心を亡くす
社会人になって、貫いている想いのひとつに、この言葉を使わないことを決めています。
それは、「忙しい」。
入社して間もないころ、当時の先輩に、この言葉が口癖のような人がいました。この言葉をまるで己を纏うバリアのように使い、周囲からの細かい要件があっても話しかけずらい雰囲気を意識して作っているような、そんな印象を受けたものです。
20代前半の私、その姿勢に強い嫌悪感とともに反面教師として受けとめ、以後この言葉を使うことを意識して行わないようにしました。当時の私は、バブル華やかしき頃の百貨店の宣伝広報担当。地域一番店の宣伝マンです。デスクの上は、常に書類の山。電話はひっきりなし状態。「忙しい」などというのは、言葉にするまでもなく、当然の状態であるのです。
そんな私のみならず、社会人として世に出ている以上、忙しいという日常というのは当たり前のことであると解釈しています。当たり前なことを、なぜわざわざ口にするのだろうと思った時に、私は己の経験上から次のように受けとめ方を整理してみました。
「忙しい」という言葉が対人の間で出てきた場合、
「ああ、この人は、私と距離をおきたいのだな」
もしくは、
「私との繋がりに関心がないのだな」
そのように受けとめることとしています。
もう私も、十分に年を重ねてきました。そして12年前に発生した震災を経験して思ったことの中で、極めて重要なことは、
「日常なんて、一瞬先どうなのかわからないもの」
という学びです。そのようなことも踏まえながら、これから先は、わざわざ波動の合わない人と時間を共有するような無駄はしないという意識を持つようになりました。
人との出会いは、これもまた言うまでもなく素晴らしいものです。「人生は、誰と出会うかで決まるもの」と言い放った偉人がいましたが、それは強ちに言い過ぎとは言い切れない表現でしょう。日常を送る中で、生きる歓びの核となるものが人との出会いであり、私は、その歓びの尊さも十分経験し、理解しています。
忙しいは、「心を亡くす」と書くのだと教えてくれた友人がいました。
それは、その言葉を使った時点で生じてしまう、落とし穴の状態を指す意味なのでしょう。