rapture
Facebook相田 公弘さん投稿記事
逆なんです
仏教のなかには,「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが、手に鉢をもって家々を回りお布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、托鉢に向かう弟子たちに、こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい」
普通、お布施をいただくんですから、お金持ちのところに行くのが常識ですよね?
しかし、お釈迦さまの思いは別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、自分のためにしかお金を使わないからでありその人たちに与える喜びを味わってもらう機会を生みだすのが、托鉢の真の目的だったのです。
友人の絵本作家の のぶみさんがこう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、なんでだと思いますか?鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』
ということを教えてくれているんです。鏡に映すと、右と左が逆になるように。
神社では、お願いをしにくる人の願いが叶うんじゃなくて、神様の願いを聞きにきてくれる人の願いが叶うんです。逆なんです。
神社で売られているお守りもそう。お守りに守ってもらおうと頼る人が守られるのではなく、
このお守りを守ろう守ろう、大切にしようと思う人が守られる。逆なんです。
神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、自分の願いだけを言いに来る人ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人だそうです。
だから、のぶみさんは神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いができますように。日本が ちょっとでも良くなるように、がんばりますから」
※『 思わず涙する感動秘話』より
Facebook田中 宏明さん投稿記事
今の僕の暮らしというのは一般的な日本社会においては多分相当に低い生活水準だと思います
まず第一に年収 さらに車や服やあらゆる所持品も平凡で いわゆる肩書もなければ 地位もない(笑)ただ日々を生きているだけです でもそこに何の不足もありません
むしろ美しい新緑を 見ながら山椒を収穫 していると 無上の喜びが 溢れて来ます
ある時この喜びの源泉はなんだろうかと自分自身に問いかけてみました
答えはすぐに出て来ました
それは自分自身でいるからそれだけのことでした でもそれだけで もう十分に幸せなのです
何かを手に入れなくても 何かを達成しなくても ただ自分自身で いるだけです
信じてもらえない かもしれませんが 本当の成長という ものは 足していくことではなく
引いていくことなのです
かと言って 僕は清貧を説いて いるわけではありません そして物質的な豊かさを
否定しているわけでも テクノロジーの発展を 否定しているわけでも ありません
ただそれと 幸せであることは 一切関係がないという だけです
その証拠に 僕のまわりの木々や 動物たちは いつも溌剌と生きて います
人間のニュースだけが いつも深刻です^ ^
深刻さの原因の 奥にあるのは 不足感です
そして不足感とは自分自身でいられない苛立ちなのです
では自分自身でいるとはどういうことでしょう?
それはいつも同じことを言っていますが 全ての自分を受け入れる ということです
美しい自分も 醜い自分も 強い自分も 弱い自分も 全て受け入れるということです^ ^
それだけで人は幸せになれます
今幸せでない自分ですら 優しく 受け入れることが 出来れば もうそこに不足感を感じる
必要はなくなるのです
不足感が消えた時人は本来自分が満たされていたことに気づきます
つまり僕たちのベースは喜びで出来ていた事を思い出すのです
世界はいつもシンプルで簡単です 幸せも同じく^ ^
今日もなんだかとりとめのない話しに なりましたが何かが伝われば幸いです^ ^
では皆さまも良い一日を✨🌈
らぶ💓