21 多気郡 宮古、五柱
田んぼの側に流れる用水を守っている一本の竹竿である幣だけが、玉城町下宮古の浅間さんである。この弊を探していると、「来年当番か?」と、地元の者と間違えられた。水の神として奉られているという。現在は毎年5月頃に、幣を立て、桑の葉に洗米を包んでお供えしているだけだそうである。
宮川の右岸、神宮側の土地の歴史が洪水災害の歴史だとしたら、左岸は干ばつ災害の歴史だったといえる。暴れ川だった宮川の水位が標高4~5mと非常に低かったのに対し、左岸の洪積台地は標高が15mもあった。これでは川の水を田に引くことは非常に難しかった。
特に国束山群を越えた外城田川沿いの地域は、その河川の流域面積の狭さから、日照りが続くとたちまち川が干上がった。過去から農耕には非常に厳しい環境の土地柄だったのである。この地域の農民は必然的にため池に頼ることになった。地図を確認するとたくさんのため池があることが分かる。そのほとんどは江戸期に作られたが、大きなため池だけでも33個を数える。
写真は、冒頭で紹介した浅間さんのある宮古地区のため池、「汁谷池」である。横幅115mの大規模なものであるが、このため池ができるまで農民は谷川から毎日水を汲み上げて田に注いだ。現在でこそ途絶えたが、その苦労を忘れまいと、5月の浅間祭では「水汲み歌」が歌い継がれていたという。
~朝な夕なの水汲みも、さきの実りを思やこそ~
県下でも最大規模のため池、多気郡の五桂池の対岸には高校生レストランで話題の「五桂池ふるさと村」が賑わっている。週末ともなると駐車場は満車状態である。しかし今は賑わっているこのため池も、辛い歴史を持っている。
この五桂池のある佐奈川水系も干ばつが酷かった。一方この地は紀州藩の最果てではあったが、年貢の取立ては干ばつに関わらず厳しかった。干ばつの現状を藩に報告した代官に返ってきた返事は、ため池を築造せよとの達しだった。当時盆地状になっていたこの土地が選ばれたが、そこには25軒の農家が生活をしていた。ため池築造に反対する訴えは出されたが、訴えは差し戻され、25軒の農家は強制移転をさせられた。
強制移転させられた農家のうち5件は、現在の志摩市磯部町夏草に移転させられた。その村では350年近く経った今も、毎年五桂を去った日(11月16日)に、当時の先人の苦しみを偲ぶ「泣き日待ち」という行事を続けているという。「日待ち」とは、吉日の前夜より潔斎し寝ないで日の出を拝むことである。浅間信仰に関係があるものかは分からない。
五桂地区の浅間さんを田畑の近くで探したが一向に見つからなかった。最後にトラクターで稲刈りの終わった田を耕す老人に尋ねると、五桂池の向こうの山にあり、毎年五月には水の神様である幣を奉りに行っていると教えてくれた。朴とつと丁寧な、農民らしい応え方だった。「でも、行ってもたぶん分からないだろう」とも言われた。
五桂池の向こうとは、移転させられた25軒の集落のあった場所の、”向こう”ということである。池のなかった当時は、その移転した集落で祀られていたものと思われる。池を大きく回り込んで教えられた通りの山道を登ると、その浅間山の頂上は開けて磐座(いわくら)になっていた。眺めがよかった。水の神である龍が降りてくるのを迎えるには、都合のいい場所である。供え物は何も無かったが、広い五桂池を見下ろすように、一本の幣だけが掲げられていた。
参考・引用文献
・一般社団法人 農業農村整備情報総合センターホームページ『水土の礎』
(多くの文章をそのまま拝借している。感謝したい。)