”障がい児”っていう言葉
”障がい児”っていう言葉
障がいという言葉への偏見はなぜ変わらないのでしょうか。
障がい者=できない人、助けが必要な人、意思疎通が難しい人など人それぞれ障がい者のイメージがあると思います。
自分が友達と思っていた子に「お前、障がい児やろ」と言われたら悲しいだろうし、そんなこと言わなくても…と思います。なんで言われたら悲しいのか?嫌な感じがするのか・・・障がいという言葉への偏見がほとんどの人に共通に根付いているからだと思います。
昨今でもないですが障害の害の字を平仮名にしようとなってますが、それで皆さんの偏見は変化してるのでしょうか?
確かに障がいの中で左右のバランスが取れない人や何らかの原因で力の加減が分からない人、感情のコントロールが出来ない人など、それぞれ抱えている障がいがあり、それにより他者に危害が加わることもあります。
しかし現在放デイを利用されている子ども達の多くが抱えているのは社会環境、家族環境、物や情報が溢れて自分の判断能力が付かない、ゲームへの執着、添加物の多い食べ物など
社会的に共働き、女性の社会進出(賛否あると思いますが)により学校から帰宅しても誰も居なく自分も友達も各々自宅でゲームをして遊ぶ、晩御飯は一人で食べることが多い、コンビニ弁当やカップ麺、中にはお菓子が晩御飯の場合もある。
今日学校での出来事を話したくても誰も居ない。居てるときに話すと「忙しいから後で」と言われる。悩みも抱えたまま、その感情が収まるまで我慢。
相手してくれるのはゲームだけ。親も「ゲームさせとけば静かにしている」と思い込んで与える。
深夜までやっていても特に注意もしない。など環境によって伝えたい事が伝えられない、寂しいのに寂しいと言えない、最初からあきらめてしまう、考える(想像)することが面倒くさくなるなど色んな環境があり、色んな人物が輩出される訳なので、どの環境が正解で不正解 ということではありませんが、現代の環境により苦しんでいる子ども達が多いということは言えると思います。
放デイとしてどの様な関りをすれば良いのか?家に帰って早くゲームしたいと思っている子にゲームより楽しい事ってどんなことかな?と考えることが多いです。
しかし時間が経ちデイに慣れてくると子ども達同士で過ごすことが増えたり、ゲームなんて無くてもデイにある物で工夫して
遊んだりされます。たまたま同じくらいの子供が居てたので成り立ったということの環境かもしれませんが・・・
障がいという言葉に偏見があるなら言葉を変える、若しくはそもそも人は誰もが障がいを抱えていると考え、障がい者、児という言葉を廃止(使わなくする)すればいいと思います。
助けが必要と理解されなければならないのなら、「障がい者」ではなく「あなたの思いが助かる人」という言葉で良いと思います。
私がこの世界から居なくなって何年か先にそういう呼び方になっていたら良いのになぁと思います。
施設長 馬場