Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

粋なカエサル

「最果ての地、旅立ちの地『サグレス岬』」

2018.06.14 01:02

 1985年刊行の作家沢木耕太郎の自伝的紀行小説『深夜特急』。バックパッカーのバイブルと呼ばれ、累計600万部の大ヒットを記録し、既に古典の風格すら備えている。この中で、無期限の長い旅を続けていた「私」(沢木)が旅を終える決断をする場所がある。サグレス岬である。

「サグレスから1時間ほど歩くと 灯台がぽつんと建っているだけの崖に着く。そこがユーラシア大陸の果ての岬だった。ふと、私はここに来るために長い旅を続けてきたのではないだろうか、と思った。いくつもの偶然が私をここに連れてきてくれた。その偶然を神などという言葉で置き換える必要はない。それは、風であり、水であり、そう、バスなのだ。私は乗り合いバスに揺られてここまで来た。乗り合いバスがここまで連れてきてくれたのだ・・・・・。私はそのゴツゴツした岩の上に寝そべり、いつまでも崖に打ち寄せる大西洋の波の音を聞いていた。」

 そして翌日のサグレスのホテルでの夕食。ポルトガル語で紅茶のことを「CHA」と言うと知って驚愕。

「何ということだろう ユーラシアの果ての国から出発して、アジアからヨーロッパへ、仏教、イスラム教の国からキリスト教の国へ、チャイ、チャといった「C」の茶の国からティー、テといった「T」の茶の国に入ったものとばかり思っていた。ところがそこを通り過ぎ、ユーラシアのもう一方の端の国まで来てみると、茶はふたたび「C」で始まる単語になっていたのだ。私は「C」より出でて、今ふたたび「C」に到ったのだ・・・ 翌朝、朝の光の降り注ぐテラスで食事をとりながら、これで終わりにしょうかな、と思った。」

 沢木に「これで終わりにしょうかな」と思わせたサグレス岬(沢木がホテルから歩いて行ったユーラシア大陸の南西端は「サン・ヴィセンテ岬」)。ここに航海学校の跡が残っている。つくったのは、大航海時代の先駆けとなったポルトガルを率いたエンリケ航海王子。彼は、航海術や造船、地理学など、様々な分野の学者を東西から招き、航海学校のような海洋学研究所を作ったと言われる。  作家司馬遼太郎も、ここを訪れている。リスボンの街で、大理石の「ベレンの塔」(司馬遼太郎は「テージョ川の公女」と呼んだ)や「ジェロニモス修道院」(ヴァスコ・ダ・ガマの石棺が安置)などの大航海時代の繁栄のあとを訪ねた司馬は、これらの繁栄を築いた航海王子エンリケの事績を追ってサグレス岬へとたどり着く。

「大地はせまくなっている。それでもイベリア半島を特徴づけるテーブル上の台地(メセタ)がつづき、山はない。日本では、山が海に沈んだところが岬だが、ここではまな板のような大地が海に向かっている。どの断崖も、ビスケットを割ったような断面である」(『南蛮のみち』)

 ここに世界最初の航海学校があったことを疑問視する考えを司馬は否定してこう述べる。

「… 台上にのぼりつめると、あやうく風に吹きとばされそうになった。その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここにはたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。エンリケ航海王子関係の原史料がほとんど消滅しているために、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのも、じつは伝説にすぎない、という説があるのだが、おそらく論者はこのサグレス岬にきて、ここに立ったことがないのではないか。ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖にはべつの潮流が流れている。さらに、ここにあっては風に活力がある。生きもののようにたえず変化しており、そのつど、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。ここには水もない。水ははるかに運んできて、節水して使わねばならない。そばに、練習用の船を繋船しておく入江もある。この突角 (ポンテ) は、自然地理的でなく、どこを見てもかつての人の営みがこびりついている。ここに航海学校がじつは無かったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである」 (同上)。   *「さかしら」=利口ぶること

 ユーラシア大陸の最果ての地サグレス岬。ここは多くの船乗り、冒険者、旅行者たちを新たな世界へ向かわせる旅立ちの地でもあった。

(サグレス岬) 左上がユーラシア大陸最南西端サン・ヴィセンテ岬

(サグレス岬)

(サグレス岬)  要塞跡=「航海学校」跡

(「エンリケ航海王子」サグレス)

(「エンリケ航海王子」アゾレス諸島サン・ミゲル島)

(サン・ヴィセンテ岬)

(ベレンノの塔) 世界遺産

(ジェロニモス修道院) 世界遺産

 建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた

(司馬遼太郎「南蛮の道」ポルトガル取材ルート)