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いのちなりけり

2023.05.17 07:32

https://www.engakuji.or.jp/blog/34189/ 【【日曜説教ライブ配信(9/12)】いのちなりけり】

臨済禅師のある時のお説法にこういう言葉があります。「赤肉団上に一無位の真人有り」というのであります。

どういう意味かと申しますと、「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる」ということなのです。しかも、それが顔から出入りしているというのです。

まだ確認していない者は、今こそ看とどけよというお説法なのであります。

真人というのは、仏教では仏といっても同じであります。仏とは遠くにあるのではないのです。高いところにあって私たちは、それにひれ伏して伏し拝むというのではないのであります。私たちの裸一貫のこの身に具わっているというのです。

それが顔から出入りしているということは、目でものを見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったりしているはたらきをいいます。

それなのに仏が外にいると思って、或いは真理はどこか遠くにあると思って、外に向かって探しもとめます。

そういうことに対して、臨済禅師は、「君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師や仏と同じである」というのであります。

仏法は、すでにお互いに十分に具わっているのであります。そのことが信じ切れないで、外に向かって探し求めることを戒められたのでした。

銘々が生まれながらに具わっているもの、それは言葉を変えると、この「いのち」でありましょう。

この「いのち」について、語りたいと思っています。


https://www.engakuji.or.jp/blog/24387/ 【無位の真人(しんにん)有り】より

あるときの臨済禅師の説法に、次の一節がございます。

「上堂(じょうどう)。云く、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り。

常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。」

上堂は、お説法の座に上ることです。

この生身の肉体に、何の位階もない、価値判断のつけようもない真人がいる。それは常にあなた達の目や耳や鼻などの感覚器官から出入りしている。まだはっきり見届けていないものは、しっかりとよく看よ、看よと示されたのです。

すると「時に、僧有り、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅牀(ぜんしょう)を下って把住(はじゅう)して云く、道(い)え道(い)え。其の僧擬議(ぎぎ)す。」

一人の僧が、進み出て臨済禪師に質問しました。どのようなのが、位階のない真人なのでしょうかと。

すると臨済禅師は、その僧の胸ぐらを捕まえて、「さあ、言え、言え」と迫りました。僧がなにか言おうとすると、「師托開(たっかい)して云く、無位の真人是れ什麽(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ、といって便(すなわ)ち方丈に帰る。」

臨済禅師は、突き放して、位階のない真人が何たる屎棒かと言って、自室へ帰ってゆかれたというのです。臨済禪師の教えの中でも、特に有名な一節であります。 (禅文化研究所『臨済録』表紙より)

無位の真人とは、何でありましょうか。

お互いの目や耳や鼻を通して出入りしているのは、何でありましょうか。

臨済禅師は或る日の説法では、「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外に求めてはならない。今この目の前でこの説法を聴いているものだ」と実に端的を示されています。

では一体何ものが聴いているのでありましょうか。

耳が聴いているのでしょうか、頭脳が聴いているのでしょうか。

耳で聴いているのであって、耳が聴くのではありません。耳を通して何ものかが聴いているのです。頭脳を使って何ものかが認識し判断しているのです。

その何ものかを仏であると臨済禅師は喝破されました。しかもそれは何の位階にも属さないし、枠にもはめられることもない、すばらしい真人だと説かれたのでした。

お互いの生身の肉体にすばらしい真人がはたらいていながら、この質問した僧のように気がついていなので、臨済禅師は決して外に向かって求めてはならないと戒められたのです。

外に求めず、静かに坐って、今ここに聴いているものは何ものか求めることです。

そうしてこの身体に確かにはたらいている真人を自覚することです。

真人は誰にも奪われることはありません。

これを、心を澄ませて自らのうちに向かって求め続けることが、坐禅であります。

(雪安居入制大摂心提唱より)


一指李承憲@ILCHIjp

私たちは鼻で虚空を吸い込んでいます。

体の外に虚空があるように体の内にも虚空があります。

2つの虚空は互いにつながっていて身体の外の大きな虚空が病めば身体の内の小さな虚空も病みます。


一指李承憲@ILCHIjp

「現在」の中でのみ選択でき、今現在の選択が未来を作ります。今を見失えば未来もありません。現在の選択と行動で過去の情報を新たにし、未来を準備できます。すべての瞬間に新たな機会と出会え、今この瞬間、新たにスタートできます。過去の何も今この瞬間の新しさと神聖さを損なうことはできません。


Facebook相田 公弘·さん投稿記事

『 歩く 』という字は『 少し 』『止まる』と書きます無理して急がなくていいんです!

他人のペースにあわせなくていいんです!

あなただけのゴールに向かってあなたのペースで確実に一歩一歩しっかり進んでいきましょう!  ※いい言葉は人生を変えるより


作家しりこだま(しりこ)@shiriko1971

何も決めないなら何も始まらない。そんなこと分かってるよ。でも心が傷ついた君を、これ以上は急がせたくない。現実逃避したっていいじゃん。現実逃避は君にとって現実応戦でもある。生きてゆく為のランナウェイ。僕は君の味方でいたいだけ。君の日常に平穏が訪れた時、あんみつを食べにいきませんか?


Facebook山地 弘純さん投稿記事

【うまくいくから大丈夫。でもね、うまくいかなくても、やっぱり大丈夫】

がん治療のサイモントン療法の講座の時に学んだことがある。

「不安、恐怖を消すよりも、それより大きな大丈夫を育てていこう」ということについてなんだけどね。まずネガティヴでは、ガンがどんどん進行していってしまう。

「やっぱりポジティブか」と思った僕に、ポジティブシンキングではないとの言葉が。

「絶対にできるから大丈夫」という思考法では実は危ういんだって。

絶対できるから!できないなんて思っちゃダメ!そんなことを思うとできなくなるから。

絶対大丈夫!自分を信じて!

例えば、イチロー選手みたいになりたいと夢に向かう子どもたち。そこに偏ったポジティブシンキングを与えられ、「絶対にできる」とのマインドを植え付けられながら日々練習に励んで過ごしているとしたら。

一部の夢を叶えられた人によってその思考法はスポットライトを浴びる。

だけど、その陰で夢破れて何も見失い、大丈夫ではなくなった子どもたちがたくさんいるってことを、みんなは見えていない。健全な思考法とはどういうことなのか。という説明があった。

それは、「きっとうまくいくから大丈夫!でもね、もしうまくいかなかったとしたら、、、

それでもやっぱり大丈夫!」これは目から鱗だったね。

がん治療におけるマインドは、ネガティヴでもなく、ポジティブでもなく、その両面にマルをつける、まさに陰陽統合の思考法だった。

そういう健全思考な人のガンは、なんか知らんけど消えることがあるんだって。

僕はこれを聞いて以降、「大丈夫っ教」を発信し始めたくらい、心に響いたな〜。

引き寄せの法則でも、この罠にはまってる人がいるものね。心が現実を作るから、「思わなきゃダメ」「思っちゃダメ」みたいな。

片面はしんどいよね。両面が大切だよね。そうヒシヒシと感じる今日この頃。

それでね、子どもとのやり取りで、まさにそれを実感する出来事があったんだ。

昨日お風呂に入っている時に長女が、深妙な表情で話があると言った。

「誰にも言わないでね」と断ってから、「今日失敗しちゃったの。バスを降りる時にピンポンを早く押しすぎちゃって、熊谷小学校のところのバス停に止まっちゃった。それで間違えましたって言ったの。」田舎のバスは降りるバス停の前でチャイムを押さないと止まらないんだけど、どうやら一つ前のバス停に降りることになりそうだったらしい。

「へー、ちゃんと間違えましたって言えたんだ。すごいね」「でも失敗しちゃった」

「え、失敗?」「失敗しちゃったよ〜」そういいながら長女はボロポロと涙をこぼした。

「失敗だと思うの?そんなことないよ〜」「でも、でも〜」

「先生も言ってたよね。失敗していいよ。どんどん失敗していいんだよって」

「だけど、もう学校に行きたくない。」え、え、え、

僕は焦ったね。これだけで?これだけのことで?

泣きじゃくる長女をなだめながら、僕はただただ言葉だけの大丈夫を与え続けた。

「そうだ、明日の朝、練習しよ。ピンポンをうまく鳴らせるように。朝早く起きて、ちょっとだけ車で連れて行ってあげるから、ピンポン鳴らす練習しよ」

その言葉になんとかかんとか頷いた長女だったけど、暗い表情で布団に潜り込んでいた。

次の日の朝、やっぱり学校へ行くことに不安そうな長女を連れて、バスが来る前に車で連れ出し練習した。

こんなしょうもないことで悩むんだな〜やれやれと思ったけれど、そういえば子どもの頃にどこで鳴らそうかとタイミングを一生懸命計っていた僕の姿が記憶に蘇る。

僕の子どもだもんな。臆病で仕方ないよな。そんな遺伝子の繋がりの濃さに苦笑いした。

練習というほどでもない練習を何度かして、「もううまくやれるよね?」って聞くと、「うん」という返事。なのに浮かない顔。

「どうしたの?もうバッチリ大丈夫だよ!」「だけど。。。」「え?まだ不安なの?」

「もし覚えてなかったらどうなるの?忘れてたらどうなるの?」

「忘れてたら?また乗せてもらって帰ってくればいいじゃない」「だけど、だけど。。。」

「大丈夫だよ〜。この次は終点の伊角のバス停に着くだけだし。」

とかなんとかいうやり取りをしばらくして繰り返してたね。

「よし、見てこようか。この先に何があるのか。伊角はどんなところか」

そして二人で足を延ばして、次のバス停まで車を走らせた。

結構遠いから、もしかしたらもっと不安になっちゃったりしないかなって思ってたんだけど、なんだか落ち着いて景色を眺めてた。

伊角のバス停に止まって、僕は長女に説明した。

「ここが伊角のバス停だよ。もしうまくできなくてここまで来ちゃってもね、ほらあのおうちに行って、電話してもらえば父ちゃんすぐ飛んでくるよ。この辺の人はみんな善住寺だっていえば、すぐわかってくれるよ」そしたらこの日初めての笑顔で言った。

「えー、善住寺知ってるのか〜」見えない、未知の場所が見えたことで、怖さが取れたのかもしれないね。「どう、安心した?」「うん」「これで大丈夫?」「うん、大丈夫」

モヤモヤした表情がとれた長女を見て、僕もホッと一息。

そしてこの時に「そうか、そういうことか」って感じたんだ。

僕は「うまくできるから大丈夫」だけの半面しか提示してなかったんだな〜って。

そう、「もしうまくできなくても、やっぱり大丈夫」っていうもう半面の提示。これも長女は欲しかったんだな〜って。

彼女は軽やかに学校へ出かけていった。

そして帰って来た時には、何事もなかったかのように、「ちゃんとできたよ」と素っ気なく答えた。

なんだよ、まったく。拍子抜けだよ、このやろう。

でも、彼女のおかげで、僕自身がその「大丈夫」の陰陽統合をする体験ができた。

ありがとうだね。僕の引き寄せマインドでもあるからね。

「うまくいくから大丈夫。もしうまくいかなくっても大丈夫」

僕は、全ての体験に大丈夫を立証していってるところなんだ。つまり実践だね。

そして今では、だいぶ腑に落ちてきてるよ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

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長え〜。うぜ〜。よう最後まで読んだね、あなた!


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

無位

 自分探しという言葉(行為)が流行しましたが、いまも続いているようですね。

 ただ、時代によって、ニュアンスが変るようです。以前は、自分とはなにか、生きる意義とはなにかという語りかけでしたが、現在は自分が本当にやりたいことや自分にあったことを探すという意味合いが強いように思います。

 「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、どう答えますか? 簡単な質問ですが、難しいですね。名前を聞かれているようでもありませんし、仕事の種類や会社名、学校名を聞かれているようでもありません。国籍や性別でもなく・・・そういう付属のもろもろを外すと、どういう返答ができるのでしょう。

 こんなとき感心するのは、ネイティブアメリカンの命名の仕方です。「朝の少女」とか「永遠に花咲く」とか「ともだち」とか「翼を持った」など・・・。やはり「実体」ではありませんが、名刺に記入する肩書きよりも、人となりに近いように感じます。

 一無位の真人(いちむいのしんにん)という言葉があるようです。価値判断のつけようのないまことの人間という意味ですが、「あなたはだれですか?」の問いに照らし合わせると、「わたしは、わたしです」。

 無位=位(価値)のつけようがないというか、位(立場や名誉や属性)などは真の人を示すものではないと言っています。そのような考え方から抜け出して楽になれ、とも読み取れます。

「それでいい」「わたしはわたしで、それでいい」。つまりは、「あなたはあなたで、それでいい」。

 世の中は、自己主張や、無数の正義であふれています。自己主張や正義を語らない者は遅れをとるような錯覚もあります。高じると、「私のほうが○○(高い、偉い、立派、幸福、低い、貧しい、不幸・・・)」の罠にはまり、悩みや苦しみを生みます。

 みな、それぞれに「わたしはわたしで」「あなたはあなたで」それでよいのですね。自分の尊さというのは存在がすべてなのですね。いたずらに世間の価値観にふりまわされず、自信を持って自分に向き合うということでしょう。むろん、見たくない自分とも付き合わねばなりませんが、それが、まるごとの自分。気づきのはじまりでしょうか。


ミクシィねーむは【らん】

人生の意味は(命という字が語るように)人が一を叩く旅。

「和多志であり、宇宙であり」「 実であり虚である幸せ」を悟ることだと考えます。

顕在意識では、二元の世界に生きている錯覚を持ちがちですが 根源は一つであり、宇宙共同体として相互に関係しあい 原子でさえ 宇宙のひな型をしています(全ては仏の子)

一つ(一元)を見失えば 無条件の愛と和合を失い、人間を辞め、孤独地獄と虚無の淵にさまよい続ける火の鳥(手塚治の火の鳥伝説は強烈です)となると思います。

かつての和多志はそうでした。

ミクシィのニックネームをらんと付けた所以は 愛犬らんに 命の煌きを見続けたからです。

マイミクさんの日記を読ませていただいていると(更新した)プロフィールの写真が紹介されていました。

和多志はその日記に以下のコメントを書き込みました。

「虹と止揚(アウフ ヘーベン)を連想します。

賛美歌に「十字架は 神の義と愛の会えるところ。。。。」という歌詞があります。義はひかり、愛は水、虹は義と愛のバランシング。

バランシング。。。。。。

赤外線(音波へと繋がる)と紫外線(解離性放射物質へと繋がる)=生と死

その循環(輪廻転生)でバランスを生み、 願わくば止揚が生まれることを。しかも止揚も下降も自らの選択。止揚を選ぶのが幸運を呼び寄せることでしょうか? 」

そしてある日 そのマイミクさんから この写真が届きました。

感謝を持って 愛犬から このマークに プロフィール写真を変えさせていただきました。

プロフィールに霊現象に翻弄され続けた話は書きました。

その中で聞かされたメッセージに 「宇宙は虹の世界、魂は虹の結晶」という内容があります。

これは和多志の個人的な連想ですから 学術的な論争に持ち込まないでください。

論争ではなく感想はぜひ聞かせてください。

関連する情報をアトランダムにリストアップしてみます。

*東方浄瑠璃世界に薬師如来 西方浄土に(赤の)阿弥陀如来

(赤外線と紫外線の間の 可視光線の世界が今生というイメージ)

*龍(水神)が口に加えている球は 魂だと言われる。

*サラスヴァティ(水の神)はブラフマンの妻

*聖者が死ぬと身体が消え 虹が残ったという奇跡の逸話

*七つのチャクラが虹の分光に対応しているのも興味深い

以前クリスタルヒーリングを受けたことがありますが 胸の上に黄金(キラキラ 輝くプラウナのような)の太い柱が立ったのを見ました。

虹の集約は透明だと思っていますが プラウナが黄金に煌くのは実際にみえます。

いただいたマークの中心が黄色だとは 集約が黄金になる象徴のようで 「宇宙そのもの」のシンボルの氣がしてきました。

ついでに和多志の連想ゲームにお付き合いいただけると幸いです。

富士の河口湖で プラウナを見ていると 黒い点が沢山見えました。しかも何度も。和多志は何を見たのでしょう?

虹が集まれば透明になるのに 色が集まれば黒になる その不思議とリンクして頭から離れません。どなたかこの謎を解き明かして下さらないでしょうか?

もう一つ ミクシィ参加者のページを勝手に見せてもらっていると「右脳ヒーリング」という言葉が目にとまりました。

右脳開発はよく聞く言葉です。現代人は知識偏重、左脳優位。とくに大人は 言葉を媒体とした抽象思考が得意です。しかも 一般に脳細胞の95%は使われないままだと言います。

右脳細胞を眠らしている故 感性が鈍り 全体感覚を見失っていると言われます。ですから右脳開発が奨励されてしかるべきなのかもしれません。

 (脳呼吸として紹介された)ダンワールドでは脳細胞の覚醒(開発)という時 全脳を意味します。不断つかわれない身体の組織を動かすことで その部位に連動する脳細胞を覚醒させるのが大略の方法です。

ダンワールドでも 右脳を使うことが奨励され、無限大修練などで 左右脳のバランスをとるレッスンがあります。(これを脳の柔軟化と呼びます)

右脳開発でなく「右脳ヒーリング」に該当する方法は脳の情報の浄化(リリース)とポジティブメッセージの注入があげられるかもしれません。

オ ポノ ポノ では「 ありがとう」「 ごめんなさい 」「ゆるして下さい」「 愛しています」の4語だと聞きました。

ダンワールドでは「和多志は和多志を許します」「和多志は和多志を愛します」「和多志は勇氣のある人です」「和多志は高貴な存在です」「和多志は美しい」「和多志はパワーブレインです」「和多志は創造の主体です」などの言葉を 大声で 全身を使って(できるだけたくさんの筋肉を巻き込むため)脳に注入したりします。

スリーインワンコンセプトでも ポジティブメッセージ、シンボル、色、波動、その他を 眼の筋肉に注入したり(視覚は脳細胞の多くの部位を占めます) 眼のシフティングでエネルギーバランスを整えたりします。



生きる意味を問うことを諦め神から問われる生き方をしようと決めた和多志は結婚後 クリスチャンワーカーになるため(子育てをしながら)大学生となり、院でも聴講し 要約 学ぶことを始めました。 院では自分の成育歴を振り返る課題もあり 戸籍を取り寄せてファミリーツリーを完成したり聞き取りをしたり、今までタブーだった自分の過去を取り戻す作業をしました。

それまで和多志は実母の名も、いつ、何が原因で亡くなったかも知らないままでした。

愛する者に自分の歪みを手渡したくないと願い本格的な心理療法の学びも始めました。

我が家は教会中心の 典型的なクリスチャンホームとなりました。

・    

しかし教会は世俗化し、聖霊との出合いはなく、教会での働きに喜びが持ち切れなくなりました。子育ても一段落付き 残された時をどのように過ごすのが神のみ旨に沿うのか 改めて問う時が来ました。棚上げした生きる意味への問いも また浮かび上がってきました。

このときの答えは「意味は自分が創造するもの」でした。

和多志の創造した意味は愛する者の幸せ(四無量心)です。和多志 たちは過去の経験からいろいろな信じ込みを持ち(色眼鏡 をかけ)未来を制限します。過去を清算し未来に空を生み 愛する者の幸せのために可能性を広げていく、それが答え(創造した意味、生きる意味、生かされる意味)です。 和多志の人生での出会いの特徴はキリスト教と心理療法です。

NLP,スリーインワン、ブリーフセラピィ、催眠療法、キネシオロジー、認知療法、ユング(箱庭中心)、アドラー其の他いろいろな学びをし、それなりの資格も習得しました。

心理療法こそ 過去を清算し未来に空を生む方便です。人生で出会ったものを他者のために生かすことは「生かされてきたことへの感謝とお返し」であり、自分の人生の統合でもあると考えました。

次の働きの場をみなみ心理健康オフィスに選んだ理由です。