消えゆく者たちの年代記
消えゆく者たちの年代記
SEGEL IKHTIFA/Chronicle of a Disappearance
2006年3月4日 赤坂 国際基金フォーラムにて(アラブ映画祭2006)
(1996年:パレスチナ=フランス:85分:監督 エリア・スレイマン)
1996年ヴェネチア映画祭新人賞受賞
2003年日本でも公開された『D.I.』のエリア・スレイマン監督の長編第一作目です。
私は『D.I.』を観た時にシュールな赤塚不二夫の4コマ漫画、といった感想持ったのですが、その原型のような映画でした。
つまり、中近東映画にありがちな、「今起きている戦争」をはっきり描かず、普通の人の普通の生活を点描しながらもその視線はユーモアと皮肉に満ちていて、実は政治的な風刺に満ちているのではないか・・・と思わせておいて・・・実はな~んにもありませんでしたぁ~って飄々としている感じが続くのです。
この映画は一応、前半は「ナザレ 個人的な日記」と後半「エルサレム 政治的な日記」と字幕は出るのですが・・・・あまり個人的でも政治的でもないようです。
エリア・スレイマン監督自身が、エリア・スレイマンという映画監督になって映画の最中に登場人物の1人となって出てきます。
また、その両親というのも、監督の本当の両親。
まず、映画は、ソファでぐ~す~ぐ~す~気持ちよく眠っている老人のアップから始まります。
そして、なんだか怪しいおみやげ屋さんをしている男・・・聖水というビンに水道から水をいれてきゅっなんてフタしています。
そしてもう1人の男と日長一日、お店の前で座っている。
あるカフェの前では、車がきき~~と止まると必ずといっていいほど、座席から人が飛び出して来て、おらおら!と喧嘩が始まる。
それを、まぁまぁとなだめるカフェでたむろしている男たち。
映画監督のエリア・スレイマンが、朝、起きて外を見ると自分の車の周りでヘンな踊りをしている男がいる。踊りかなぁ、それとも車を盗んだり、壊したりするのかなぁ~~~と思いながらもじっと見ている監督。
監督が映画制作の発表をしようとするとマイクがハウリングを起こし、何もしゃべれない・・・見に来ている人たちは勝手に携帯電話で話出すし、何故か、赤ちゃんを連れた女の人たちがいて、赤ちゃんが泣きだし・・・・監督何もしゃべれないまま、会場は騒然。
この映画の特徴は同じ事の繰り返しが微妙にずれてくるのを、構成させて見せるのです。あ、また、この人たちだ!今度は何が起きるの?
という密かなわくわくが出るのですが、見事に肩すかしをくわせてくれる。
例えば、監督の車の周りでヘンな踊りをしている人・・・・・3回目の時は姿が見えない・・・あれ・・・って思うと違う方向から踊りながら出てきて、見ている事、知ってるんだよ!って合図をするだけ。
しかし、ラジオから流れるのは、戦争のニュースばかり。そこへ警察の車がきき~~~っと急停車。警察官がどかどかどか~~と降りてきて、何が起こるか・・・・というと全員、壁に向かって立ち小便・・・・・・脱力。
そして冒頭のぐ~す~ぐ~す~って寝ているお父さんが出てくるのですが、これは、テレビが終わって、国旗が画面に出てくるのですが、(ここからは解説で知りました)イスラエル国旗とイスラエル国家が流れる。また監督が黒いスーツで赤白緑の配色の椅子に座ると、これがパレスチナの国旗になる・・・とか・・・もう、風刺っていうか、悪戯?
そして最後に、監督は、警察が立ち小便した時に1人がトランシーバーを落としたのに気づき、拾う・・・そこからちょっとした事件になるのですが・・・・監督は、ひたすら傍観しているだけです。妙に律儀に走り回り、報告しあう警官たちが滑稽。
というようにこの監督の映画は、悪戯っぽいシーンを絶妙な間でもって組み立てながら、イスラエルとパレスチナという「国境」みたいなものを描いていると思うのです。はっきり、こうですっという主張がなくさりげないから、あくまでも想像なのですが。
でも、見ていて、思わずぷぷぷ、くすくすって脱力笑いしてしまったのですけれど、侮れませんよ・・・この頭の良さ。