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日野智貴オフィシャルサイト

古田史学の会の例会に参加

2023.05.20 13:12

 今日は古田史学の会の例会に参加しました。私は「『日本書紀』の史料批判方法について」と題して発表しました。

 最近、これは古田学派(多元史観)の研究者に限らず、通説派(一元史観)の学者も含めて『日本書紀』の記述を矢鱈疑う人が多すぎます。

 ベストセラーになった河内春人氏の著書『倭の五王』や最近店頭で並ばない日はない倉本一宏氏の著作でも、『日本書紀』の内容を疑うどころか、継体天皇以前には我が国に世襲の王権が無かったという仮説が堂々と述べられています。

 一昔前には継体天皇の時に王朝交代があったという説が一世を風靡しましたが、まさか存在自体を否定する説が出てきて、それも歴史学者として名の知られた大学教授たちがそのような暴論を主張するとは、異常な状況です。

 このような立場を「疑古派」と言い、日本の歴史学界は基本的に史料の内容を「理由が無くても、疑う」ことに重点を置く研究者が多いです。それは世界史の分野でもそうで、未だに(世界の歴史学者の間では何十年も前に否定されている)「夏王朝架空説」が堂々と大学の教科書にも載っているような、ガラパゴスな学界となっています。

 史料の記述を重んじて手堅い論証を行うことを旨とするはずの古田学派でも、講演会に河内春人氏を招聘していることに象徴されるように、疑古派的な立場の人がいます。しかし、それは学問的な立場とは言えないので、その点について発表させていただきました。

 私が今回例として挙げたのが、多くの研究者が造作扱いしがちな仲哀天皇説話と聖徳太子説話です。仲哀天皇説話は「神に天皇が殺される」という、大和朝廷にとって造作の動機が皆無の説話であり、聖徳太子説話も『日本書紀』に載っている内容は特に造作の動機があるとは言えないものである、ということを指摘させていただきました。

 今回の発表で注目したのが、古賀達也代表による「東日流外三郡誌の考古学」という発表です。

 『東日流外三郡誌』は激しい「偽作キャンペーン」を受けて「偽書」との評価が定着してしまっていますが、戦後の偽作ではありえない内容が散見されます。

 その例が福島城の築造年代についてです。

 東北地方有数の城館遺跡として知られる福島城跡は、1955年に騎馬民族征服説で有名な東京大学教授の江上波夫氏らによる調査によって南北朝時代から室町時代の遺跡であると判断されました。一方、『東日流外三郡誌』では平安時代の承保元年(1074年)の築城としていました。

 『東日流外三郡誌』は市村村史版が1975年に、北方新社版(当該記述のある第3巻)は1984年に、それぞれ出版されていました。出版された当時では考古学の成果と矛盾する内容だったのです。

 ところが、1991年から富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館による発掘調査の結果、福島城は平安時代後期に築城されたことが明らかとなりました。つまり、考古学の成果が既に出版されていた『東日流外三郡誌』の内容を証明したのです。

 ネット上では一部で「『東日流外三郡誌』の考古学と一致する内容は、発掘されてから偽作しているのだ」等と言うデマが流れていますが、この福島城跡をめぐる経緯はこうした主張の誤りを示しています。しかし、偽作論者はデマであると判っていてそうした情報を一方的に流している訳ですが。

 今回の古賀さんの発表は、既に約30年前から古賀さんが言われていたことではありますが、今年に東北への実地調査をした成果も含まれており、改めて『東日流外三郡誌』の真作性が証明されたと思います。

 しかしながら、こうした『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」は、笠谷和比古教授に江戸時代の史料であると鑑定された史料も数点は存在するものの、それ以外は明治以降の写本です。そして、そうした写本の原本に当たるものはまだ発見されていません。

 今回古賀さんは、写本の中でも和田末吉による明治写本とその息子である和田長作による大正以降の写本とは区別して論じる必要がある、という旨のことを述べられていました。実は偽作論者から不審であるとされている部分の多くは大正以降の写本による記述ですので、私もこうした区別は重要であると考えます。

 さて、今回の古賀さんの発表で注目を集めたのは、「和田家文書」の大正以降の写本を作成した和田長作さんと秋田重季子爵らが一緒に移っている写真が“発見”されたことです。

 秋田子爵家は旧三春藩主の家系で、実は『東日流外三郡誌』は三春藩によって作成されたと伝わっています。「和田家文書」の発見者である和田喜八郎氏も秋田子爵家の当時の当主である和田一季氏と親交がありました。

 これについて偽作論者(例えば、原田実氏)は「和田家と秋田子爵家に親交があったのは和田喜八郎氏の代からであって、和田喜八郎氏が偽作に信憑性を持たせるために秋田子爵家を利用していた」等と主張していますが、和田喜八郎氏の祖父である和田長作氏が秋田重季子爵と親交があったことを示す証拠写真の登場は、こうした主張の誤りを示すものです。

 ただ、この写真は秋田重季子爵が移っていること自体は確実なのですが、他の人物が誰かについてはまだ「顔が似ている」「メモ書きがある」程度の傍証しかありません。さらに精度のある情報とするためには、秋田子爵家の記録と照合する必要があります。

 古賀代表は秋田子爵家に伝手が無いと言われていましたが、話を聞いて私はあることを思い出しました。

 実は、私がかつて修行していた宝蔵神社は、秋田子爵家と関わりがあります。

 というのも、秋田重季子爵には宝蔵神社はかなりお世話になっており、宝蔵神社では今でも秋田重季子爵の祥月命日には祭祀を行っているからです。

 そう言えば宝蔵神社には昨年亡き祖父の永代供養を申し込んで以来、参拝していません。いつもは一年に何回も参拝しているのですが、コロナ禍でここ数年は殆ど行っていないのです。近く宝蔵神社を参拝し、宝蔵神社で祀られている天界の秋田重季子爵にも挨拶をさせていただきたいと思います。

 他に正木裕さんの「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐戦』」や大原重雄さんの「男でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」も興味深い話でした。賛否は今は保留ですが、いずれ私も研究してみたいテーマです。