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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 05 (26/04/23) 土庄町 旧土庄村 (2) / 渕崎地区 (3)、小豆島町 (旧池田町) 蒲生村

2023.04.27 11:22

土庄町 旧土庄村

吉ヶ浦地区

土庄町 大木戸部落

渕崎地区 小入部部落

旧池田町 蒲生村 (かもう) 入部 (にゅうべ) 部落 (訪問記 別途)


今日は土庄までバスで向かい、旧土庄村の残りの史跡を見て、旧渕崎村、池田の旧蒲生村も見てバスにて帰ってくる予定。



今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第62番 大乗殿

第63番 蓮華庵


訪問ログ



土庄町 旧土庄村

旧土庄村の北の端の吉ヶ浦へ向かう、前回の土庄村 (4月25日) に訪れた小豆島霊場総本院から始める。


吉ヶ浦地区

吉ヶ浦はその名の通り海岸に面した地域になる。海岸には吉ヶ浦漁港がある。


吉ヶ浦荒魂神社

吉ヶ浦漁港には吉ヶ浦荒魂神社が吉が浦荒神山に鎮座し、大国魂命と稲荷大明神を祀っている。吉ヶ浦部落の氏神になる。


土庄港

吉ヶ浦地区は小豆島の玄関口の土庄港がある。ここからは高松港 - 土庄港間の小豆島フェリーと高速船、宇野港 - 豊島経由 - 土庄港間の小豆島豊島フェリーと高速フェリー、新岡山港 - 土庄港間の四国フェリー・国際両備フェリーが定期便を運行している。4月21日には高松から小豆島フェリーで小豆島に入った。フェリー船体や客室内には小豆島出身の漫画家の「からかい上手の高木さん」の漫画が描かれて、観光に一役買っている。この後、小豆島巡りの際に、いわゆるアニメ聖地に出会うことになる。港には瀬戸内芸術祭作品の一つ、チェ・ジョンファ (崔正化) 作のsd01太陽の贈り物 金色に光り輝くオリーブの王冠 (右下) が置かれている。

土庄港には小豆島各地へのバス停があり、そこは公園が整備されて幾つものモニュメントが置かれている。写真左上から右に、丁場を紹介した「石と歩んだ歴史の島」、「大阪城里帰り太閤石」、「愛」、「詩人と島人の絆」、「オリーブの歌」、小豆島バスの会長で小豆島観光に貢献した「堀本文次像」、「尾崎放哉歌碑」、「オリーブの女神像」など小豆島に因んだものが置かれている。

その中で最も目を引くのが、壷井栄の二十四の瞳像で、これは1956年に作られ「平和の群像」と題されている。ロータリーにもおなご先生の石を中心に、その周りを生徒たちの名が刻まれた石が囲まれていた。

待合室の外には石の絵手紙も7つ置かれていた。この様に玄関口の土庄港に到着した観光客は、ここで一挙に観光ムードに触れることになる。小豆島には、船の定期路線は福田、坂手、大部があるのだが、土庄港の様な華やかさはない。


ビハーラ正信

土庄港のすぐ側にビハーラ正信という建物があった。ビハーラは浄土真宗が進める活動で、病院や介護施設などを運営している。ここが何なのかは情報はないのだが、ビハーラ活動の施設と思う。



大木戸部落

吉ヶ浦の南隣の大木戸地区に移る。大木戸とこの地が呼ばれる様になった由来が気になった。大木戸は江戸時代の関所だが、ここに島に入ってくる人々を監視する関所があったのだろうか? 次回地元民に確認してみよう。



大木戸塩釜神社

吉が浦との境界線、大木戸地区の北端に大木戸塩釜神社があり、塩椎命、綿津見命を祀っている。この辺りは大木戸埋立によって往時の面影は変っている。創建の時期は不明だが、壊れた鳥居には「慶応二寅年霜月十九日」とあるので、江戸時代には存在していた。境内には新田開拓者三枝文蔵氏の碑 (右下) が昭和14年に建てられている。塩釜神社は土庄にはいくつかあり、小豆島では奈良時代に塩作りが始まり、江戸時代には赤穂から塩浜師が移住して塩作りは発展し、西本町から吉ヶ浦にかけて塩田が広がっていた。大木戸の人も塩作りに従事していたと思う。この塩釜神社は他の塩釜神社と同様に、海の守護神で製塩の方法を伝授した鹽土老翁神 (シオツチノオジノカミ) を真ん中に、左右には戦の神の武甕槌神 (タケミカヅチノカミ) と経津主神 (フツヌシノカミ) を祀っているのだろう。

土庄港がある吉が浦から大木戸地区にある第62番大乗殿と第63番蓮華庵の札所に向かう。遍路道の道標に沿って進む。


大木戸権現社

大木戸部落の東端上方の畑の中に大木戸権現社が鎮座している。祭神は不詳だそうだ。雁木無しの鳥居には「敬神愛国。恭以持己。明治二十二年九月吉日」の銘がある。これとは別に以前は鳥居があったのだが壊れてしまったそうだ。拝殿の前には高津神社の小祠も置かれていた。


大木戸荒神社

大木戸部落の中央の山手に大木戸荒神社があり、大国魂命を祀っている。


第62番霊場 大乗殿、第63番霊場 蓮華庵

大木戸荒神社のすぐ側に目的地の札所がある。この場所には明治時代の神仏分離令以前は大木戸八幡神社の別当のあった場所と伝わっている。現在は第62番霊場 大乗殿と第63番霊場 蓮華庵が同じ建物の左右に置かれている。

建物向かって左側が第62番霊場 大乗殿で阿弥陀三尊を本尊として祀っている。以前は大木戸八幡宮別当で、明治の神仏分離でこの地に移転し、それまでは本尊阿弥陀三尊は八幡大菩薩の本地仏として祀られていた。近年まで別の建物だったのだが、改築の際に第63番 蓮華庵の隣に移されている。真言はオン アミリタ テイセイ カラ ウン。

隣には第63番霊場 蓮華庵がある。千手観世音菩薩を本尊として祀っている。「八朔」の伝統行事が今でも受け継がれ、旧暦の八月朔日の早暁、庵では本寺西光寺の僧侶によって大般若転読が勤められている。真言はオン バザラ タラマ キリ。

庵の前には大師堂、薬師堂、石鎚神社がある。

大木戸荒神社への道へ降りる所には何体もの地蔵尊が置かれている。多分大木戸部落内に点在していた地蔵尊をここに集めて祀っているのだろう。


土庄八幡神社 (大木戸八幡神社)

大木戸の街外れ、潮渡山沿いに応神天皇 (誉田別命)、神功皇后 (息長帯姫命)、仲姫命 (姫太神) を祭神とする土庄八幡神社がある。元々はここの地名である大木戸から大木戸八幡宮と呼ばれていた。創祀の時期についてははっきりしないのだが、伊喜末、大木戸両社とも926年 (延長4年) に勧請にして、962年 (応和2年) に村上天皇の勅命で再建されたと云う。 また、一説ではに伊喜末の領主の高橋氏が、大木戸も領有しており、その後、弘安年間 (1278年~1287年) に伊喜末地頭高橋伊豆守入道孝存が土之庄郷 大木戸村より妻を娶とり、息子の右衛門太夫がこの地に移住し、伊喜末八幡宮から分神して高橋家の氏神として創祀したとも伝わっている。



一の鳥居、馬場跡

大木戸の民家を抜けた所に一の鳥居があり、その内側は広場になっている。多分馬場跡だろう。奥には参道階段と二の鳥居があり、階段登り口には大正六年に掘られた井戸が残っている。


二の鳥居

二の鳥居まで登ると手水舎、社務所とそのに庭がある。


随身門

更に階段を登ると随身門で右大臣、左大臣が置かれている。随身門を潜ると広場で、本殿が上に見えてきた。ここで祭祀、祭、芝居などが行われたのだろう、石垣は桟敷形式になっている。

10月14日に例祭ではここの広場と下の馬場で、各自治会より大小13台の太鼓台が連なり宮入し、奉納を行っている。


三の鳥居、拝殿、本殿

広場から三の鳥居をくぐり登ると文化年間 (1804 〜1829 年) の作と推定されている狛犬が置かれ、奥に拝殿がある。拝殿奥には渡り廊下で繋がった本殿となる。


山の神社、鹿島神社、五社大神宮、天照大神 、龍王宮

拝殿、本殿の北奥にはかつては神社奥の林の中にあった幾つかの境内末社がここに集められ一列に置かれている。大山津見大神と多賀大神を祀る山神社 (写真左上) 、その右には鹿島大明神 (武甕槌神、下右端、元々は随身門の横にあった)、左には五社大神宮 (下右から二番目)、更に左には天照大神 (下左から二番目)、そして龍王宮 (下左端) になる。


金比羅恵比寿神社、正一位稲荷神社

末社群の向こうには金比羅恵比寿神社がある。小豆島七福神参りのえびすの拝所になっている。その奥には正一位稲荷神社が鎮座している。


護国神社

拝殿前の広場から山側への道があり、護国神社に通じている。昭和28年に土庄村の住民の有志が日清日露戦争から大東亜戦争で犠牲となった旧土庄町出身の戦歿者、数百柱を合祀している。本殿には昭和4年に建立され、当時天皇と皇后の写真 (御真影と呼んでいた) と教育勅語を納めていた奉安殿が護国神社を造る際に移築されている。戦前、各小学校に置かれた奉安殿は戦後の1946年 (昭和21年) に全面撤去の指示が出たが、幾つかは現存している。また、出征軍人と刻まれた石柱が置かれていたが、これは砲弾の台座で寄進されたという書き込みが出ていた。


善光寺

土庄八幡宮の馬場の側に善光寺という庵があった。この庵についての情報は見当たらなかったのだが、庵内にはの「牛にひかれて善光寺」の絵が掲げられていたので、信州の善光寺信仰の庵である事は確かだろう。江戸時代に始まった夜念仏といい白装束や遍路装束の人らが各家庭を訪れ亡き人をしのび供養の念仏、女性の新仏には「十九夜」を、男性の新仏には「善光寺」を唱えていた。地元では「よねぶっつぁん」と呼ばれている。昭和初期までは、全国で行われていたが、現在ではほとんど行われていない。土庄町では、お盆の8月13日の夜に肥土山の多聞寺、黒岩の円満寺、屋形崎の金剛寺、伊喜末の松林寺の4地区で先祖供養行事の夜念仏が復活している。この庵もその関係だろう。



渕崎地区 小入部部落

旧土庄村から旧渕崎村に移動する。吉ヶ浦に戻り、土渕海峡沿いを歩き向かう。向こう岸が前回 (4月25日) に訪れた渕崎村が見える。

永代橋を渡った渕崎の街中に道しるべが置かれていた。遍路道は前回訪れた札所を示しているが、今日は坂手港方面に進み、旧渕崎村小入部部落を目指す。


伝法川

土渕海峡に流れ込んでいる伝法川に架かる八幡橋を渡ると、次の目的地の富丘八幡神社はすぐのところになる。川には大きな魚が泳いでいる。ボラのような気がする。ボラは小豆島では食べないのだが、料理の仕方では美味だそうだ。


富丘八幡神社

小入部地区の八幡山の頂上に小豆島五社八幡宮の一つの富丘八幡神社があり、他の八幡神社と同じように、応神天皇 (誉田別命)、神功皇后 (息長足姫命)、仲姫命 (姫太神) を祭神として祀っている。


桟敷

八幡橋を渡り、県道から分岐する道が富丘八幡神社の参道になり、大鳥居がある。この鳥居は島内では最大のものになる。

その先に広い馬場がある。ここでは10月15日に秋の例祭の太鼓台の奉納が行われ、旧渕崎村の各部落が太鼓台の演技を披露する。この神社での太鼓台の特徴は急な階段を太鼓台が下りて行き馬場で各地域の太鼓台が勢ぞろいする。赤穂屋、上庄、平木、北山、肥土山など渕崎地区と大鐸地区の部落の太鼓が集まるのだが、少子化、過疎化で太鼓台を担ぐ若者が減り、年々参加する太鼓台が減っているようだ。

この例祭を鑑賞の為、神社がある北西側山林の傾斜地には立派な約150mもの馬蹄形になった石垣造り桟敷が設けられている。最上段の 桟敷と馬場とは約24mの高低差がある。この桟敷は、江戸時代後期から造り始められ、次第に桟敷の数が増えていき、戦前には約420面もあった。現在でもその内、364面が使用されている。祭典当日は、この桟敷で各家族が親戚や友人を招いて祭典行事を楽しんでいる。昔から、この桟敷の区割り、使用、料金は、宮司や氏子総代により作られた綿密な制度によりを管理運営がなされている。

桟敷の間に富丘八幡神社拝殿へ登って行く長い階段の参道があり、その途中に、神社の三基ある内の一つになる鳥居がある。この鳥居は1704年 (宝永元年) に元々馬場にあったものを移築したもの。


若潮の塔

更に参道を登って行くと、太平洋戦争で戦死した兵士の慰霊碑が置かれていた。若潮の塔の塔という。若潮と言えば、土庄のオリーブタウンが若潮部隊の訓練場だった事を思い出した。この慰霊碑はそこで訓練を受け、特攻隊として散っていった若者の冥福を祈る場として作られた。慰霊碑の横にはその特攻隊の若者の像とその遺族がフィリピンで発見した若者が乗り込み敵艦隊に体当たりを試みたであろう特攻艇のエンジンが寄贈され置かれていた。

富丘八幡神社の案内では以下の事が記されている。

太平洋戦争の末期、 昭和19年から20年にかけて、東洋紡績渕崎崎工場に、陸軍船舶特別幹部候補生部隊 (若潮部隊) の訓練基地がありました。そこには、全国より 15才以上20才未満の学徒、延べ八千余人が集い、日夜水上特別攻撃隊員としての猛訓練を受けて出 陣しました。そして、フィリピン・ 台湾沖縄方面の戦闘や、広島に落ちた原爆などにより、1400余名の戦没者を出しました。昭和48年11月23日、この部隊の生存者の会、若潮会は、亡き友と共に訓練に明け暮れた若き日々を偲んで、第二の故郷とも いうべきこの地の八幡神社あずまや跡に、鎮魂の碑「若潮の塔」を建立しました。 以後、11月23日を記念の日と定めて、慰霊祭を挙行しています。この場所には、碑の建立時の内閣総理大臣田中角栄氏の筆になる、若潮魂と銘された鎮魂碑 「若潮の 「塔」のほかに、石刻された「若潮の由来記」、学制服、訓練服、戦闘服姿の隊員の銅像 「陸軍船舶特 幹生の像」 フィリピンの基地跡の川底より、遺骨がわりに持ち帰られた「陸軍特攻艇のエンジン」が設置されています。また、当時この 部隊の兵器整備作業に従事した地元小豆島実業学校 (現土庄高等学校) 学徒挺身隊 天風 白梅隊の「学徒動員記念碑」も設置されています。

この地が選ばれたのは、ここからは若潮部隊が寝泊まりをして訓練を受けた場所が一望できるからかも知れない。


覧魚崎

更に参道を登ると踊り場がある。ここは覧魚崎と呼ばれている場所になり、昔、応神天皇が、小豆島を訪れた際、この山に登り、ここから、晴れわったなか、南方の海に魚の群れを見て歌を詠んだと伝わっている。「嶋景色 あそぶ魚鳥 いつらへの 海にかげある 塩土の山」

ここからは眼下にあずき島・余島、更に向こうには屋島五剣山、瀬戸内海を行き交う船を見る事ができる。


絵馬殿

覧魚崎から階段を登ると社務所と手水舎があり、その上に昭和40年に改築された絵馬殿が置かれている。殿内には修祓を行うための祓殿が設けられ、祓戸の神々を祀っている。

この絵馬殿からの眺めは絶景で、ここからの写真を紹介しているのを多く見る。確かに素晴らしい眺めで、写真より実際に見る風景は数段素晴らしかった。


拝殿、幣殿、本殿

神社は、応神天皇が小豆島御遊幸の地の一つとされる塩土山 (富丘) の地に、醍醐天皇の時代、926年 (延長4年) に京都石清水八幡宮の別宮として神霊を迎えて奉祀された神社で、明治時代になるまでは、小豆島別宮肥土庄八幡宮と称していた。

1273年 (亀山天皇 文永10年) に出火し、社殿は全てが焼失している。その後、南北朝時代には南朝方で星ヶ城を築いた佐々木信胤が小豆島を各所に城や砦を築き要塞化していた。この神社の神領であった東は御前丸 (美しの原)、西は大谷、下藤、北は皇踏山、南は蒲生の長岬も取り上げられた。この為、領民とのもめ事も多く、1347年 (御村上天皇 正平2年) にはこの八幡宮に参拝、御神楽を奉納し、南朝方の天下になった後に土地を寄進すると誓約を入れ、神官や領民の機嫌をとっていたという。信胤は讃岐細川氏との合戦に負け、讃岐細川氏の被官になって後、1357年 (延文2年) に、戦火で荒廃した八幡宮の造営、遷宮を行っている。勝利した北朝方の細川師氏も、田畑町歩をお礼として神社に寄進している。その後、神社の建物や社殿の造営、遷宮 は有力者の寄進によってしばしば行われている。また、火災、大破、荒廃のあるたびに、鳥居も含めて、再建・修理が行われていた。現在の建物は、明治33年に社殿を少し後方へ移転し、大修理をおこない、幣殿、拝殿を新築したもの。

文久元年(1861)


若宮神社

本殿の右に太佐々伎神 (他の資料では仁徳天皇) を祭神とする若宮神社が配されている。「御縁起」には「後持明院永仁五年 (1297年) 十一月三日初卯日、若殿・若宮社両社を造営遷宮し奉る」とあるのだが、ここに建っている社が若宮神社であるかどうか不明だそうだ。また祭神の大佐々依神は仁徳天皇であるとも伝わっているがはっきりとしたことはわかっていない。


従軍記念碑

境内に日清戦争の際に建てられた従軍記念碑が置かれている。題字は乃木将軍によるもので「顕々霊徳永思不遺。 神祉王帥施及我私、征清従軍兵士建之、明治二十有八稔」とある。これ以前、神宮寺時代にはここは鐘楼が置かれていた場所だそうだ。


護国神社

境内反対側には昭和55年に護国神社が造られ、日清・日露戦争で犠牲となった旧渕崎村出身の戦没者182柱を祀っている。昭和58年には、太平洋戦争の末期、渕崎中心地に創設された旧陸軍船舶特別幹部 候補生隊 (若潮部隊) の戦没者1407柱を合祀している。毎年4月の第2日曜日に慰霊祭を行っており、遺家族・渕崎戦友会・若潮会など大勢の縁者が参集しているそうだ。


神馬

護国神社の隣に新旧二体の馬の像が置かれている。古いものは2016年に発見されたのだが、1816年 (文化13年) に但馬国奉納されたで。江戸時代末期に第121代孝明天皇 (1831-1867年) から「日本一の名工」との称賛を得た丹波佐吉の作と伝わり、神馬とされている。丹波佐吉は竹田 (現在の兵庫県朝来市和田山町) に生まれ、五歳の時、丹波国の石工の難波金兵衛伊助の養子となり、丹波 大新屋 (おおにや) の庄屋上山家で読み書きを教わり、22歳で、渡りの石工となる。大和辺、淀、伏見、 大坂などで、灯籠、道標、石仏、狛犬等多くの作品を遺している。この神馬は縁結び、子宝にご利益があると言われている。この馬には逸話がある。

この馬よなよな、麓の森田へ出歩いて稲を食って廻った。困った百姓は、脚をたたき折ってしまった。それから稲の被害がはたとやんだというのである。

この神馬は確かに三本の脚が折れて、木の支柱で支えられてやっと一本脚で立っている。上の逸話が先なのか、神馬の脚が折れてしまって造られた話か?


七福神 (福禄寿)

神馬の奥には七福神 (福禄寿) が祀られている。これは比較的新しいもので平成7年に旅行会社が企画した小豆島内七福神巡りの際に富丘八幡神社は七福神の拝所となり、福禄寿を勧請し祀っている。福禄寿は中国、道教の神で、南極星の化身であるとも言われている。幸福、封 禄、長寿の三徳を備え、良縁、家内安全、ぼけ封じにご利益があるとされている。


五宮神社 (ごのみやじんじゃ)

本殿の後方には五宮神社があり、奥津彦神、 奥津比売神、 彦火瓊瓊杵命、宇迦之御魂神、武内宿禰命、上筒男命、中筒男命、下筒男命、 忍穂耳命を祀っている。大正2年には境内神社三社を、荒神社に合祀して五宮神社と称し、同年小入部の高良神社の合祀している。更に大正3年には字西宮下の塩竈神社を合祀し ている。

境内にはその他、古い灯籠や御輿庫 (右上) などがある。その中で、遥拝所があったのだが、どこの何の神を遥拝しているのかは分からなかった。


富丘古墳群

神社がある富丘は古墳時代前期後半から中期前半とされる富丘古墳群があった山で、小豆島では最大規模になる。富丘八幡神社本殿裏に直径15m程の円墳がある。大正6年に頂上墳の墳頂から平安時代藤原期の経塚が発見され、和鏡二面 (松藤双鶴鏡・菊花蝶鳥鏡) と甕の一部を発見、国立博物館へ寄贈されている。更に、昭和20年、この地で訓練を行っていた陸軍船舶特別幹部候補生部隊 (若潮部隊)が高射機関砲座を築くため、古墳とは知らず、頂上中央を掘った際に2基の埋葬施設を発見した。東の竪穴式石室からは、男子の頭骨一個、鏡一面、刀大小数振、刀子数本、鉄鏃数本、斧様鉄器個、銅鉄様の物二個が出土、西の箱式石棺からは女子の頭骨・両手両足が出土している。富丘古墳群の中では最も古く、4世紀末頃のものと考えられている。この頂上円墳の場所には、陶製経筒の中に経文を収め、その底と上面とに藤原鏡二面をおさめて地中に埋納していた経塚が発見されている。富丘八幡神社の前身の小豆島別宮肥土庄八幡宮が造られた以降のものになり、小豆島で見つかった経塚では最も古い。

富丘八幡神社本殿から東南方向に下る稜線上に、東参道があり、参道下の鳥居は、嘉永二年4月の建立と記されている。この参道がある稜線には古墳時代前期後半から中期前半に属する8基の古墳が発見されている。一基の方墳を除き、円墳となっている。更に、展望台の丘の双子浦岬やその先端部の小島、その外稜線上にも古墳の分布が見られる。稜線を下に行く程に造られた時期が新しくなっている。南北朝時代にはこの地には奥津城と呼ばれた城砦が造られていたと言う。


歌碑

東参道の半ばに歌碑が置かれていた。説明板を見ると、母方と同じ先祖に連なる歌人のものだった。この渕崎にその様な人がいるとは知らなかった。母方の祖父は戦国時代に兵庫県三木市にあった三木城城主別所長治の直系14代と伝わっている。長治の遺児を家臣が救出し小豆島に落ち延び、別所姓から三木城に因み三木姓に変えたと言う。この歌人も三木姓で、この人も別所一族の末裔と言う。

  • 三木蜻州(本名 三木方斉 1847~1931) 池田二面の人で本家は代々廻船問屋の木屋 (忠次郎) 父の良斉は長崎シーボルトから蘭方医学を学び医師、方斉も13歳で讃岐高松藩柏原謙好の弟子となり、18歳で15代将軍徳川慶喜の医師として京都に詰め、鳥羽伏見の戦いに従軍。その後、渕崎村赤穂屋に本医院、池田・豊島に治療院、双子浦に療養所の花相院を開く。「柴舟に そふて流るる 霞かな州」
  • 三木双浦 (本名 三木方直 1882~1962) 渕崎村赤穂屋でに三木方斉の長男として生まれ、岡山医学専門学校を卒業後、北里柴三郎とも親交があり、父方斉と共に小豆島の医業に尽くした。尾崎放哉とも交流があり彼の最後を看取ったそうだ。 実弟の三木朱城も高浜虚子に学んだ歌人だった。「花に寝て 羽化登仙の 夢に入る」


双子浦展望台

裏参道 (東参道) を降った所に石段の坂道がある。そこを登ると双子浦展望台がある。ここからは、眼下にあずき島・余島を、海の向こうには四国高松の平べったい屋島を望むこととができる。この展望台には終戦後、昭和天皇の全国巡幸の際に立ち寄った場所で「昭和天皇御巡幸記念碑、昭和二十五年三月十五日」と刻まれた記念碑が建っていた。昭和天皇もこの景色を見ていたわけだ。

展望台は少し高台にあり、そこから林の中に道があった。双子浦の海岸に続いていると思い、道を林の中に入っていった。道は海岸へと八幡神社への道に分岐し、海岸方面に進み砂浜に出る。ここからの景色も素晴らしい。


双子浦海岸

あずき島が海の中にぽつんと顔を出している。あずき島は色々な所から眺めたのだが、ここからの眺めが一番気に入っている。どの様にしてこんな小さな岩が海の真ん中に残ったのかを考えると面白い。

このレポートの土庄港のところで、土庄町がアニメ「からかい上手の高木さん」を観光戦略の一つに含めている事に触れたが、この富丘八幡神社はアニメ聖地巡礼の一つになっている。


長神 (おさがみ) 神社

双子浦海岸から富丘八幡神社の桟敷への道の途中に長神 (おさがみ) 神社がある。この神社の情報は見つからず、祭神もわからない。赤鳥居なので稲荷神社かと思ったのだが、三神を祀っているのだろうが、三つの祠の中心の祠の中には幾つもの蛇の像が置かれていた。

祠の奥にも幾つもの拝所が置かれている。神名が書かれているのは地主神と水神だけで、残りの祭神は不明。地元の人に聞かないとわからないのだが、この辺りにはマンションと学校だけで、昔からの民家はなく人も歩いていない。


応神天皇船繋松跡

富丘の東麓に応神天皇吉備御幸の際にこの地に立ち寄り、船を繋いだと言う老大松が一本あり、船繋ぎ松と呼ばれていた。 幹径は1.9m、高さ約16mで、県下で最も太い松だった。雄大な傘形の枝張りの立派な松だったが、残念な事に腐損に樹齢六百年で樹勢も衰えかけており昭和39年の台風のため倒伏した。松跡に石碑を建て応神天皇の伝承を刻んでいる。その後、道路拡張工事でこの場所に移設されている。


金光教小豆教会

応神天皇船繋松跡の前の県道を渡った所には金光教小豆教会があった。金光教の教会は小豆島には三つある。天理教に比べて小規模のようだ。


與九郎稲荷神社

県道を旧池田町方面少し行ったところ、富丘八幡神社の東参道の入り口の向かいの高壺の西麓に與九郎稲荷神社が置かれている。この與九郎稲荷神社は1865年 (元治2年) に京都の伏見稲荷本宮より勧講をうけ、この地に遷座されたもので、ここの地名をとり正一位與九郎稲荷神社と称している。 赤の鳥居の脇に建てられた石碑には「正一位稲荷五社大明神安鎮之事 右本宮之神秘而不他家之所知故警封之也雖然州小豆島土庄入部渕崎村中常崇敬当社殊干他旦 今般請安鎮本山之神霊因謹而大杞修封之厳霊令授与焉永奉祭杞無怠可為 家内安全繁栄長久之鎮護者也。 元治二乙丑年四月一日惣本宮正宮御殿預 従五位大摂津守荷田信義」とこの神社の縁起が刻まれている。

宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能売神を祀り、地元では「與九郎のお稲荷さん」 とよばれ、商売繁昌、交通安全、学業就職諸願成就などのご利益があるという。拝殿の裏に小さな扉があり、その中にも小さな赤鳥居が置かれ、奥には樽の上に釡が置かれている。これは摂社なのか本堂の替わりなのだろうか?

拝殿の横にも四つの小さな祠や石柱などが置かれている。資料では摂社として、田中大神、四大神を祀っていると書かれていた。祠の一つには松岡福正院と書かれた板碑がある。資料ではこの神祠を興隆した人で考えられている。



これで旧渕崎村の小入部にある史跡巡りは終了。ここは土庄町の東の端で、これより東は小豆島町になり、旧池田町入部 (にゅうべ) 部落になる。この後、県道沿いに小豆島中央高校まで、入部部落内の史跡を巡る。ここからの訪問記は、後日、池田町の史跡巡りのレポートに含めることにする。



参考文献

  • 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
  • 小豆島お遍路道案内図