ケツァルコアトル
ケツァルコアトル( Quetzalcōātl )(Quetzalcóatl)( Quetzalcoatl)
ケツアルカトル、ケツァールコアトル、白いテスカトリポカ
マヤ文明ではククルカン。
姿は「ケツァル(鳥)の羽をもつ蛇」また「白い肌に黒い髭の美男」
「白い肌」、そしてケツァルコアトルの遺言「私は一の葦の年、必ず帰ってくる。そして、今度こそ私が要となる。それは、生贄の神を信仰する民にとって大きな災厄となるであろう。」
アステカはスペイン軍により滅ぼされたが、偶然にもスペイン軍が侵略してきた年が
「一の葦の年」であり、またスペイン軍の「白い肌」を見て「ケツァルコアトルの再来だ」と錯覚し、対応が遅れたとされているが、これは敗北になんらかの理由を付けようとした結果ではないかという説がある。
元は水や農耕に関る蛇神だったが、のちに文明神と考えられるようになり、
人類に火をもたらしたともされている。
アステカ神話では風の神「エエカトル」、金星の神「トラウィスカルパンテクトリ」とも同一視されている(トラウィスカルパンテクトリはケツァルコアトルの凶暴面を表しているとも言われている)
始原の創造神夫婦「オメテクトリ(夫)・オメシワトル(妻)」の4人の息子のひとりとして扱われる。
闇の神「テスカトリポカ」とは兄弟(双子)神でありながら宿敵同士であり、
時には世界創世に協力し合い、対立して滅ぼし合う、永遠のライバルのような関係にある。
第1の太陽の時代、太陽となったテスカトリポカをケツァルコアトルは天から叩き落とし、
ジャガーに変えてその時代の人間(巨人)を食い荒らさせて滅ぼし、
第2の太陽の時代ではケツァルコアトル自身が太陽となるが、
テスカトリポカが風を起こして万物を吹き飛ばしたことによって滅ぼされ、
トラロック(雨の神)が太陽となった第3の太陽の時代では、
ケツァルコアトルは火の雨を降らせて人間を焼き滅ぼして七面鳥へ変える。
第4の太陽の時代が滅んだのち、新たな人間を創造するため
ケツァルコアトルは死の世界「ミクトラン」へと赴き、
そこで冥界の支配者「ミクトランテクトリ」との知略戦も繰り広げることもあり、
第5の太陽が創造された後、その太陽に神々の血を捧げる役割を担ったこともある。
また、第5の太陽が作られる以前にトウモロコシを人間の食料として定めたのもケツァルコアトルである。
セ・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトル
『1の葦』の日に生まれた我らの王子ケツァルコアトルという意味
「1の葦」とは各年に割り当てられた名前の一つで、52年ごとに1巡する。
1から13の数字と20の物の組み合わせは各日に割り当てられ、260日
で一巡する。ある年の元日が「1の葦」ならその年が「1の葦」になる
トルテカ族にとってケツァルコアトルは偉大な存在であり、その信仰心から
王や神官がケツァルコアトルの名を名乗ることもあった。
この『セ・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトル(以下アカトル)』はトルテカの族長ミシュコアトルの息子であり、人間である。
神話上の蛇神のケツァルコアトルと同一視される事が多々ある。
風貌は黒い髭を生やし、肌は白く、髪が長かったとされる。
トルテカ神話、アステカ神話にはこのアカトルの歴史的事件を神話として扱っている場合がある。
アカトルは自らの身をトゲで刺すなど様々な宗教的な苦行を行い、ケツァル鳥の羽の針や翡翠でできたトゲを作り、儀式の際に焚く香に翡翠、トルコ石、赤い貝殻を燃やした。
彼は生贄の儀式を好まず、鳥や蛇、蝶のみを生贄として捧げ、国民から名声を得た。
しかし、戦争や争いの神「テスカトリポカ」を崇拝する集団との権力抗争の元となった。
これらの事からケツァルコアトルは生贄の儀式を嫌うものと思われがちだが、それはトルテカの神官王(アカトル)のほうであり、ケツァルコアトル神自体は生贄の儀式を拒まない。
メキシコ中央高原の範囲にあるチョルーラでは、ケツァルコアトルへの供物として多数の人間が生贄として命を断たれている記録が残っているほか、現実に各地のケツァルコアトル/エエカトル神殿跡からは生贄の人骨が出土している。
ケツァルコアトル(王)が善とされる歴史
トゥーラを首都とするアカトル王(ケツァルコアトル)の治世の時代、
トルテカ族は近隣の山で翡翠や金銀の富を手に入れ、
アカトルは人を生贄にする儀式をやめるように言い、
これらの改革によってアカトル王は国民が平和に暮らす時代を築いた。
しかしそれを良く思わない呪術師「テスカトリポカ」(テスカトリポカ派)は、
知略によってアカトル王を陥れる事を企む。
姿を変えたテスカトリポカ(変化した姿は蜘蛛、老人等の説がある)は、
プルケという酒をアカトル王に勧める。
勧めるままにプルケ酒を飲み続けたアカトル王は泥酔して正気を失い(心が荒み)、
妻の事も忘れて妹ケツァルペトラトルと肉体関係を結ぶなどの醜態をさらし、国民からの信頼を失う。
またテスカトリポカは、腰布をつけずに緑のチレ(唐辛子の一種)を売る商人に化けて、アカトル王の娘を誘惑して、婿入りを認めざるを得なくさせたり、小人と背骨が曲がって前かがみになった人々のような身体障碍をもつ人々を率いる戦士としてアカトル王の味方につき、敵に倒されるようにしたり、トルテカの人々にあやつり人形をみせて、好奇心から集まってきたところを皆殺しにしようとするなどあの手この手で工作したという。
トルテカの人々は、「テスカトリポカ」を石打ちにして殺すことができても、その遺体が腐ることによる被害からのがれることができなかった、とされる。
その後アカトル王は正気に戻り、テスカトリポカ派に都を渡すまいと
持っていた宝を全て隠し、田畑を焼き払い、神殿を破壊して立ち去った。
立ち去る際「1の葦の日に必ず私は戻ってくる」という言葉を残し、
そしてわずかな臣下を連れて一艘の舟を漕ぎ出し、メキシコ湾岸まで行くと、蛇のいかだに乗って、日が昇る方向(東)の海へと消えたという。
別の伝承では、舟の上で自身を炎で焼き、その遺灰があらゆる色の鳥、または金星に変わったとされる。また死なずに金星に姿を変えて天に逃れたともされている。
しかしこれはケツァルコアトルを名乗っていたトルテカの王が、人身供犠に反対してトルテカの首都を追い出された事件からつくられた神話だとされ、スペイン軍の征服後に作られたと推定されている。
またこのケツァルコアトルが987年にマヤの地を征服し、ユカタン半島の各地にメキシコ中高高原の勢力の侵略を窺わせる建築様式や、チチェン・イッツアの戦死の神殿の壁画などを初めとする考古資料に見られる。
ケツァルコアトル(王)が悪とされる歴史
トルテカ族は、ウェイマツイン(偉大なる手)と称される神官に率いられて、トゥーラの地に訪れると、吉なる土地であるということで、6年間かけて、都市が築いたという。
トゥーラの地は、鳥や獣が多く生息し、肥沃な土地で、果実がよく実ったので、「果実の土地」と呼ばれるようになった。 トルテカの首長たちは、自分たちを治める王について協議し、「チャルチウトラトナク」という人物を王とした。 紀元994年にウェマク二世がトゥーラの王となり、はじめは善政を行っていたものの、次第に横暴になっていった。
そのため、謀反や凶兆が頻発し、この状況を利用して呪術師のトウェヨは、催眠効果のある太鼓をならし、街の人々を狂ったように踊らせた後に、断崖に駆け上らせて、自ら崖から転落するようにさせ、「この街は滅びる。」と言うやいなや、トゥーラの街を囲む山々が一斉に噴火したという。
トゥーラの長老たちは、神々が怒っているので、赦していただくために生贄をささげなければならないと、戦争でつかまえた捕虜を生贄にしようとした。しかし、生贄にした捕虜の若者からは、心臓のみならず血の一滴も出ず、かえって、その生贄が腐って、街中に疫病がまんえんし、街中の人々が次々に死んでいった、という。
一方、王は、街中の人々の不幸をよそに、お気に入りの臣下たちと森をめぐっていると神々に呼び止められ、王のせいで災いが起こっていることについて問いただされた。
王は、自分の王位と富を安堵してほしいとこびたところ、神々はあきれて、王が自分の行いを自覚して、目を覚ますようにと、あと6年間わざわいを下すと宣告して消えた。
そののち、冬には厳しい寒さによって激しい霜が降り、夏には激しい日照りで川が干上がり、草木は枯れて育たず、人々は、飢饉に加えて冬は寒さ、夏は暑さにもだえ苦しんだ。 激しい暴風雨が街を襲い、濁流と多数の大きなガマガエルが街路にあふれた。翌年には激しい旱魃とイナゴの大群で、作物はまったく育たず、畑は荒れ放題となった。 その後にはひょうと激しい雷雨が降り注いだ。それは世界や大地といったものが叩き壊されるほどすさまじいものであった。
これらの激しいわざわいのため、トゥーラの街の9割の人々が死んでしまうほどであった。
王はさすがに退位する決心をし、身分の低い妾腹の子であるアクシトルに王位を継がせると主張した。 人々は、アクシトルの血筋のことで激しく反対したが、王が譲らなかったので、二人の指導者を立てて反乱を起こそうとしたが、 王がその二人に密使を送って望みのままに報償をやると伝えて翻意を促したのが功を奏したので、反乱は沙汰やみになった。
アクシトル(以下 王二世)も、最初は善政を行っていたが、やがて父王のような暴君になっていった。国内でいっせいに蜂起すると、反乱勢力に有力な呪術師のウェウェツインが味方したため、勢いが強かった。 アクシトルも反乱の首領者たちを莫大な賄賂でまるめこむよう必死に工作を行っていた。
そうこうしているうちにトゥーラの周囲に住む異民族が、アナワクの肥沃な土地に侵入し、あちこち占拠するようになった。 トルテカの賢人と称される人々は、この事態にどう対処するかと聖なる都とされたテオティワカンに集まり会議を行ったが、その席上に巨人があらわれて、20人ほどをむんずとつかんで、地面にたたきつけて殺したり、子どもの姿をした巨人の化身が現れると、頭が膿んで腐りだし、その激しい悪臭でバタバタと死者が出るなど 会議がじゃまをされた。
そのようなことがくりかえされ、挙句の果てにその巨人は、神々はお前たちを見限ってるから、何をしてもむだだ、と宣告した。 トルテカの有力者たちは家族をひきつれて国から立ち去って行った。
または、全王ウェマクは、干ばつにともなって、トルテカ・チチメカとノノアルカの抗争がおこり、ウェマクは、1156年もしくは1168年にチャプルテペック(メキシコシティ西部)に遷都し、そこで自殺したとされる。トゥーラにわずかに残った人々も、メキシコ中央高原南部のメキシコ盆地、プエブラ盆地を通過する過程で、その地域を征服し、チョルーラへ移ったとする
こちらのケツァルコアトルを悪とする方では「トウェヨ」「ウェウェツィン」「トゥーラの長老」がテスカトリポカ派のよう。そしてこちらではテスカトリポカの生贄儀式に対し、国を救うという正統そうな理由も付き、この伝承を残した人物はテスカトリポカ派の人だろう。
しかし国に訪れた災害は確かな事であり、王がどんな理由であれ国民に醜態を晒し、その結果国を離れねばならなくなったのも合致している。
歴史から見ても「生贄のために」戦争をして捕虜を確保。それらを生贄にした事実もある。
しかし心臓のみならず血の一滴も出ずといった事は無い様。
アステカ文明消滅
アステカ帝国はスペイン人によって持ち込まれた伝染病が原因で国民が倒れ、消滅したとされていたが、最近になって「サルモネラ菌」つまり食中毒が原因ではないかと言われている。