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Gravity_Heaven

肺を病みまして(3)ピンク・イズ・ニュー・ブラック

2018.06.17 03:13

 病院の朝は早い。午前2時に入院しても午前6時に灯りが点き、ナースさんたちの足音が急に大きくなる。ワゴンを押して入ってくるなりナースさんが採血し、血圧、検温、酸素飽和度を図り、テキパキ仕事を片付けていく。わたしは身体を差し出すのがやっとだ。

 酸素飽和度は90とまだまだだが、熱は38度台まで下がっていた。抗生物質えらい。1度下がるとかなり意識がはっきりしてくる。

 午前8時。朝食がやってきた。まだ食べられないよ……。トレイに載った札には〈米飯:180g〉とあるけど、結構なボリュームだ。いやそれより箸がない。着の身着のまま入院したわたしには箸がない。

「あのー、お食事には箸が載ってこないんですか?」

 おそるおそるカーテンを開け、同部屋のみなさんに声をかける。

「あ、わたしの割り箸あげるよ。たくさん買って余ってるんだ」前のベッドから声がして、ショートカットの女性が顔をのぞかせた。

 ポップだ!

『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』書籍版に登場する厨房のボス、Netflixでは「レッド」と呼ばれているポップそっくりの女性が、わたしに向かって割り箸を差し出している。

「ありがとうございます!」

「あとで一緒にセブン行こう。足りないものは結構セブンで手に入るよ」


 食後、マスクで武装したわたしとポップは1階のセブンイレブンに行った。わたしたち入院患者は、外来がある1階に下りるときには必ずマスクを着用するのだ。わたしは割り箸が30膳入ったパックとほうじ茶を買った。ポップはおやつを品定めしている。

 部屋に戻ると、ポップがこっちゃ来いと手招きした。「この中から好きなの取りな、みんなにも配るからさ」

 この人、自分の分だけでなく、部屋のみんなのおやつを買っていたのか。わたしはありがたくスイートポテトを頂戴した。食事は重いけど、スイーツなら食べられるような気がしたからだ。


 病院から借りていたベビーピンクのパイル地のパジャマは、正直ズボンのゴムが伸び伸びで、歩くたびにずり落ちないかと冷や冷やするしろものだった。夫氏はこれから仕事が詰まっていて、そうそう見舞いには来られないという。わたしはしばらくベビーピンクのパジャマで過ごすことになった。

 ピンク・イズ・ニュー・ブラック。新入り受刑者入院患者の誕生である。


 同部屋の3人は全員、何らかの形で肺炎にかかっていた。窓際のベッドのKさんはわたしとほぼ同じ病状で、背中に管を刺して膿を抜いたという。「痛いわよ~、辛いわよ~」何だかうれしそうだ。痛い仲間が増えるのはうれしいよね。でもわたしはKさんほど胸に水がたまっていなかったので、穿刺(管を刺すこと)なしで治療することになったとナースさんから説明があり、Kさんに報告するとがっかりした顔を見せた。

 Kさんとわたしは、血中にへんな菌やウイルスがたっぷり混入していたのも同じだった。こういう患者の場合、採取した血液をシャーレで培養し、そこに出現したウイルスや菌を見て治療計画を立てる。わたしはいわゆる常在菌(そこらに飛んでいる普通のやつ)ばかりだったが、Kさんの血液から、なんとミンクが感染するウイルスが検出されたのだ。

 主治医とKさんとの会話を耳ダンボにして聞いていたわたしたち同部屋仲間は、先生が部屋を出たら速攻で彼女のベッドに集まった。

「ミンクって何? Kさんミンクのコート持ってるの?」

「持ってるわけないでしょ、わたし、普通のおばさんよ」

「イタチ系のペット飼ってません? フェレットとか」わたしが訊く。

「フェレット?」

 すかさずスマホでフェレットを検索し、ドヤ顔で画像を見せる。

「あらかわいい。でもうち、ペット飼えないからそれはないわ」

「じゃ、ご近所にハクビシンが出没するとか」しつこいな、わたし。


 この3人がありがたかったのは、適度に話し、適度に自分の世界を作って閉じこもる人たちだったことだ。おかげでゆっくり眠れたし、本も読めたし、タイミングが合えば思いっきりおしゃべりできたしで、入院中はストレスはおろか、経済的に許せば一生ここでこうやってゴロゴロしながらKindle読んでいたいと思ったほどだった。

 病室の窓は部屋の一面がほぼガラスかというほど大きく、ただ、安全を考慮して開かない作りになっていた。当時は梅雨直前の美しい季節で、わたしたち4人は、その窓から輝くばかりの木々の緑をよくながめたものだった。

「ここからだと角度が悪いからさ、しゃがむと月が見えるのよ」そう言ってKさんがしゃがみ込んだ。まねしてしゃがみ、のぞき込むようにして空を見上げると、まだ白い月が見えた。

「この時間だけ月が見えるの」

 中年と高齢者の狭間にいる4人の女たちが一列にならんでしゃがみ込み、軽く首をかしげて月を見やった。この日のことを、わたしは一生忘れないだろう。

 続きます。