虚無と無常
https://blog.goo.ne.jp/protozoa13/e/913051e7256d02ce0899f788befc37fb 【虚無と無常】より
よくわからんが、感想だけ言うと、虚無は観念。無常は真理。
無常だけは誰が何と言おうと真理だ。常は無いのは当然の話だ。でもさ、全ては「虚で無」って本当なの? 虚無を語るのなら「無」を証明しなけけりゃならない。無ってなによ。無いはわかる、無いんだろ。でも「無」はわかんない。
虚無を言葉通りに受け取るなら、この世は嘘で、全ては無いぐらいの意味か。
嘘は有るよな。この世の全てが嘘だ。だから虚無の無はその嘘を含んだ全てが無であるいう意味だろう。あるいは全てが嘘で無だということだろうか。
あのさ。嘘を嘘と認めた時点で、無は成立しないんだよ。嘘はけしてゼロから成立しない。だから虚無など観念にしかすぎないと俺には思える。
https://chisan.or.jp/shinpukuji/center/workshop/forum/%E7%A9%BA%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%9F%E3%80%80%E2%80%95%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6%E2%80%95/ 【空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ―】より
講師:東京大学教授 斎藤 明 先生
空についての五つの誤解
空とは何でしょう? 最初に、空についての代表的な五つの誤解をみることで、空を考えるきっかけにしたいと思います。
一つ目の誤解は、「空は非存在(無)を意味するから、ある種のニヒリズム(虚無主義)である」というものです。これは、空を何も存在しないことと誤解したうえでの批判です。
そして二つ目が、「それゆえ空の説は、伝統的な仏説のみならず、すべての言語習慣や倫理・道徳を無意味なものとする。だから、空では倫理も成り立たない」という批判です。これもまた、空を非存在と誤解したうえでの非難なのですが、実際にはむしろ逆で、空、つまりすべては固有の本質をもたず変化しうるという理解に立つときに、言語習慣も道徳も修行によって凡夫が仏になることも可能になるというのがナーガールジュナ(龍樹)の考えでした。
三番目の誤解は「初期仏教の中心的な思想が無我、非我であるのに対して、空の思想は大乗仏教において初めて登場した」というものです。
修行時代のゴータマは、生老病死という問題を根源的に克服できる道を求めたわけですが、縁起の道理を見抜いたときに、四苦を克服できるのはニルヴァーナ(涅槃)という境地であり、日常の経験を超越した自分が四苦を解決するのではないということを悟りました。そして、苦しみは過度に自分自身に執着することから生じるのであり、ニルヴァーナのために無我、非我を説きました。このように、お釈迦さまが説かれたのは無我ということであり、空という考えはお釈迦さまの時代にはなかったという誤解です。
縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に「無我(心身の諸法は我をもたないこと)」「非我(心身の諸法は我でないこと)」を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。
また、後にみるように無我を観想する三昧を「空三昧」と呼び、「無相三昧」「無願三昧」と並ぶ「三三昧」の一つとしてその重要性を強調していました。こうしてみると、空は大乗仏教になってから登場したわけではなく、ブッダの時代からすでにあった思想を、さらに敷衍して「諸法は固有・不変の本質をもたない」という意味で説いたという流れであることが分かると思います。
四番目は「空は無自性、つまりすべての事物が、それ自身の固有の本質を欠くことを意味する」というものです。一見すると正解のようにも聞こえますが、ただしこれは「空」という言葉の意味を述べているのであって、「空」という語が用いられたのは、「空でない」という誤解、つまり「事物には固有の本質がある」という錯覚が人びとにあるからだというのです。ただしポイントは、「空」という言葉の意味に尽きるのでなく、「空」という言葉で表現された「空そのもの」が探究され、体得されるべきである、というところにあります。このことは後に述べたいと思います。
最後の五番目の誤解は「空の思想は、唯識や如来蔵、仏性、本覚などの他の大乗思想と矛盾する」というものです。唯識説は、すべては識のみであるという思想で、識の存在を認める。如来蔵説はすべての有情(衆生)は如来の見えざる子(胎児)であると説き、仏性説によれば、すべての有情は仏の本性をもっているという。一方また、本覚思想はすべての有情は本来目覚めているという思想です。
空の説はこれらと矛盾するという批判ですが、これもまた誤解にもとづいています。これらの説は、煩悩に限定して空を説くなど、空の意味合いを微妙に変えるのですが、空の説そのものを否定することはありません。
空をめぐるこのような五つのポイントを念頭に置いたうえで、これからもう少し詳しく空についてみていきたいと思います。
空と空観の実践
空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」とか「王国に王がいない」というような時に使われ、「期待される何かを欠いた」状態を示します。ですからシューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや、数学のゼロを意味します。この空を仏教では「AはBを欠いている」あるいは「AにはBがない」などと用いました。この場合のAには「諸法」が、Bには実体的な「自我(アートマン)」や実体的な「固有の本質」などが入ることになります。
空ということばの使われ方を歴史的に見ていきますと、初期仏教やその後のアビダルマ仏教の時代には禅定と結びついた実践的な意味合いが強調されます。例えば『スッタ・ニパータ』(1119)には「つねに心して自我に固執する見解をとり除き、世間を空と観察せよ。そうするなら死を乗り超えるであろう。」とあり、先ほどの三番目の誤解の箇所でみたように、「無我(非我)観」にもとづいて五蘊など自分を構成する要素、世間を構成する諸要素(諸法)が無我であると、空を観察することの重要性が説かれています。
やがて、自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、過度に期待することなく願い求めるものがないことを観察する無願三昧の、三つの瞑想を実践する「三三昧」が説かれるようになります。
『般若経』、ナーガールジュナの空
このような背景のもと、『般若経』は、実践徳目として智慧の完成(般若波羅蜜)の重要性を強調します。そしてブッダの悟りの本質もこの智慧の完成であるとし、智慧の完成を求める者すべてを菩薩と呼びました。そして菩薩は、悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、この無執着のあり方を「空」と呼びました。
『般若経』が智慧の完成とともに、無執着のあり方としての空を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、諸法、すなわち心身の諸要素――ひろくは事物の構成要素――には固有・不変の本質がある、と解釈することへの強い批判があったからです。そしてこの『般若経』の空をより詳細に考察し、伝統部派による縁起解釈に対して、「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」という空の立場から改めて批判したのがナーガールジュナでした。
冒頭の四番目の誤解でみたように、空の立場からは、すべてのものは他に依存して生起するのだから、固有・不変の本質をもった存在、言いかえるなら固定的な存在としてあり続けることはない。氷と水の関係で考えてみますと、氷が水からできるのであれば、氷と水が別だとか同じだとか言うことはできません。そこには連続性もあり不連続性もあります。様態や働きによって名前も変わります。このように、氷と水は同じか別かという問いは、観点によって答えも違ってくるのです。これがブッダの本意であり、縁起の正しい捉え方なので、『般若経』の縁起(=空)解釈こそが本来のブッダの教えに直結しているのだと論じたのです。
概念(戯論)からの解放
また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います。つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待されるということです。とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。ただし、空が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています。
ナーガールジュナによれば、このような理解こそがひとびとを煩悩から解放し、じつはそれこそがブッダ自身の本来の煩悩論にほかならないというのです。
”それ”は在る bot@o0690oo
〈今ここ〉とは、時間の中にあるのではない。確かに、直線的な時間の流れの中に〈今ここ〉があるように思える。だがそうではないのだ。〈今ここ〉の中に、時間と空間の幻想があるのである。それは何を意味するのだろうか。〈今ここ〉とはつまり、未知なのだ。未知の領域なのだ。
OSHO International@OSHO_Japanese
生を理解しようとせず、生を生きる。愛を理解しようとせず、愛の中に入っていく。そうすれば、知るだろう。その智はあなたの体験から生まれる。Osho「死のアート」
サルトルbot@jpsartre_bot
そして私はただ一つしかなすべき返答をもたなかった。「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」と。いかなる一般道徳も、何をなすべきかを指示することはできない。この世界に指標はないのである。
以前思春期の自分のささやかなレジスタンスぶりを紹介しました。
この頃の自分はむしろ偽悪者を目指していたのかもしれません。
虚無に目覚めた中学時代のある日から 毎日やり続けていた氣象観測もぴたりと止め、レギオン遍歴をはじめました。
授業は興味が持てないとボイコットに徹するのですが(教科担任に帰れと言われ 帰ると次回からは教室に入れないと宣告されました。クラス担任が平謝りに謝って 事なきを得たこともありました。)
試験をボイコットした時も クラス担任が自宅まで 車で迎えに来てくれました。
教科書持ち込みでいいから 追試を受けるよう言われましたが、授業が進めば そこまでの教科書は破り捨てていましたので 持ち込み用の教科書もありません。
その後はどうなったか記憶にないのですが退学届まで提出し、突き返された高校を 無事卒業してしまいました。
休み時間は職員室に入り浸りの 不思議な少女でした。教師たちには主に「生きる意味」を尋ね続けるのです。
ある理科の教師が 「命とはリトマス反応のようなものだよ」とそっけなく言い切りました。
(今はわかる氣がします)
教師たちもニヒリストが多く逆に「死ぬ自由があるものとないものとどちらが幸せだと思うか?」「浦島太郎はなぜ老人になったと思うか?」などチンケナ質問をされてしまいました。
授業中はチョークを投げつける教師が自宅にまで招待してくれました。
理科室、図書室はフリーパス。図書室は高校生になってからもフリーパスでした。
こんなは真面目か不真面目か決められますか?
意味を問う落とし穴は 無知の底なし沼、レギオンの墓場となりました。
善悪を区別してすっきりしようとする独善からようやく解放され続けています。
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。
その中で「人に言われて 嬉しかった言葉」を書き出す作業をします。
いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが 良く分ります。
若い頃の和多志はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。
しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。
(無関係かもしれませんが 和多志が優の字が好きなのは 人が憂うと書くからです。
憂いを知る人は優しく優れている、優秀ともいえます。)
道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
・
ひところ不登校が話題になりました。「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな 要因と言われました。
善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りから評価を得 人生を勝ち取る大きな力になります。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は氣づいても手放す(自由になる)のが困難です。
【進化は退化?】
創世記2:7
「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
ヨブ記34:14-15
「神がもしその霊をご自分に取りもどし、その息をご自分に取りあつめられるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」
聖書には人間は土の塵から創られ土に返っていく存在だと 語られています。
更に神の息(=聖霊、風)を吹き入れられ生きるものとなったとも記されています。
命は大地から生まれ、大地に帰る存在。大地を通して循環し続けるエネルギー。そのエネルギーに神の息が吹き込まれ生きるものとなった。神の息が取り去られると(抜けると)肉体は滅び土に帰ると聖書は語ります。
聖書の神話表現を 今日的な言葉で置き換えると 肉体は大地から生まれ 神の息(霊魂)が去れば肉体の死が訪れ、大地に帰り その成分は循環し続ける。シーターヒーリングでは受胎するとしばらくたって 魂が(今世を生きる目的をもって)受精卵を選んで入り、命として成長してゆくと伝えます。(選択が間違っていたと感じるときは 出て行き流産)
こんな大地につながる命の存在が 大地から切り離されるとパワーを失うのはあまりにも明確です。
大地には過去との繋がりや現在の自己を確認できる時間と、柔軟で奥行きがあり、光や風、土や緑、生命のエネルギーと動きが感じられる空間があります。
しかし現代人はコンクリートジャングルといわれる乱立するビルの谷間に住み 大地はアスファルトやコンクリートで塗り固められ 大地と切り離された命を生きています。
より安全に、より快適に自然を克服し、支配する科学万能主義は「天空の城ラピュタの物語」を連想させます。バベルの塔、大国主命の国譲りの条件の話・・・etc.和多志たち人類は大地に根差すことより 天高く昇ることを求める生き物であることを 示すのでしょうか?
安全、快適、便利さを求めて進化してきた人間は 本来供えられていた機能を退化させ 五感、エネルギー感覚を失い 今や人口脳に支配される明日さえ杞憂される程になりました。
まさに大宇宙の愛と調和のエネルギーと響きあい 本来の姿を取り戻す必要を痛感します。
Facebookごとう 孝二さん投稿記事·
「アホになる修行の極意」 〜魂を解放せよ〜
「光も陰もまるごと肯定する」
「自由を獲得するためには、こだわりを捨てること、遊びの精神を忘れないこと、言葉に縛られないこと、頭でなく身体の言うことを聞くこと、すなわち、アホになることである。
アホになることは容易ではない」「願わくば、もっとアホになる必要がある」
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Facebook相田 公弘さん投稿記事 【ピンチはチャンス】
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「この出来事は、なんのチャンスだろう」
「この出来事は自分に何を教えようとしているのだろう」
「この出来事から、さらに自分が 成長することはできないだろうか」
困ったと思い続ける限り困ったことがやってくる。しかし、上記のように自分に質問をした途端、意識が3秒で変わる。「困った波動」から瞬時に抜け出せるのです。
まさに魔法の質問!
「すべての出来事は前向きに考えればチャンスとなり、後ろ向きに考えればピンチとなる。
問題が起きたことが問題ではなく、どう考えたかが本当の問題である」(福島 正伸)
※いい言葉は人生を変えるより
https://note.com/shuoffice/n/ndecd472e5619?fbclid=IwAR2honye8LKXCe9Oh1aE9nDEaE_pp4gRLvxrcAu9IgD2-Uuaer7a-6GdI84 【「ひふみ祝詞」ありのままであなたはすばらしい】より
天児屋命のうた「天岩戸開き」
ひふみーーーーーーさあはじめよう よいむなやーーーーこのはかり事は正しいのか
こともちろらねーー事は満ちたのか しきるーーーーーー心を落ち着け考えよう
ゆゐつわぬーーーーゆるやかな衣服を着て そをたはくめかーー軽やかに踊る女に
うおえ ーーーーーーまさに合わせて踊っているうちに にさりへてーーーー悩みは消え去る
のますあせゑほれけーーーそのままありのままであなたはすばらしいのです
by Dr.Shu 五島秀一オリジナル解釈
(現代仮名遣いに直してあります)
カタカムナツアーの際に口ずさんだ「あせゑほれけ」
https://www.youtube.com/watch?v=dNqoQnKDEcQ
https://www.youtube.com/watch?v=kPN3jxWYf2c&t=9s