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ながらへば またこのごろや しのばれむ

やりたいことをやって生きたい。

2018.06.19 23:23

最近、人間をやめていた。もう何日も大学に行ってない。ひたすらベットでダラダラしたり、youtubeを見たり、ファミマの乾麺をボリボリ食べたり、たまーにバイトに行ったり。たった今も、リサーチに使っているはずのMac Bookで自治をしてきた。プライベートな空間が0の熊野寮では、夜になるとトイレの個室が埋まる。みんなプライベートな空間を求めてる。そこで何をしてるのかは知らないが。僕は夜の自治と呼んでるけど。


変な時間に寝ていたら、寝れなくなって今午前6時だが、このブログを書いている。洋楽を聴きながら勢いで書いているから、少々おかしくなると思う。深夜テンションてやつだ。


一つだけ、ここに誓うことがある。このブログと自分ノートにだけは嘘はつかない。かっこつけない。ありのままの自分を書こうと思う。そうじゃないとこれをやる意味がない。


ツイッターもインスタも親にアカウントを教えてしまって、呟きづらくなった。授業をサボってる話や、色んな自治をしてる話なんか親に知られたくない。現代人は大変だ。常に周りからどう見えるかを気にして生きてる。何でもいつでも言いたいことを言って、好きなものを発信できるはずのSNSが今や、友達、親、世間の見えない監視の目を気にしながら、現状報告もしくは飾った自分を見せるための場になってしまった。


何も、だからダメなのだと言う批評家でも、監視社会の世の中はクソだと言うニヒリストでもない。ただ僕自身、人の目を気にしがらつぶやくスマホの中の世界に疲れた。人目を気にせず、好きなことを好きな時に好きなだけ言いたいと思いこれを始めた。


それならノートに書けばいい。日記にすればいい。なぜブログに書くのか。わからん。見られることに疲れても、まだ見られたいのかもしれない。自分の知らない人たちと内容を共有して、共感したいのかもしれない。見られたくないのに、見られたい。自分は変態なのかもしれないな。


「他人の目など気にせず、やりたいことをやろう!」と言う結論でこの記事を書きたかったのだが、思ったことをそのまま書いていたら、それがあまりにも無責任な帰結だと言うことに気づいた。そして僕が他人の目をガンガン気にしていることに改めて気づいた。他人の目を気にしないなんて無理だ。他人の評価には目もくれず、自分のしたいことだけをして生きるなんて今の僕にはできない。そんなことできる人間いるのかな。むしろ、他人の目を気にすることができるから、治安が保たれたり、人類が存続できてるのかもしれない。世の中の全員が本能のままに行動したら恐ろしい事態になるのは想像がつく。


じゃあ、僕はどうするべきなんだろう。僕には一つポリシーがある。正直であることだ。自分にも、他人にも。僕は、自分の思う通りに生きたい。自分のやりたいと思うことをしたい。上との矛盾に僕も驚いている。


いや、もしかしたら矛盾していないのかもしれない。

他人の目を気にすることと自分のやりたいことをやることは必ずしも相反しないのかもしれない。他人の目を気にしたいならすればいい。「他人の目を気にしてその行為をすること」と「他人の目を気にせず自分の欲望に従うこと」を天秤に架けた結果、自分がどちらを選ぶかだけなのではないか。


どれくらい他人の目を気にするか、それは人それぞれの個性や育ち方によると思う。もはや「他人の目を気にしたいのか」、「それとも自分の欲求を満たしたいのか」という対立なのかな。


いや、それもまた違うかも。人間はやりたいことをやってるのかな。究極的に言えば、人は常に選択しながら生きている。人の目を気にするもしないも、欲望のままに行動するもしないもその人の選択だ。選択したということは、それが他の選択肢よりベターだと判断したということだ。やりたいことなのか、やらざるを得ないことなのか。


ここまでくると、他人の目を気にするorしないとか、自分のやりたいことをするorしないではなく、自分で決めるor他人に決められるなのかも。


他人の評価が欲しいなら、そうすればいい。他人の評価を気にせずともやりたいことがあるならやればいい。それが自分の判断なのか、他人に「そうしなさい」と決められたことなのか。じゃあ、僕は自分で自分の進む道を決めて生きたいのかな。


しかし、最後に決めるのは自分だ。究極的に「他人に決められる」なんてことはない。ダメだ。迷宮に迷い込んでしまった。この問題については引き続き考察したい。思いついたことを書き散らしてしまった。


くだらない朝のジャンケンが始まる時間なので寝るとしよう。