カオナシ
2012 9.18
原発事故や放射能について多くの芸術家はだんまりをきめこんでいる。
音楽家も芸術家も原発に対して多少口を開くくらいで、まあおとなしいこと。
私が10代の時憧れた海外のミュージシャンたちは政治や社会の動きについて
語るべき言葉を持っていて、もちろん利用されたりもしたのだろうけど、
その音楽の作られたバックグラウンドを知って、またもしびれちゃったりしたものだ。
瓦礫の抗議活動でこの1年半ほど三重県内をじたばたと駆けずり回ってきた。
また署名?また会議?また講演会?色んな人に言われ、呆れられた。
「そういう人だっけ?」
絵描きはものを見る。触って確かめたりする。息遣いやまなざしを線に還元する。
その瞬間は対象からの光を受けて描いている。たまに闇ももらったりするけど。
そういう私たちはうんと怖がりだと思っている。感じるからね。
「社会に積極的に関わる人だっけ?」という意味なら、全然そうではありませんでした。
単純に「怖いことが起こったら、または起こりそうなら回避しようとする人」かな。
誰も知らない事態が起こったのに「見えないから」何も起こってない、と思いこむのはむず
かしい。このうねりがこわいと思う。
福島への愛を歌うバンドもいる。
福島を愛して福島を思い、歌う。
そして危険な場所と知りながら、そこに出向き、人を集めてしまった。
何時間も、野外で。若い女の子、男の子。
それは、「ここにいて大丈夫」という、何かになった。
画像は、EASTERN YOUTH のジャケットにもなった佐伯祐三の立てる自画像。
暗い暗い路地を描き続け、人生の最後の方で驚くような抜け切った青空を一枚描いた。
この絵はまだ道行き途中のもの。顔は消したのか、暗く塗られている。
私も、顔もなく生きている気がするほどに、気味の悪い国を生きている。
17日、北九州で瓦礫の本焼却が始まった。