小豆島八十八ヶ所遍路 08 (29/04/23) 小豆島町 (旧内海町) 片城村 (1) / 木庄村 / 安田村 (1)
小豆島町 (旧内海町) 片城村 (かたじょう)
- ヤマヒサ
- 塩田跡
- 道しるべ
- 花地蔵(木庄拝所)
- 祠 (愛宕神社?)
- 片城庵
- 片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮
- 第16番霊場 極楽寺
- 第17番霊場 一ノ谷庵
- 秋葉神社
小豆島町 (旧内海町) 木庄村 (きのしょう)
- 祠
- 木庄天満宮 (天神社、菅原神社)
- 若宮神社
- 第15番霊場 大師堂 (旧木庄庵)
- 木庄荒魂神社、秋葉神社
- 稲荷神社
- 木庄神社
- 瑜伽 (ゆうが) 大明神
小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)
- 地蔵尊
- 吉太郎 (きちたろう)
- 八坂神社/安田天神社 (安田小学校)
- 安田金比羅宮/天王山城跡
- ヤマロク醤油
- 第13番霊場 栄光寺
- 地蔵尊
- 荒神神社
- 第12番霊場 岡ノ坊
- 竹成御前の祠
- 安田踊りの像
- お妻の局社
- 玉姫神社
- 佐々木信胤廟
- 塩釜神社
- 小豆島醤油同業組合顕彰碑、高橋實造像
- 馬場跡、高橋商店 (ヤマモ)
- ヤマヒサ
ウォーキング距離: 15.7km
今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場
第16番 極楽寺
- 本尊: 阿弥陀如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
- 御詠歌: 怠らず 願へばいたる 国にこそ 蓮のうてなは ありというなれ
第17番 一ノ谷庵
- 本尊: 薬師如来
- 真言: オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
- 御詠歌: 晴れくもる 人の心の 中までも 空に照らして 澄める月影
第15番 大師堂
- 本尊: 弘法大師
- 真言: オン バイタレイヤ ソワカ
- 宝号: 南無大師遍照金剛
- 御詠歌: 現し世 (うつしよ) は たゞしばらくの 旅なれば はるけき後の ミオヤ頼まむ
第13番 栄光寺
- 本尊: 無量寿如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
- 御詠歌: 西に入る 日のひかりにも たのしみを 極むる國の しのばるゝかな
第12番 岡ノ坊
- 本尊: 六地蔵菩薩
- 真言: オン カカカビ サンマエイ ソワカ
- 御詠歌: み佛の たむけに今日は つみてまし 岡のいおりの 朝の若菜を
訪問ログ
小豆島町 (旧内海町) 片城村 (かたじょう)
現在の片城地区は海岸から寒霞渓迄南北に長い地域になっている。その中に海岸側には片城村、北の寒霞渓の麓には小坪村の二つの村があった。下の写真は小坪村から撮ったもので手前に小坪村、その向こう海岸方面に開けているのが片城村になる。西隣の草壁本町と神懸通の境界には片城川 (総延長1,610m) が流れている。
片城村の人口推移
方城村 (片城、小坪) の史跡
- 寺院/庵等: 第16番霊場 極楽寺 (16)、一ノ谷庵 (17)、片城庵、花地蔵(木庄拝所)、龍王子 (未訪問)
- 神社: 片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮、秋葉神社、愛宕神社
- 大手醤油会社: なし
ヤマヒサ
ここはヤマヒサという醤油会社で1923 (昭和7年) に植松初蔵により創業されている。創業当時から残っている北諸味蔵と1940年 (昭和24年) に移築した明治時代の醤油蔵の西諸味蔵は、切妻造桟瓦葺きで国の登録有形文化財として登録され、諸味蔵では大きな杉樽が120本も並んでいるそうだ。ヤマヒサは麹作りから自社で行うという、こだわりの伝統を守る醤油造りを続けており、通常の醤油づくりは4ケ月から6ケ月かけるものがほとんどだが、ヤマヒサでは天然醸造で二年かけて醤油づくりを行い、本生濃口醤油は価格も高いが根強い人気商品だ。小豆島では醤油を贅沢に使う。小さい頃は、刺身は醤油に中に泳がせて食べていたのを覚えている。
塩田跡
道を進み片城に入ると塩田があった場所に来た。塩田を偲ぶものは何もないのだが、小豆島では製塩業は小豆島では奈良時代に塩作りが始まり、内海町では15世紀にはここ草壁の方城 (片城、16浜/13石)、安田の大新開 (65浜/53石)、苗馬の牛き (馬木、35浜/28石) の三ヶ所に塩田があったとの記録がある。豊富政権の天正年間 (1583~91) には赤穂から馬木に塩浜師が移住して、旧来の堤防のない揚浜式塩浜から堤防を設けた入浜式塩田方式を導入し、塩作りは更に発展していった。18世紀には西城 (下村、片城)、安田 (大新開、木庄)、苗馬 (馬木、苗馬) の塩浜数は595になり、生産高は一万石に激増している。この頃から、生産された塩を使い醤油作りが始まった。江戸後期に入ると、瀬戸内海に十州塩田が発達し塩は過剰生産状態になり、秋冬二期は休浜となり製塩業が衰え始め、塩浜数は326にまで減少している。明治時代には塩専売法が施行され、廃田が進み、大正時代に入ると、醤油生産の為の塩も自給できず、他の地域の塩に頼る様になり、昭和時代に入ると、内海町に塩田は姿を消してしまった。この製塩業の衰退を補うかの如く、醤油生産が小豆島の主要産業となっていった。地図で示された塩田跡は広場 (写真上) になっている。その道路の向かいには小豆島町の特殊車両(塵芥車・衛生車) の片城車庫 (下) のレトロな建物が残っている。この車庫の場所には大正の末から昭和の初めにかけては、この地域にはタバコ耕作者が多く、生産され乾燥された葉タバコは専売局の片城の集荷場 (現在の片城車庫) に収納していた。 その後、昭和28年以降はタバコの耕作は行われなくなっている。
道しるべ
塩田跡の少し北の道路の角に道しるべがあった。「左 安田福田 右 坂手港道」とある。置かれている場所では方向が合わないのでこの近くから移設されたと思われる。
花地蔵 (木庄拝所)
道の途中にコンクリート造の祠の中に多くの地蔵尊が集められて合祀されていた。祠の上には「花地蔵」と書かれていた。その由縁が気になり、隣の家庭菜園で作業していた女性に尋ねると、この花地蔵は隣村の木庄村の人が片城の場所に作ったので、この辺りの片城住民は拝んでいない。由来は木庄の人に聞かないとわからないとの事だった。
祠 (愛宕神社?)
道を進むと片城金刀比羅神社のある丘の斜面に祠が見える。金刀比羅神社の一部だろうか? 神社への道が通じている様に思え坂を登り行くと、木の祠の中に小さな石造りの祠があり「愛宕大明神」と刻まれている。愛宕神社なのだろう。この愛宕神社 (?) についての情報は見るからず。内海町史には遍路八十八の札所になっている寺以外の寺社や祠などの情報は殆ど記載が無く、内海町にあった幾つかの村では独自の村史を作成しているが、その数は少なく、この様な地域信仰の歴史は風化してしまうのではないかと思われる。
道は通じていなくて、道におりる。ここでも山羊をペットとして飼っていた。近くの人に金刀比羅神社への道を聞くと、丘の反対側の極楽寺の墓地近くに参道があると教えられ、来た道を戻り向かう。Google mapで経路を調べてその通りに来たのだが、この様に公道がない場所はあてにならない。
片城庵
第16番霊場 極楽寺の近くには墓地があり、その中に片城庵があった。この庵についても情報は無いのだが、庵は地域住民がお遍路の接待場も兼ねていたとされるので、この奥にある札所の極楽寺を巡礼するお遍路さんの休憩場になっているのかも知れない。
片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮
片城庵から墓地を通ると片城金刀比羅神社への参道がある。途中から昔からの参道と自動車で登れる参道に分岐している。昔からの参道を行くと、石で固めていた山道になり、最後は急階段となる。この階段を登った所が境内になる。
境内奥に片城金刀比羅神社本殿があり、その前には祭祀を行うのだろう屋根付きの場所がある。
境内には三つの末社の祠が置かれている。向かって左から、荒魂神社、若宮神社、天満宮となっている。
第16番霊場 極楽寺
寺伝によれば極楽寺は昔は神懸山麓の上村妙見社の傍に有り、大聖寺 (別の資料では成寿寺) と号していた。1497年 (明応6年) の赤松文書の「後山の大正寺」が大聖寺にあたるかと推測されている。「小豆島名所図会」に記載されている寺伝によれば、大聖寺が焼失した際に、現在地に移り、形ばかりの草庵を建てて僧の住居としていた。本尊も大聖寺と共に焼失し本尊は安置されていなかったが、元和年間に念佛孫ヱ門、念佛庄次郎の二人の村人が夢で「この寺におくべき本尊は摂州東成郡四天王寺の西門にあるから行って求めよ」とお告げがあり、両人は浪花に上り四天王寺の石鳥居の傍にいた乞食僧が持っていた仏像をゆずり受けて持ち帰って本尊とし、寺号を来迎山密乗院極楽寺と改称した。この仏像は信州善光寺の仏像と同作だそうだ。現在の堂宇は1907年 (明治40年) に再建されたもの。(別の資料では明治22年とある。) 寺の周囲を囲む極楽寺池は、この地の稲田灌漑のため百姓の手によって掘削されたものだそうだ。
境内には本堂と鐘楼が置かれている。
目についたのは多くの地蔵尊、仏像、大師像で階段の上には迎え大師と水子地蔵尊、境内にはぼけ封じ地蔵尊、修業大師像、おたすけ大師、不動明王像、御徳碑など。先達の講の寄進のものが多くある。
本堂横は庭園となっており、開祖の仰徳碑が置かれている。
第17番霊場 一ノ谷庵
極楽寺池の西側に遍路道があり、第17番札所の 一ノ谷庵に通じている。山の斜面の山道で、途中地蔵尊が二つ置かれていた。
遍路道からは片城の村の民家が見渡せる。
一ノ谷庵は、一の谷という地に建てられたので、その様に呼ばれている。昭和51年の水害にて本堂裏山の土砂が流出して堂がすべて土砂に埋まってしまったが、本尊の薬師如来は無事だった。その後、庵は地域住民によって修復された。境内には、寛政年間の小豆島霊場中興先達の墓石がまつられている。庵の前には不動明王堂も置かれ、石造りの不動明王が祀られている。
秋葉神社
一ノ谷庵から更に奥の小高い丘には秋葉神社がある。片城と草壁との村境となっている川沿いを通り登って行く途中に地蔵尊が祀られている。
更に片城川沿いを登って行くと大池がある。この小坪地区の田畑の溜池になる。この池の向この小高い丘に秋葉神社が鎮座している。
秋葉神社への参道階段の前に佐々木三郎左衛門の像が建てられている。佐々木三郎左衛門は南北朝時代に小豆島に星ヶ城を築き領主だった佐々木信胤の事。佐々木信胤は備前国児島郡飽浦 (あくら) を本拠とした豪族で、細川定禅の家臣として足利尊氏に味方し、備中国征討や京都での戦い等で功を挙げた。お才の局を巡る私情から高師秋 (高師直の従兄弟) と確執を起こし、1339年 (延元4年/暦応2年)頃、南朝方に寝返り、小豆島に星ヶ城を築き、本国の備前国児島郡飽浦の海賊と連携、更に南朝方の熊野水軍とも提携し、瀬戸内海東部の海運の要所を抑えて、西国から上京する北朝軍を牽制していた。八年後の1347年 (正平2年) 6月に北朝方の細川掃部輔師氏の大軍と丸1か月に及ぶ合戦の末、敗れて降伏し細川師氏の家臣となり、小豆島肥土荘を得ている。1362年 (正平17年/康安2年/貞治元年)の細川清氏と細川頼之の戦いである白峰合戦に参加した以降の消息は不明とある。小豆島では北朝方細川師氏との戦に敗れ討ち死にしたと伝わっている。
参道の階段を登った所に社殿が置かれている。関東では遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現別当常安寺の二大霊山を起源とする秋葉神社は至る所にあるのだが、西日本では数は少なく小豆島では秋葉神社を初めて見る。ここでも火防、火伏せの神の秋葉大権現を祀っているのだろう。
社殿の奥のも階段が続いている。社殿は階段の上に作り直されたものだ。元々はこの階段の上、丘の頂上にあったのだが、階段が長くお参りには大変だったことで、社殿をここに移設している。頂上には元の社殿があった基壇が残り、周りには社殿を覆っていた瓦葺が積み上げられていた。
片城地域はこの北の寒霞渓の一部も含んでおり、そこにも幾つかの寺社がある。その場所へは次回 (10月予定) 小豆島に来る際に訪問予定。
今日の片城訪問はこれで終了し、次は隣の村の木庄地域に移動する。先に訪れた片城庵まで戻り、そこから伸びている遍路道を通り、木庄村内にある第15番霊場 大師堂へ向かう。片城庵の墓地の階段を登り山道に入り、山を越え獣害防止柵を開けて木庄村に入る。
小豆島町 (旧内海町) 木庄村 (きのしょう)
木庄村では幾つかの神社や寺を訪れたのだが、その一つ一つに説明板が設置されていた。片城村では案内板は皆無だった。木庄村が昔から信仰していた神社や寺院を大切にしているのだろう。スポット間の移動は山道を通ったが、その道も草も刈られて整備されていた。下の写真は瑜伽山頂上の瑜伽大明神から見える木庄村の風景。
木庄村の人口推移
木庄村は小豆島町の中でも2015年現在の人口は287人と少ないのだが1972年の人口に比べて10.8%の増加になっており、小豆島の中でも近年の人口減少傾向になっている他の地域とは異なっている。この背景はわからないのだが、何故人口が減っていないのかが気になる。
木庄村の史跡
- 寺院/庵等: 大師堂 (15 旧木庄庵)、花地蔵
- 神社: 木庄天満宮、天神社、菅原神社、若宮神社、木庄荒魂神社、秋葉神社、稲荷神社、木庄神社、瑜伽大明神
- 大手醤油会社: なし
祠
木庄村に入り、本庄天満宮に向かう途中の道脇に祠が置かれていた。手作りの祠の様で中には石柱が祀られている。この家の地主神ではないかと思われる。
木庄天満宮 (天神社、菅原神社)
椋の大木の中に天満宮と若宮神社がある。木庄天満宮 (天神社) は天津神、菅原道真を祀っている。安田村誌によれば、1758年 (宝暦8年) に京都の天神社から勧請し、菅原神社と記載されている。木造一間社流造様本瓦葺社殿内にに菅原道真像 (天神さん) が祀られている。7月24日に例祭が行われている。
若宮神社
木庄天満宮の隣にある若宮神社は祭神を仁徳天皇と伝わっているが、 城崩れ (じょうくずれ) の神との説もある。小豆島には多くの城崩れの拝所がある。城崩れは南北朝時代に小豆島の星ヶ城を拠点とした佐々木信胤が北朝細川師氏に攻められて降伏した際の戦いで戦死した兵士達を供養した拝所だが、由縁不明の拝所は多くが城崩れとされていることがある。若宮神社は創建不明だが、1746 年 (延享3年) の「小豆嶋高反別明細帳」に記載されている事から、これ以前から存在していた。屋根は角礫凝灰岩の祠の中に藁草履が置かれているのだが、地元でも何故藁草履が祀られているのかは不明だそうだ。7月9日に例祭が行われている。
第15番霊場 大師堂 (旧木庄庵)
木庄天満宮の東側には島四国第15番札所の大師堂がある。昔から木庄庵と呼ばれ、木庄村の村人が集まる場所だった。木庄庵には阿弥陀堂と大師堂の二堂るのだが、現在は二つをまとめて札所の大師堂と称して、弘法大師を本尊としている。どちらも大師堂と呼ばれている。こちらが元々の大師堂と思う。堂内には石柱を中心に、寄進された幾つもの大師御姿絵が飾られている。
もう一つの堂は大きく、堂内には左から、千手観音、弘法大師、薬師如来、阿弥陀如来が祀られている。こちらがかつての阿弥陀堂だろう。その他境内には六地蔵や鐘楼が置かれれいる。
大師堂の瑜伽 (ゆうが) 山斜面は墓地になっており、その正面に支那事変大東亜戦争戦没者鎮魂碑が建てられて、木庄出身でフィリピン、満州、沖縄、広島などの戦地で散っていった兵士18柱の名が刻まれている。20代と30代の若者だ。木庄村は小さな村で未来の担い手の若者が戦死したのは大きな悲しみだった。旧阿弥陀堂の中には戦没者一人ひとりの写真が掲げられていた。
旧阿弥陀堂の脇の広場には映画「八日目の蝉」記念植樹があった。この木庄は映画の舞台となったロケ地だった。先程訪れた天満宮とここへの道沿いにあるそうめん屋でロケが行われてた。(福田港もその一つだった) 当時はロケ地巡礼と称して旅行会社がツアーを企画していた。小豆島は自然も豊かで、街並みも昔から変わっていないところも多いのでロケ地に使われることが多い。その度に聖地巡礼ツアーが企画される。
大師堂の墓地がある瑜伽山の上に瑜伽大明神が鎮座している。そこへの参道入り口へは山の南の麓を囲む13番札所光栄寺への遍路道で向かう。途中、醤油樽が置かれていた道を進み参道入り口に到着。
木庄荒魂神社、秋葉神社
荒魂神社の隣には二つの祠がある。木製の祠の祭神は情報が無かったのだが、石造りの祠には秋葉宮と刻まれている。静岡県西部の秋葉山に祀られるも火防、火伏せの神とされる火之迦具土神 (ヒノカグツチノカミ) を祀っている。古事記では伊邪那美 (イザナミ) が火之迦具土神を産むのだが、火の神だったので陰所を焼かれ、それがもとて死んだ。後に伊邪那岐 (イザナギ) は妻の死に嘆き激高し迦具土を切り殺し、迦具土の血から岩石の神、火の神、雷神、水の神などの神が生まれ、迦具土自身の体からも多くの山の神が生まれたという。剣難、火難、水難の神として拝まれている。
稲荷神社
木庄荒魂神社の西側すぐの所には稲荷神社の祠があり、五穀を司る御饌津神 (保食神、三狐神) を祀っている。祠の裏にも小さな祠 (写真右下) が置かれていた。
木庄神社
稲荷神社から少し上に登ると木庄神社と呼ばれる祠があるのだが、何を祀っているのかははっきりとはしない。一説では木庄部落の創始者を守り本尊として祀っているともいわれている。
瑜伽大明神 (ゆうがだいみょうじん)
次は赤の鳥居から参道を通り瑜伽山の頂上にある瑜伽大明神に向かう。参道には幾つもの鳥居が置かれている。寄進によって建てられているのだろうから、多くの信仰を集めているのだろう。
参道の階段を登りきると境内に入る。鳥居の両脇には狐が神社を守っている。祭神は倉稲魂命 (宇迦之御魂神、ウカノミタマノカミ) とされているので稲荷神社になる。五穀豊穣、商売繁盛の神とされている。奈良、徳島、大分にも瑜伽神社があり、同じく稲荷神社となっている。どの様な経緯でこの木庄に瑜伽大明神が建立されたのかは不明だが、児島由加神社として三百数十年前ぐらいに建てられたと伝わっている。現在の幣殿 (写真中)、本殿 (右下) は昭和5年に建立されたもの。7月22日に例祭が行われている。
ここから山道を降りて安田村に向かう。
小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)
安田村は旧内海町の中心地だった。バスはここを起点に福田方面、坂手方面、土庄方面路線がある。安田地域は広いのだが、民家は大安田川 (総延長 3,200m) 沿いに広がっている。北側は旧安田村でかつて塩田が広がっていた南側は植松村だった。
安田村の人口推移
安田地区の人口は旧内海町の中では最も多く、2015年では2,345人となっている。池田町との合併で小豆島町になってからは、池田地区に次いで2番目の人口になる。1972年の人口は2,345人だったので、2015年人口は40年の間で約24%減少している。この減少率は小豆島町の他の地域に比べては、少ない方だ。それだけ、小豆島全体の人口減少は深刻だ。
安田村の史跡
- 寺院/庵等: 栄光寺 (13)、岡ノ坊 (12)
- 神社: 八坂神社、安田天神社、安田金比羅宮、荒神神社、お妻の局社、玉姫神社、佐々木信胤廟、塩釜神社、竹成御前の祠
- 城跡: 天王山城跡
- 大手醤油会社: ヤマロク醤油、高橋商店 (ヤマモ)、ヤマヒサ、タケサン (未訪問)
地蔵尊
木庄村と安田村の境界付近の道沿いに地蔵尊が二つ置かれている。
ここでも田植え準備が進んでいる。
吉太郎 (きちたろう)
道を進むと溜池がある。その溜池の向こう東側に吉太郎の素麺会社があった。安田に本社があるタケサン株式会社の関連会社。
八坂神社/安田天神社 (安田小学校)
溜池の北には安田小学校があり、その校内に八坂神社と安田天神社が置かれている。最近の小学校ではあまり見られない相撲場や二宮金次郎像がある。校庭を横切り裏の山麓に向かうと鳥居が見えてきた。
階段を登った所に八坂神社 (牛頭天王社、写真上) があり祭神素盞鳴尊と天津彦根命を祀っている。室町時代後期に赤松利貞右兵衛介家吉が播州飾西郡置塩城よりこの地に移住し、この地に牛頭天王社 (八坂神社) を勧進して祀ったと伝わっている。古文書では1483年 (文明15年) と1498年 (明応6年) に、この神社で流鏑馬が行なわれた事が記されている。江戸時代にはこの神社前の舞台 (安田小学校体育館の場所) 歌舞伎が奉納され、社殿の北には桟敷もあったという。昔は現在の安田小学校は神社境内だった様だ。10月13日 (旧暦9月9日) には例祭が行われている。八坂神社の隣には天津神、菅原道真を祀った安田天神社があり、創建は江戸時代中期と言われている。祭礼は7月24日に行われている。
天王山城跡、安田金比羅宮
安田小学校の北西背後に聳える標高85m程の丘陵 (天王山) には天王山城は築かれていたと伝わっている。地元ではこの山を城山と呼んでいる。
小学校内の八坂神社からこの山への道は柵で閉鎖されている。多分生徒の安全を考えてのことだろう。小学校から一度出て迂回して山に登って行く。
この城の詳細は不明だが佐々木信胤の居館と伝えられている。主郭だった山頂部には安田金比羅宮が祀られている。安田金比羅宮についても情報は見つからなかった。
安田金比羅宮のある天王山を来た道を下り、次の第13番札所の栄光寺に向かう。安田大川の手前にも醤油樽が置かれている。
ヤマロク醤油
安田大川を渡り、栄光寺に向かうが、寺に行く前に、寺の北側直ぐのところにあるヤマロク醤油に立ち寄った。ヤマロクは赤穂藩から小豆島に塩浜師として移住した家だそうだが、瀬戸内海沿岸で製塩業者が増えていき生産過剰状態になり小豆島の製塩業は衰退し遂には塩田は姿を消してしまった。そこで塩を使った醤油造りが新たな産業として始まる。ヤマロク醤油も江戸時代の終わり頃から明治の初め頃にもろみ屋として創業したと伝わっている。その後、醤油の製造は昭和24年に始め現在に至っている。ヤマロク醤油では濃口醤油より更に濃度の高い鶴醤が一押しだそうだ。観光客向けの見学も行い、茶屋も併設している。
第13番霊場 栄光寺
ヤマロク醤油から光栄寺に向かうと寺の練塀の角に地蔵尊が置かれている。練塀は安田大川の氾濫し水害から守る為に土と石で練った塀になる。その練塀沿いに進み松並木で囲まれ参道まで行く。山門前には先達の巡礼記念碑が置かれている。
行基により天平年間 (729~749年) に始まったと伝わる清滝山宝持院栄光寺の鐘楼門の山門をくぐると境内には本堂客殿庫裡 (写真右上) があり、亀の風変わりな賽銭箱が置かれている。向かいには観音堂 (左下) とそれに連なる薬師堂 (護摩堂、右下) が建てられている。本堂には恵心僧都作と伝わる本尊の無量寿如来が安置され、薬師堂には行基菩薩作といわれる薬師如来と千体地蔵、観音堂には三十三体の観世音菩薩が祀られている。裏庭には竜門庭と茶室竜門庵が造られている。光栄寺の奥院の第14番札所の地蔵堂が海抜約500mの清滝山にあるのだが、そこには次回小豆島を訪問する際に訪れることにした。
ここからは先程訪れた天王山城跡 (金比羅宮) のある天王山が臨める。
地蔵尊
安田大川沿いに次に訪問地の荒神神社に向かう途中に民家の塀に窪みが設けられている。その中には地蔵尊が置かれている。昔から道端にあったと思う。家を建築する際に、この様に保存しているので、近隣住民が拝んでいるのだろう。
荒神神社、秋葉神社
道を進むと森が見えて来た。安田の荒神神社が森の中にある。参道を進むと階段になり、登ると、まずは籠堂がある。その先の階段を登った所が境内になっている。
荒神神社と秋葉神社の祭礼は共に7月15日に行われており、当日はでカンスケ太鼓、獅子舞、子ども樽神輿が奉納されている。戦前までは相撲も行われ、夜店も出ていたそうだ。
境内の奥には二つの石造りの祠がある。手前には疫病除けの神の蘇民将来 (そみんしょうらい) を祀る疫神社 (この地域に疫病が発生した際に造られたのだろうか?)、奥には金羅神社 (金比羅?) が置かれている。境内の燈籠は1816年 (文化13年) に寄進された古いものだ。
第12番霊場 岡ノ坊
荒神神社を降りて遍路道に戻り進むと第12番札所の岡ノ坊がある。ここは安田集落の北西の端でこの北側は山西は畑地域になっている。この辺りは昔は庵の下は海辺だったので岡ノ坊と名付けられたとあるのだが、当時の地形が気になった。この南側にも昔からの寺社があるので、この岡の坊の下迄海が来ていたというのとは矛盾がある。この近くを流れている川がかつては入江の様になっていたのかも知れない。岡の坊は隣にある安田霊園ができるまでは、安田全戸の旧安田墓地の管理坊として、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道能化により、六道の各界の衆生を救うための六地蔵尊を本尊としている。于堂の中にはこの六界のそれぞれの地蔵尊像が安置されていた。
坊域内にはピラミッド型無縁塔が二つ、涅槃仏を安置した供養碑、その隣には戦没者慰霊塔、百社会供養塔、先達寄進の巡礼記念碑などが建てられて、関係者により供養されている。
岡ノ坊から安田の中心部に向かう。安田大川の手前、道の途中、壁をくり抜いた中に地蔵尊が祀られていた。
竹成御前の祠
安田の中心地に到着。香川農協の敷地内に祠が見え、その前に案内板が建てられている。それによれば、この一帯は南北朝時代に佐々木信胤の家臣達の屋敷があった場所とされる。佐々木信胤の屋敷は先程訪れた天王山にあり、そこからこの家臣団屋敷は僅かな距離になる。この周辺の小字地名は「城廻り」 、「城の藪」「城のはな」とあり、当時の名残を残している。この神社では佐々木信胤の詰城だった星ヶ城が落城の際に悲命にたおれた信胤の息女の竹成御前を祀っていると伝わっている。
お妻の局社
竹成御前の祠の前のバス通りの反対側にはお妻の局社が置かれれいる。お妻 (才) の局は、南北朝時代、菊亭中納言家の妻で京洛三美人の一人といわれていた。備前国児島郡飽浦の城主佐々木三郎左衛門尉信胤に恋われ信胤の元に身を寄せ、1339年 (延元4年) に南朝に寝返った信胤とともに小豆島に渡り、日常生活の居館をこの地の安田下條に営んだと伝えられている。安田下條は星ヶ城の下に位置することから当初は下城と称し、後に下條となっている。1347年 (正平2年) に北朝軍の細川師氏が、大軍を率いて小豆島に攻め寄せ、信胤軍は必死に反撃したが島の至る所で激戦となり、ついに一か月後に力尽き降参した。このとき、妻や子など一族はこの安田城の藪において自刃したと伝えられる。お妻の局社は、安田農協の東側の畑中にお妻の局の墓として祀られていた五輪塔を移転し、お妻の局の霊を祀っている。
安田踊り像
道を更に中心地に向かうと安田踊りの像が置かれている。安田地区の伝承によれば、この安田踊りの原型は延宝年間 (1673〜81) に、当時、京都で人気のあった安田出身の歌舞伎役者が郷土へのおくりものとして作ったと伝えられている。その後、大坂から安田に移住した上方歌舞伎役者の初代嵐璃当 (天保年間〜明治初年) 工夫がなされ現在の安田踊りとなっている。安田踊りは手踊りと扇踊りの2種類があり、手踊りの唄にはお妻の局と信胤の悲恋の「星ヶ城哀話」が唄いこまれ、扇踊りの唄には「寒霞渓、内海の人情」などが唄い込まれている。昔は旧盆の8月13、14、15日に踊っていたが、今では8月14日に戦死者の追善、新仏の供養で開催され、踊りは輪踊りの形式で、男はハッピ、黒帯、鉢巻で団扇を持ち、女はゆかた、市松模様の文庫帯で扇を持って踊る。一見、盆踊りと思えるのだが、実際に聞いてみると、ゆったりとしたリズムで江戸中期の小唄に近い。
玉姫神社
安田の中心部は安田植松という地域になり、そこに玉姫神社がある。安田村誌によれば、玉姫神社は次郎太夫の土地に建てられて、大正9年頃までは玉姫講の人たちにより運営されていた。現在の建物は玉姫講の人たちにより昭和6年に再建されている。祭神は玉依比売で、神霊の依った姫の巫女神を祀ったとされている。八幡神社が祀る王子神に対し玉依比売は母子神とされている。祭礼は7月17日に植松地区役員によって行われている。幣殿は四方が解放された造りで、その奥に本殿がある。
佐々木信胤廟
玉姫神社のバス道側に佐々木信胤を祀った廟が置かれている。廟の扉は綺麗に彫刻が施されている。安田村住民にとっては特別な想いをはせる武将だった事が分かる。小豆島では信胤は星ヶ城の戦いで戦死したと伝わっているのだが、文献ではこの戦いで細川師氏に降参をし、細川師氏の家臣となり、後に肥土庄を与えられたとなっている。肥土庄での知行についても文献に残っているので、肥土庄に赴いていたと考えられる。何故、星ヶ城の戦いで戦死したとの伝承が残っているのだろうか?
塩釜神社
玉姫神社本殿の奥にもう一つ祠がある。塩釜神社と書かれている。この辺り大新開一帯には塩田があった場所で、塩田がある場所にはその守り神として塩釜大明神を祀った塩釜神社が置かれている。東北・宮城県の由緒ある塩竈神社から勧請したと伝わっている。この神社は製塩及び漁業のみならず安産の神としても広く信仰され ている。塩釜神社の横には幾つかの板碑、石塔、祠が置かれている。これらも塩釜大明神を祀っているそうだ。1500年には安田には65の塩田があったが、18世紀半ばには183に増えている。これらの塩釜大明神の拝所はその幾つかの塩田の守り神として祀られていたものをこの地に合祀している。
玉姫神社の前は広場になっている。かつての馬場になる。その一画には蔵稲魂命 (うかのみたまのみこと、宇迦之御魂神)、天照大神、大巳貴命 (おおあなむちのみこと、大国主神)、少彦名命 (すくなひこなのみこと)、埴安姫命 (はにやすひめのみこと) を祀った拝所が置かれている。
小豆島醤油同業組合顕彰碑、高橋實造像
佐々木信胤廟の側に小豆島醤油同業組合顕彰碑と高橋実造像が造られている。小豆島の醤油産業に貢献に係わるものだ。碑文はすべて漢字 (漢文ではないのだが) で書かれているので読みずらいのだが、だいたいの内容はわかる。他の資料の内容と合わせると以下のようになる。小豆島の醸造家として初めて文献にあらわれたのは 徳川第11代将軍家斉の時代に草加部村枝郷安田村の高橋文右衛門だった。1809年 (文化6年) には 文右衛門の醸造石数は38 石 6斗とあり, 1828年 (文政11年) には 344 石3斗に達している。その後、醤油問屋は文政年間には42軒、1832年 (天保3年) には 52軒に も増加している。 このことで、文政年間には醤油問屋組合を組織し年行司という制度をつくって販売を統制している。 明治維新以降、小豆島の醤油産業は大発展を、明治3年には業者数は115 軒、造石高 16,700 石 に達している。業者が増えたことでによる不便不利解消のため、明治5年頃には「小豆島醬油造元」と称して全島の同業者を包容する団体を結成し、蔵元や問屋の和合と統制を保ち、小売値段を統制、神戸、兵庫、大阪の業者との取引の交渉、出荷調節、運送船統制、官庁への届出、免許願出、税金の取りまとめ、命 令伝達等を行なっていた。
明治11年には業者は400余となり, 粗製乱売の徴候があらわれる。そこで後に醤油王と呼ばれる長西栄三郎の提唱で、高橋彌三治、木下定次郎、水野金七、高橋實造 (銅像) などの賛同を得て「小豆島醬油造元」を解消し、新たに「栄久社」と改め、新陣容を整えて、京阪神のほか広島、高知、愛媛、九州方面にも新販路を開拓するなど島醤油発展の基盤を着々と築いていった。日清戦争後は査覧発展を続け、家内工業的小規模生産から次第に株式組織による大規模な工場へと移行していった。明治34年には重要物産同業組合法に基づき「小豆島醤油製造同業組合」が設立され昭和15年に解散するまでの約40年間、取引の改善、価格改訂法の革新、空樽回収事業、品質の向上に貢献した。
馬場跡、高橋商店 (ヤマモ)
馬場跡には1852年 (嘉永5年) に穀物の販売業として創業し、1863年 (文久3年) に醤油醸造をはじめた醤油醸造老舗の高橋商店 (ヤマモ) がある。大豆、脱脂加工大豆、食用油、素麺、醤油醸造、各種漬物を製造販売をしている。切り妻造りの長屋門形式の醤油蔵が残っておりで国の登録有形文化財に指定されている。前述の高橋實造像と関係があるのだろうか?
ヤマヒサ
高橋商店の近く西側にもヤマヒサの醤油会社がある。今日方城に向かう途中にヤマヒサの醤油蔵 (方城の項に写真を載せている) をみたのだが、安田地区の散策の最後には正門を訪れた。この会社は昭和7年に植松初蔵によって醤油醸造業がはじめられ、昭和26年にヤマヒサ醤油株式会社と法人化している。醤油醸造、オリーブ生産・加工商品販売を行っている。
バス時間までにはまだ少し時間があるので、安田の隣村の馬木の史跡の数か所を見たのだが、これは次回馬木を巡った際に含めることにする。
参考文献
- 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
- 小豆島おへんろ道案内図