「家康ピンチ」7長篠の戦い
「長篠の戦い」より3年前の元亀3年(1572)、信玄は「三方ヶ原の戦い」で家康を撃破したが、翌4年=天正元年(1573)4月12日、脳血管障害(胃がんともいわれるが)の為、信州駒場(こまんば)で永眠、53歳。「甲陽軍鑑」によると、信玄は「三年間は喪を秘せ」と遺言したといわれる。己の死によつて武田家は危うくなると危惧した。信玄の死は次第に広まっていった。7月18日、信玄の後ろ盾を失った足利義昭は追放され、室町幕府滅亡。8月になると、信長は朝倉義景の居城、越前一乗谷城を攻め義景(41歳)を自刃、続いて近江小谷城を攻め、浅井長政(29歳)を自刃、正室お市、浅井三姉妹は信長の陣屋に向かった。信長の天下静謐は、新たな局面を迎えた。
信玄の跡を継いだ、信玄の四男である武田四郎勝頼は、諏訪家の血筋であった為、武田家の家臣たちを統制するのは難しい事であった。この問題を一挙に解決するためには、勝頼は合戦により勝利を掴み威信を強め、それにより武田家をまとめるのが得策であると考えた。合戦には自信のある勝頼は、父信玄を超す武将になりたいと願っていた。そこで目につけたのが中遠江の「高天神城」(掛川市)である。「高天神を制する者は遠江を制す」と云われた遠江の要衝であり、標高132mの山を中心に東の峯と西の峯を要した要害であった。しかも家康の居城浜松城の至近の位置に、この高天神城はあった。過去に父信玄も攻略、北条氏も上杉氏も攻略を試みたが失敗、退却をしていった。天正2年(1574)5月、勝頼の攻勢は活発化、2万5千の大軍を率いて高天神城を包囲した。守備する小笠原足助は家康に援軍を求めた。求められた家康は単独では救援は無理と判断、信長に支援を求めた。武田軍2万5千vs徳川軍8千では到底無理な話であった。この時、信長は浅井・朝倉勢を滅ぼしていたが、その後、越前や伊勢長嶋の一向一揆に悩まされ、兵を割ける状況ではなかった。氏助は勝頼との講和を考えながらも、何とか守勢を保っていたが、5月末には本丸、二の丸、三の丸の曲輪塀際まで攻め寄せられた。それでも家康の援軍は来なかった。見捨てられたと判断した足助は、勝頼に降った。一方、信長・信忠父子が岐阜を発ったのは6月14日、19日は浜名湖今切を渡海中であった。この日高天神城の落城の知らせが届き、そのまま引き返していった。信長はわざと遅参したのであろうか?この行為は背信行為である。両者の関係は大きく揺らいだ。
勝頼と与する事になった足助は、引き続き高天神城の守備を任せられた。信長、家康の対応の遅れが、昨日までわが陣営であり、盾となっていた城が、今日からは浜松城を脅かす厄介な存在となったのである。勝頼にとって、父信玄も陥せなかった高天神城を陥した事は、大きな自信となった。天正3年(1575)4月、三河足助(あすけ)城(豊田市)、野田城(新城市)を攻略、5月には、2年前に徳川方に攻略された「長篠城」を囲んだ。長篠城は家康の娘婿・奥平信昌が守将、城側の窮状を訴えるため城から抜け出した鳥居強右衛門が,帰途、武田軍に捕えられ、救援が来ることを伝えて磔の刑にされたのは、この戦いの時である。強右衛門は我が身に代えて、援軍到来を告げた。来ないと伝えれば命を助ける、と云う騙しには乗らなかった。勝頼の読みが浅かったのである。強右衛門の磔の場面は絵師によって描かれ、その後某大名の指物として使用された。
家康は躍起になっていた。遠江・三河ニヶ国の大名だと自負する己が、遠江の高天神城に続き、三河の長篠城までも失えば、己の権威は失墜、信頼を失い家臣も離れていくであろうとの思いが強まっていった。一方、勝頼にとっては一石二鳥どころか、三鳥に値する、極めて有効な作戦であった。越後の上杉謙信に備えるために、兵1万を信濃に置き、自身は1万5千を率いて長篠城を包囲した。信長の軍勢が間に合わなければ、高天神城の二の舞いである。家康の面目は丸潰れである。「家康ピンチ」に陥った。「三河後風土記」によれば、「今後援軍に来なければ武田軍に寝返り、勝頼と共に尾張に雪崩込む」と、信長の使者に伝えたと云う。この記述の真偽のほどは定かではないが、ピンチに立たされた家康の心情と、信長との緊張関係をよく現している。この戦いは正に危機存亡を賭けた戦いであった。一方、信長は義昭の追放など、畿内の戦いに追われていたが、今度こそは、家康との同盟関係を元に戻して戦わなければ、信長自身が武田に呑み込まれる。それでは天下静謐どころではない。信長は自分自身の為に、自己保全の為に、援軍を向けなければならなかった。今度は5月13日に岐阜城を出発、岡崎城に入って家康と作戦を打合せ、18日、家康と共に長篠城西方約3㌔の「設楽ヶ原」に着陣、馬防柵をめぐらして鉄砲の備えを固めた。武田軍1万5千に対し、織田・徳川連合軍3万8千、連吾川を挟んで対峙した。この頃、奥平貞昌率いる長篠城兵はわずか500、決死の防戦をしていた。