのは私だけではないのかもしれない。
AI活用へルール策定、政府の戦略会議初会合…チャットGPT念頭に「著作権は重要な論点」
政府は11日午前、人工知能(AI)に関する政策の方向性を議論する「AI戦略会議」の初会合を首相官邸で開いた。対話型AIサービス「チャットGPT」など生成AI技術の利用が急速に広がるなか、著作権の侵害など弊害への懸念も指摘されている。政府は有識者の意見を踏まえ、AIの活用推進のあり方と同時に、規制やルール作りの検討を進める方針だ。
会議の座長には、AI研究の第一人者である松尾豊・東大教授が就任。AIの活用やAIと社会との接点に詳しい大学教授や弁護士、企業経営者らが有識者として参加する。初会合には、高市科学技術相や松本総務相、西村経済産業相ら関係閣僚らも出席した。
岸田首相は会合で、「AIには経済社会を前向きに変えるポテンシャル(潜在力)とリスクがあり、両者に適切に対応していくことが重要だ」と語った。その上で、会議の下に設置したAI戦略チームで、村井英樹首相補佐官を中心に「ポテンシャルの最大化とリスクへの対応」を早急に検討するよう指示した。6月に政府が閣議決定する「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」などに反映させる考えも示した。
生成AIは、インターネット上の膨大なデータを学習し、利用者の質問や指示を受け、自然な表現の回答や画像などを作成する。作業の効率化が期待される一方、プライバシーや著作権の侵害、偽情報の拡散、子どもの学習への悪影響などの懸念が指摘されている。
松尾氏は会合後、記者団にAI技術の利用は「社会全体の課題解決や産業競争力につながる」と指摘し、「セキュリティー、プライバシー、著作権は重要な論点だ」とも語った。会合ではAI技術の開発の進め方も議論された。
先月開かれた先進7か国(G7)デジタル・技術相会合では、共通のルールに基づき個人情報の保護や偽情報に対処した「責任あるAI」の推進を掲げた共同声明が採択された。首相は、19日から広島市で開くG7首脳会議(サミット)でも、AIに関する国際ルールのあり方に関する議論を主導したい考えだ。
2023/05/11 12:45 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20230511-OYT1T50123/
G7に関しては、またの機会に行うものとして、今回は「チャットGPT」について考えてみたい。
AIを利用するかどうかというようなことは、基本的には「あまり生産的な質問」とは言えない。構造がわかってなおかつ、安全であり確実であればだれもが使うようになる。辞書であっても同じであるが、昔は(今も私は紙を使っているが)紙の辞書を使っていた。広辞苑など分厚い辞書だけではなく、普通の国語辞典や英和辞典を使うのは、小学校以来40年以上慣れている。しかし、それらだけではなく「デジタル辞書」というキーボードのついたものも存在する。こちらはコンパクトで軽くて、なおかつその中は大容量である。しかし、一方で「紙の辞書」とは異なり、周辺の「ついで需要」が目指せない。隣の単語などを見て気づきが存在しないということになるのである。そのように考えれば、AIの良し悪しではなく、AIができたことによって「AIがあるという前提」で物事を話さなければならない。それは核兵器と同じで、「無くすことはできない」ということではないかと思うのである。
では、その前提で教育の現場ではどのようにするのか。日本の場合は、教育や官僚の行う基準というのは、かなり時代の流れからは取り残された内容になってしまっていると考えてまちがいがない。つまり「教育そのもの」の中に「AI」が制度的に取り入れられ、それを政府が認証するまでには時間がかかる。逆に言えば「その端境期」に何が起きるのかということがあるのと、「端境期がどれくらいの期間存在するのか」ということが大きな問題になるのではないか。
その政府の動きの中で人工知能(AI)に関する政策の方向性を議論する「AI戦略会議」の初会合が首相官邸で開かれた。さて、AIに関してはまた別な機会にしっかりと行うことにするが、今回開かれたのはG7でこのことが話題になるから行ったのにすぎず、本腰を入れて行うというものではない。そのように考えれば、教育の所ではまだまだということになるのではないか。しかし、そのようなことを言っている間に「大人よりも子供が先にAIを使いこなす」というのが現状であって、政府の対応がどんどんと遅れるのだ。
「新しい技術ができれば、新しい犯罪ができる」という言葉があるが、まさに頭の柔らかい子供たちが最も先にそれらの内容を行うことになるのだ。では学校の現場はどうなのか。そもそも「理解していない人々」がいる中で、その教育が行われるはずがない。ある意味でそのようなことをしなければならないのである。
学校の現場などにおいて「年功序列」というようなことは「記憶にかかる教育」が行われている状況では、まだまだAIを使いこなした教育ができなくなる。そのことは日本を推戴に導くのではないか。そのようにならないように「天才キッズ」が現れることを望む。