広島・長崎の原爆のおかげで韓国は植民地から解放されただって?
「加害」と「被害」の善悪二元論
韓国人が「被害者」だとか「加害者」だとかいう場合、この言葉に託す彼らの感情、想念は、彼ら独特の論理に基づく特殊なものであり、われわれ日本人にはとても理解しがたい。
日本が広島・長崎の原爆の犠牲になり、「被害者」として苦しんだ歴史を強調すると、韓国人はみな怒り出す。朝鮮半島を「植民統治」した加害者である「戦犯国」日本が、たとえ原爆であっても「被害者面(づら)」するのは許せない、原爆の犠牲になるのは当然であり、それに抗議するのも許せないという感覚なのである。
日本による韓国併合は、当時の朝鮮が抱えた反近代制や後進性、それに当時の朝鮮半島を取り巻く列強諸国など国際政治の結果であるという客観的な現実を直視することなく、「日本が全てを奪い、自分たちはその犠牲になった」という思い込みから、併合から一世紀以上たった現在の視点からでも、統治者である日本は絶対的に悪、被統治者である自分たちは善、という単純にして強烈な二元論に立ち、そこに何の疑いを抱くこともない。
しかし「被害」の具体的な体験はない
だからといって、その彼らが被害者として具体的に如何なる体験を持っているのか、その被害の実態とは何だったかと問うても、実際に経験した被害の事実はなく、「被害者」といっても、そう伝えられ教えられてきたことに基づいた、観念的な想像の産物でしかない。何よりも日本統治時代を経験した年配者が「日本統治時代は良かった」と口にする一方、何の体験も持たず、ただ反日教育を受けてきた若い世代のほうが、過激な反日デモや抗議活動に走る事例のほうが多い。
さらに自分たちが「加害者」となったベトナム戦争での多数の村民虐殺事件やベトナム人女性に対する性暴力、また自分たちが「被害者であると同時に加害者」となった朝鮮戦争中の同胞殺害、いわゆる「良民殺害事件」(最大120万人の民間人が虐殺されたとされる「保導連盟事件」、済州島4.3事件、麗水(ヨス)順天(スンチョン)事件など)については、加害者として事件の真相に迫り責任を追及する動きは乏しい。
<当ブログ2022.01.12 「朝鮮戦争前後の民間人虐殺事件をどう釈明するのか」参照>
原爆慰霊碑参拝が過去への「謝罪」であるべき?
ところで、今回のG7広島サミットでは韓国の尹錫悦大統領も招待され、岸田首相とともに広島平和公園の一角にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝した。このことについて、韓国の中央日報は「過去史の前に…韓日首脳がともに頭を下げた」と報じ、西ドイツのブラント首相がユダヤ人犠牲者の碑の前で跪く写真まで掲載した。まるで岸田首相が「加害者」として韓国人原爆犠牲者に頭を下げたような形になっている。しかし、日本の首相が加害者として頭を下げる謂われはなく、西ドイツのブラント元首相に相当するのはアメリカのバイデン大統領であろう。
同じく朝鮮日報5月22日付の「尹大統領と岸田首相が原爆慰霊碑に献花…韓国与党『植民地の歴史を反省』、野党『つじつまが合わない』」という記事でも、「韓国人原爆被害者は日帝による強制動員で連れ去られ、命を失った方たちがほとんどだ」「日帝による強制動員に対する謝罪や補償から顔を背け、岸田首相が韓国人原爆犠牲者を追悼するのはつじつまが合わない」という韓国野党「共に民主党」の主張を報道した。
犠牲者は「強制徴用」労働者とは限らない
いずれの記事にも、広島で原爆の犠牲になった朝鮮半島出身者は、当時、「強制徴用」された「被害者」だったという韓国特有の論理がある。
朝鮮半島における「戦時徴用」は1944年9月以降に始まったので、原爆投下当時に「戦時徴用」で日本に来ていた朝鮮半島出身者も確かに一部はいたかも知れないが、当時広島にいた朝鮮半島出身者のすべてが「強制徴用」の人たちだったということはない。1944年9月以前から広島に在住した朝鮮人は自らの希望で、日本に渡った「募集工」や出稼ぎ労働者だった。その証拠に、いまも生存している韓国人被爆者は幼い子供時代に被曝した。幼い子どもが徴用労働者だったはずがなく、両親・家族とともに出稼ぎのため広島に移り住んでいたから、被曝したのである。
それに「戦時徴用」といっても、朝鮮半島の人々も、当時は「日本人」であり、戦時下で共に米英などの敵国と戦う同志だった。そのことを端的に示すのが、広島平和公園の中の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に刻まれた文字からも読み取れる。「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」と書かれた碑文の横には、「李鍝殿下ほか二万余の霊を祀る」と刻まれ、韓国人被爆者の筆頭に李鍝(イウ・りぐう)の名前が挙げられている。
慰霊碑に朝鮮王朝末裔の名前が刻まれた
李鍝(1912~1945)は、朝鮮第26代国王で大韓帝国初代皇帝の高宗(コジョン)の孫で朝鮮王朝・李王家の最後の末裔に当たる。韓国併合によって日本の皇族に準じる地位にあった李王家は、日本皇族の例に倣い、男子はみな軍籍についた。李鍝も10歳で学習院初等科に入り、陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、1941年陸軍大学校を卒業。1945年、陸軍中佐(教育参謀)として勤務していた広島で、師団司令部に出勤する朝、爆心地から710mの地点で被爆、その日の夕方、捜索隊によって発見されたが、翌未明に死亡した。
「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」は、李鍝が瀕死の状態で見つかった広島市本川橋のたもとに最初つくられ、その後、平和記念公園に移設されたもので、李鍝と慰霊碑はそれだけ深い関係にある。
広島・長崎の被爆者のうち、10人に1人は朝鮮半島出身者だったとも言われるが、その代表的存在として李鍝の名前が慰霊碑に刻まれることになったのである。しかし、李鍝は同じ日本人、日本軍将校として戦争に従事するなかで原爆の犠牲者になったのであり、そこに「加害者」や「被害者」という関係はないはずだ。
「民族解放論」と韓国人被爆者への礼遇
韓国には、日本が戦争に負けて「植民地」から解放されたのは、広島・長崎への原爆投下があったおかげだと考える「民族解放論」という考え方があって、広島・長崎で被曝したあと祖国に戻った韓国人被爆者は、冷たい目で見られ、差別を受けた。被曝の後遺症を苦しみながら救いの手を申し出ることも出来なかった。
韓国人被爆者に日本政府から被爆者健康手帳が交付され、渡日治療ができるようになったのは2008年になってからだ。韓国には、現在、被爆者健康手帳の交付を受けたおよそ1800人が南部の陜川(ハプチョン)などを中心に暮らしているというが、韓国原爆被害者協会によると、終戦直後に広島、長崎から韓国に戻った人は2万3000人と言われる。しかし、陜川に原爆被害者福祉会館がオープンした1996年ごろまで被爆者の存在を知る人は少なく、被害を伝える韓国初の資料館が陜川で完成したのも2017年だった。<東京新聞5月17日「G7サミット、日韓首脳が広島の韓国人慰霊碑参拝へ 韓国の被爆者・被爆2世の苦境は今も」>
要するに韓国人被爆者2万人あまりは、自ら被爆者であると名乗り出ることも出来ず、差別に苦しみ、戦後60年あまりの間、社会の援助を受けられないまま、後遺症に苦しみながら、人知れず死んでいったことになる。
日韓首脳が韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝したことについて、日本植民統治の過去史がどうのだとか、加害者として謝罪がどうのとか、言う前に、韓国人被爆者を冷たく扱ってきた自分たちのこの半世紀あまりの歴史をどう総括するのか、韓国メディアはそうした問題も論じるべきではないか?