「キリストにならって」
使徒の働き 14章19―28節
19. ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。20. しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。21. 二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、22. 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。23. また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。24. 二人はピシディアを通ってパンフィリアに着き、25. ペルゲでみことばを語ってからアタリアに下り、26. そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。27. そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。28. そして二人は、しばらくの間、弟子たちとともに過ごした。
礼拝メッセージ
2023年5月21日
使徒の働き 14章19―28節
「キリストにならって」
囚われの身となっているお姫様やガールフレンドを救い出すために、自らの身の危険も顧みずに敵陣に乗り込んでいく。物語や映画によく出てくるシーンです。愛しているので、自分が犠牲になっても構わないと、厳しい現場に向かっていく。今日の聖書箇所もまさにそのような場面です。
パウロとバルナバは、第1回伝道旅行でリステラという町を訪問しました。そこで大きな騒動が起きてしまいます。先々週の礼拝で開きました使徒の働き14章の前半部分です。リステラの町に、生まれつき立ち上がることができない障がいをもった男性がいました。彼は、パウロが語る主イエス・キリストの福音を真剣に聞き、信じます。そして、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と語るパウロの言葉を信じて、立ち上がったのです。神様がなしてくださった奇跡でした。
しかしリステラの人々は、「このパウロとバルナバに大いなる力があるのだ!彼らは神の化身(けしん)に違いない!いけにえをささげて、この神々を礼拝しよう!」と叫び出します。パウロは、大慌てで群集の中に飛び込んで行き、その過ちを指摘し、止めさせました。
騒動がようやく治まったと思った時、火に油を注ぐかのように、パウロに敵対する者たちがやって来ます。遠くからまた近くから徒党を組んで。19節「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」
パウロが語る福音に猛反発する人たちがいました。彼らは、パウロという存在そのものも許してはおけませんでした。どこまでもしつこくパウロを追いかけます。19節に出てくる名、「アンティオキア」から「イコニオン」までは、だいたい140キロメートルほど。さらに「イコニオン」から「リステラ」までは、約40キロメートルの距離がありました。ある人たちは200キロ近い道をパウロの跡を追ってやって来たのです。
パウロに敵対するユダヤ人たちは、言葉巧みにリステラの人々の心にもパウロへの怒りを搔き立てたのではないでしょうか。
「パウロが語ることを、まともに聞いていると、大変なことになりますよ・・・あなたたちが、これまで大切に拝んできた神々、ゼウス様やヘルメス様を、おとしめることになりますよ。それでも良いのですか? あの、とんでもないことを言うパウロを、私たちと一緒に葬り去ろうではないか」
ついさっきまで「バルナバはゼウスの神だ!パウロはヘルメスの神だ!」と言って二人を称賛していた群集が、今度は石を投げつけ、二人を殺そうとするのです。
パウロは半殺しにされ、もう死んだと思われ、町の外に引きずり出されます。しかし20節を見ますと、「しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。」
全能の神様の確かな守りの御手がありました。神様の力強い御手がパウロを包んでいました。殺されかけていたパウロがすっと立ち上がり、もう一度リステラの町に入って行ったのです! さらに翌日旅立ち、新たな地デルベで宣教していきます。そこでは多くの救われる人々が起こされ、キリストの弟子たちが誕生します。豊かな宣教の実りを与えられ、第1回伝道旅行は折り返し点を迎えます。派遣してくれたアンティアキア教会へ帰って行きます。
パウロとバルナバは帰り道に、なんと来た時と同じ町々を通って行きます!迫害され追い出された町、命を狙われた町、石を投げつけられて半殺しの目にあったあの町この町を再訪問するのです!!21節「二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、」
リステラの町で群集から石でめった打ちにされ、殺されそうになったパウロ。でもその後、パウロはリステラの住民を恐れて「あんな町には、もう二度と近付きたくない」とは考えなかったのです。帰りにリステラに寄り、使徒の働きを読み進めますと、パウロは第2回伝道旅行(16:1~)でも、第3回伝道旅行(18:23)でも、このリステラを忘れずに訪問しています。そこに行けば、大きな危険にさらされるかもしれない。再び殺されそうになるかもしれない。それでもあえてパウロは、この町に入って行くのです。
パウロたちは危険を顧みずに、危険を覚悟の上で、あえてもと来た道を引き返していきました。どうしてでしょうか? そこには、パウロのことを待っている人がいたからだです。その町には、かけがえのない・大切な仲間が住んでいたからです。パウロが語った福音を信じて、キリスト者=クリスチャンとなった人たちでした。パウロは、彼らを見捨て、彼らを素通りして、帰ることはできませんでした。
イエス・キリストを信じて神の家族となった仲間を愛するがゆえに。教会の兄弟姉妹を愛するがゆえに、パウロはあらゆる危険を覚悟の上で、以前のあの町この町を訪問して行きました。
リステラやイコニオンに入って行ったパウロは、22節を見ますと、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。
パウロは、生まれたばかりの新しいクリスチャンの信仰を思い、彼らを熱心に励まします。「これからどんなことがあっても、どんな迫害が待ち構えていようとも、皆さん、救い主イエス・キリストを信じる信仰にとどまり続けてください!」、「福音の素晴らしさ、豊かさ、その絶大な価値にとどまり続けてほしい!」真心から篤く語っています。そして「イエス様は十字架の激しい苦しみを耐えてくださって、よみがえられ、父なる神のみもとに帰られた。同じようにキリストにつながっている私たちも、この地上での生涯は様々な試練や苦しみを通らされる。けれどもその後、神の栄光の御国に凱旋する。苦しみがあるのは避けられない。それも父なる神の愛の御手の中にあること。だから苦しみの中にあっても、主の恵みを信頼し、生きてほしい」パウロはそう語ります。
パウロはクリスチャンの信仰を強め励まし、続けて23節で、「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」 パウロは、新しく誕生したその町の教会が、ひとり立ちしていけるように、教会の組織をきちんと整えるのです。その町の教会にふさわしい長老を選びます。今で言えば、みことばを取り次ぐ牧師であり、教会のリーダーの役員のような立場でした。パウロは「迫害下でもこのリーダーたちによって、信徒たちの信仰が守られますように」と断食し祈りました。そして、そのリーダーたちを主の御手に委ねたのです。
あらゆる困難・あらゆる危険が待ち構えていようとも、パウロは、その町に帰って行きました。それは、ただただその町の兄弟姉妹を愛し、その町の教会を愛するゆえでした。
この愛、パウロの愛は、まさに主イエス様の愛でした。イエス様もパウロと同じように、ご自身が石打ちにされそうになった場所に、自ら帰って行かれたことがありました。先ほど交読したヨハネの福音書の11章です。「ラザロが重病だ」という知らせをイエス様が聞かれたのは、ヨルダン川の東側でした。ユダヤの地で石打ちに遭いそうになったイエス様はそちらに身を避けておられました。しかし、愛するラザロが苦しんで死にそうになっていること。彼の姉妹マルタとマリヤの泣き悲しむ姿を思い浮かべた時、イエス様は、「ユダヤの地に戻ろう!」と決心されたのです。時を見計らって、再びユダヤの地に戻って行かれました。周りにいた弟子たちはびっくりして、止めようとします。「先生、なぜですか?」と言う声を振り切って、イエス様は戻って行かれました。
愛する人のために、危険を承知の上で出て行かれる。これはイエス様の地上での生涯そのものでした。全知全能の神であるお方、あらゆる栄光を天で受けておられた主イエス様が、限界だらけ・弱さだらけの一人の人間となって、この地上に生まれて来てくださいました。神のひとり子が人間となられる。そこには伝染病にかかる危険性もありました。飢え死にしてしまう可能性とも隣り合わせの生活をしてくださいました。人々にねたまれ、憎まれ、殺されそうになる危険・・・、まさにその危険のただ中に、イエス様は自ら飛び込んでくださいました。
私たちを愛するがゆえです。私たちを救い出し、私たちを生かすために、イエス様は危険だらけのこの世界に無力な人間となって生まれ来てくださいました。そして、十字架の御苦しみへと自ら進んでいかれ、私たちのために身代わりの死を遂げてくださいました。
パウロの愛の原動力、パウロの愛の源泉は、ここにありました。イエス様の愛で心満たされ、イエス様の愛につき動かされて、パウロも危険のただ中に飛び込んで行きました。まさにイエス様のように、イエス様にならって歩もうとした、パウロはそんな信仰者でした。
後にパウロはテモテに宛てた手紙の中で、こう言っています。「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。」(Ⅱテモテ2:8)。「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。」
イエス様をいつも思い、イエス様の愛に感動し、イエス様の愛に押し出されて人々のところに出て行く。愛の源泉である主イエス様をいつも覚えながら、歩んで行きましょう。
最後に、今日の聖書個所のパウロと周りの人たちの言動を、物語風に表現している文章を見てみましょう。『小説パウロ キリストから世界を託された男』という本からの引用です。 パウロの人物像をドイツ人放送劇作家が、確かな時代考証をもとに、聖書を膨らませて書いた歴史再現小説です。
リステラでの石打ちで少なからず失血したパウロは、大きな痛手を受けていた。体もかなり衰弱していたので、回復はゆっくりとしか望めなかった。しかし数か月が過ぎた頃、パウロはようやくちょっとした旅行ならできるくらいにまで回復した。 - ある晩のこと、パウロ、バルナバ、テモテの三人はそろって、それまで経験してきたことについて長いこと座って語り合っていた。
「これらの出来事を通して、私がますます悟るようになったことは、神の御業はただ痛みと苦しみを通してのみ前進するということだ。神の国には安易な道は決してない」パウロがそう言った。
「でも私は苦難が恐ろしいです……」テモテがそっと告白した。「テモテ、恐れることはない。本当のところ、それはお前の苦しみではない。『キリストの苦しみ』なのだ。福音のゆえに苦難が与えられる時、お前はキリストの苦しみにあずかっているのだ。そうとわかれば、お前も喜んで主とともに苦しもうとすることだろう。主とともに死ぬむ者だけが、主とともに復活する。主の御名は日に日に私にとって麗しいものとなっている。だから私も主のように、この命を兄弟姉妹のために捧げたい。」
「何をなさるおつもりですか」テモテは心配そうに尋ねた。
「リステラに引き返そうと思う」パウロは答えた。
「それは無謀だ」バルナバがすかさず反対した。
「もちろん覚悟の上だ。だが考えてほしい。もし私たちが行かなければ、せっかく灯された信仰の火も、すぐにまた消えてしまうだろう。これまでに行ったすべての教会を訪ねて。クリスチャンたちが群れの責任をそれぞれ担えるようになるまで、教会を励ます必要がある。」
「でも、もう少し待つべきではないでしょうか。」テモテが少し遠慮がちに言った。
「いや、行こう」パウロは、はっきりとそう言った 。
ヒルデガルト・堀江 (著), 堀江 通旦 (監修), 山形 由美 (翻訳)『小説パウロ キリストから世界を託された男』(いのちのことば社、2020年)、186,187ページ。
お祈りします。