十人十色
サルトルbot@jpsartre_bot
私たちはみなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。『嘔吐』 それは選ぶもの創造するもの♪
https://jyuunintoiro634.blog.fc2.com/blog-entry-1977.html 【般若心経 262文字】 より
お釈迦様には、釈迦(しゃか)、ブッダ〈「目覚めた人」・「悟った人」という意〉、釈尊(しゃくそん)、釈迦牟尼(しゃかむに)、ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)など、いろいろな呼び名があります。
ブッダは紀元前5、6世紀頃、ヒマラヤ山脈の南麓にあったカピラヴァットゥという国の王子として生まれています。
生誕から幾星霜を経たこんにち、 仏教の経典は多種多様となっていますが、おおもとの仏教のことを「釈迦の仏教」と呼んでいます。
その「釈迦の仏教」の教えとは異なる、日本では特に馴染みの深い『般若心経』は、釈迦没後五百年を経ってから作られました。
『西遊記』で有名な玄奘三蔵(げんじょうさんぞう.602~664)が、インド語(サンスクリット)の原典から漢文に翻訳した名著として、私たちの身近にあります。
ブッダの教えが、五百年、千年といった長い時間を経て様々に変化し、それが今の複雑な仏教世界を生み出していますが、(そういった見知らぬ世界のことにかかわりなく)仏教に帰依していない私たちにとって、この262文字が全文の『般若心経』は、いつでも手元に置くことができる身近な経典となっています。
【『般若心経』訳】
〈「五蘊」《※:後日書きたいと思います…》はみな「空」である。〉
聖なる観自在菩薩が、
深遠な般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じながら観察なさった。
五蘊があり、そしてそれらの本質が空であると見たのである。
そして一切の苦しみや厄いを超えたのである。(※この一行は、漢訳にはあるが、サンスクリット本にもチベット語訳にもない。もともとなかったのかもしれない。)
〈決めゼリフ「色即是空」〉
舎利子よ、
この世の「物質要素(色〈しき〉)は「実体がないという状態」(空性〈くうしょう〉)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。(※この一文は、サンスクリット原典にはあるが漢文には存在しない)
「物質要素」(色〈しき〉)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
「物質要素」(色)が、「実体がないという状態)(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
〔五蘊のその他の要素である〕「感受作用」「受〈じゅ〉)、「構想作用」「想〈そう〉」、意思作用およびその他の様々な心の作用)〈行〈ぎょう〉」、「認識作用」(識〈しき〉)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
舎利子よ、
この世のすべての基本的存在要素(法〈ほう〉)の特性は、「実体がないという状態」である。それらは起こってくることもなく、消滅することもない。汚れることもなく、清らかになることもない。減ることもなく、一杯になることもない。
〈全宇宙「空」〉
それゆえに、「実体がないという状態」(空)においては、「物質要素」(色)はなく、「感受作用」(受)はなく、「構想作用」(想)はなく、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)はなく、「認識作用」(識)はない。
「眼」はなく、「耳」はなく、「鼻」はなく、「舌」はなく、「感触器官」はなく、「意(こころ)」はない。
「いろかたち」はなく、「音」はなく、「香りはなく、「味」はなく、「感触」はなく、「思い浮かぶもの」はない。
「眼によって起こる視覚」はなく、〔「耳によって起こる聴覚」はなく、「鼻によって起こる嗅覚」はなく、「舌によって起こる味覚」はなく、「触覚器官によって起こる触覚」はなく、〕「意によって起こる意識」はない。
〈「十二支縁起」も「四諦」もない〉
「無無明」はなく、また
「無明」が尽きることもない。(※以下、十二支縁起を順にたどって最後にくる)
「老いと死」はなく、また
「老いと死」が尽きることもない。
「苦」「集」「滅」、「道」〔という「四諦(しだい)」〕はない。
「悟りの智」もなく、〔涅槃(ねはん)の〕「獲得」もない。
それゆえ舎利子よ、[涅槃の]「獲得」がないのであるから。
〈最高の悟り〉
それゆえ、菩薩には「獲得すること」がないのだから、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依り、心になんの妨げもなく過ごしている。
心になんの妨げもないから、恐怖することがなく、倒錯した思いを超越しており、涅槃に入った人なのである。
過去、現在、未来におられるすべてのブッダは、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依って、
この上ない正しい悟りを完全に悟られたのである。
〈聖なる「呪文」〉
ゆえに以下のことを理解せよ
般若波羅蜜多(智慧の完成)は大いなる真言(しんごん・マントラ)であり、
大いなる知力を持つ真言であり、
最上の真言であり、比類なき真言であり、
一切の苦しみを鎮める真言であり、
ウソいつわりがないから、真実なのである。
般若波羅蜜多(智慧の完成)において、真言(しんごん)が説かれた。それは以下の如し。
「羯諦羯諦波羅羯諦 (ガテー ガテー パーラガテー)
波羅僧羯諦 (パーラサンガテー)
菩提薩婆訶 (ボーディ スヴァーハ) 」
(行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ)
以上、『般若波羅蜜多心』が終った。
※【訳】:佐々木閑氏によるサンスクリット原典からの訳。
https://www.zen-essay.com/entry/jyuunintoiro 【サイコロは十人十色】より
高校生の時、学校で講演会が開かれたことがあった。講師は全国の刑務所を訪問して講演を続けている方で、受刑者にどのような話をしているのか、刑務所とはどのような場所なのか、そんな話を1時間聴いた。
講演の終わりのほうで、講師の方が歌(CD)を流すから聴いてほしいと言った。なぜ歌? 疑問が湧いたが、講師曰わく「この曲を聴くと、受刑者の多くは涙を流す」とのこと。そういうことなら聴いてみたいと意識を改めた。やや間をあけて、スピーカーから音楽が流れ始めた。
どのような曲だったか、今ではもうまったく覚えていない。が、その曲を聴いた時のことは鮮明に覚えている。なぜなら、涙が出そうになったのを必死に隠していたから。
もしあれが自分の部屋だったなら、きっと泣いていたのだと思う。けれども講演会場は高校の体育館。周囲にはクラスメイトらが大勢座っている。とてもじゃないが嗚咽を漏らしたり泣き顔をさらしたりできるような状況ではない。恥ずかしすぎる。だから必死でこらえた。
肝心の曲を覚えていないものだから何とも言えないのだが、何かこう、心に響くような歌だった。歌を聴いて涙を流したことなど一度もなかったから、何で泣きそうになっているのか、自分でもよくわからなかった。
時折下を向いたり、目が痒いような素振りをして涙を拭いてみたりといった小細工を駆使して、どうにかその曲を聴き終えた。おそらく泣きそうになっていることは誰にもバレていないはず。そう思ってさりげなく周囲を見回すと、ちょっと意外な光景を目にした。みんなつまらなそうな顔をしているのである。泣いている人どころか、泣きそうな顔すら見当たらない。
まあ、そりゃ、我々は受刑者ではないし刑務所にも入っていないから状況は違うだろうけど、何の感動もなし? 後ろに座っていたクラスメイトに「どうだった?」と確認してみると、どうっていわれてもなぁ、と困ったふうな顔をして「特に何も」と無感想の感想を述べた。そうか、何も感じなかったか。自分とのギャップに若干のショックを受けつつも、そういうこともあるわなと了承した。
講演が終わりクラスに戻ったあと、教壇に立った担任がおもむろに感想を述べた。
「正直、よくわからん講演だったな。みんなよく眠らずに聴いた」
……なんだそれは。この男は一体何を言っているんだ。それが講演会の総括か。別にあなたがそう思うのは勝手だが、それが正解の感想であるかのような言い方はやめてくれ。そうでない受け止め方をした人間もいるんだ。一緒にするな。
途端に気持ちが反発した。クラスメイトの一意見ならどんな内容でもいい。しかし教師は立場が違うだろう。自分の感想がすべてであるかのような錯覚を起こして、全員が自分と同じ感想を抱いたと仮定して話をするのが我慢ならなかった。
が、今になって思えば、特におかしな話でも何でもなかったのかもしれない。教師だからといって特別な人格者なのではない。警察官も、医師も、僧侶も、みんな同じ人間だ。外見は違っても中身は変わらずに「人間」である。特定の職業に就いているだけで精神の成熟に差があるかのような思い込みをしていた自分の認識こそが誤っていた。教師に過度な期待をするべきではなかった。
同じ話を聴いても、受け止め方は人それぞれ。ブッダも同じような言葉を残している。
「たとえ目的地までの道のりを教えたとしても、教えた道のとおりに歩くかはその人による」
全員を同じ目的地にまで辿り着かせるようなことは土台不可能なのである。仏教はドラえもんが四次元ポケットから取り出す「どこでもドア」ではない。相手をゴールにまで届けるのではない。
仏教にできるのは、正しい道を示すことだけ。歩くのが自分の足である以上、その歩みに他人が責任を持つことはできない。結局のところ、自分はどう歩くか、どう考えるか、どう感じたか、それだけなのである。だから仏教は地図にすぎない。目的に辿り着くための道筋が記された地図。
講演の感想も同じである。全員に期待した感想を持ってもらうことなど不可能。感想は人それぞれでいい。いいというか、そうでしかありえない。私のような感想が正しいわけではない。教師の感想が正しいのでもない。正しい感想などない。重要なのは何を学びどう活かすか。すべてはそこである。
各人がどう歩くかにまで責任は持てないとしたブッダの言葉には、深く頷けるものがある。実際に歩くのはブッダではなく、各人が各人の意思で歩くのだから。つまり自分の人生は自分の歩みにかかっている。何を聴こうが学ぼうが、それらを受けて歩くのは、どこまでいっても自分自身だ。
そんなことを考えるようになってから、人の意見をすべて受け入れるようになった。そもそも人はみなそれぞれ異なった思いを持っている。そう考えれば、同じ考えを求めるほうが無理がある。物事は常に多面体なのだ。サイコロのように、一の面があれば、反対の六の面がある。そのほかにも、二、三、四、五と。どの方向から物事を見るかによって、見える姿は異なる。真実というのは一面ではないということさえ忘れなければ、自分と異なる意見がむしろ貴重なものにすら感じられるようになる。多面体を構成する、新たな一面を知ることができたと。
十人十色とは、そこのところの真実をじつに端的かつ明瞭に示した優れた言葉だ。