23 国崎浅間山
津波の状況を伝える常福寺の碑。よく見ると碑文が細かく刻まれている。
ここまで浅間さんは災害神であり、志摩南伊勢地域では津波災害の神として浅間さんを奉っていると書いてきたが、この地方の津波を語る上でどうしても外せない場所がこの国崎(くさき)である。写真は国崎の常福寺にある津波碑である。
写真の津波碑などの記録によると、この国崎では1854年の安政東海大地震において、実に21メートルもの大津波に見舞われている。さらに遡ること350年、1498年の明応地震の津波では、国崎の低平地である大津の集落は壊滅し、国内の津波による移転では日本最古の高台移転を行っている。高台移転を行った国崎村では、後に21メートルの津波を受けた安政東海地震においては、移転のおかげで死者は6人に留まった。それにおいても国崎は伊勢志摩地域の中で、その特異な海中地形を含め津波の影響を最も受けてきた場所のひとつなのである。
津波の記録の残る常福寺も、高台移転をしたもののひとつである。訪ねた日は、寺の前にある公開所で老人達が集まっており、色々と聞かせていただいた。
国崎はもともと神宮領で神戸として魚貝・御贄を神宮に供えていた土地柄で、神宮成立時からと思われるノシアワビの調進が、神宮自体の中世における中絶を乗り越えて、今も行われていることは類例がない。平成十五年と十六年には秋篠宮様夫妻が訪れ、紀子様が唄を詠んでくれた自慢話の長さは村人の誇りを表している。神宮との関係が古いことで陰陽五行の影響が残り、この土地に海女は、☆型を一筆書きすると元に戻ってくることにちなんで、「セーマン」と呼び、手ぬぐいに海女は皆が☆型を刺繍している。
そうしたことからも、この国崎は古代より漁業とは切り離せない生活を送っており、津波による災害はより身近で、切迫したものであったことは容易に想像できる。
国崎の浅間山は、高台側である里谷の裏山に当たる。標高は110メートルと、浅間山の中では高い部類に入る。いまだに信仰の篤い高齢者は、毎月28日に浅間山に登り参っているとのことである。また、村では1498年の明応の津波で高台に移転したことで水に悩んだ。浅間さんはそのときから水の神としても信仰されたようである。さらに体が痛いときには浅間さんの社に供えてある海岸の石を頂いて、毎日それで体をこすっていると治っていくという。そして痛みがなくなると、新たな石を海岸に取りにいき、空にある(山の上にある)浅間さんに登ってお供えしなおすのである。「おふじさん」と呼ぶ浅間山の中腹に突き出る木柱は、浅間さんの竹(幣)を昔に掲げていた跡である。
浅間山には周回路がついており、尾根伝いに役行者さん(大峰さん)も参ることができる。役行者像は前鬼・後鬼を連れている。周回路は、浅間さんを含めた修験道の行者道ともなっている。
浅間山の登り口ですれ違ったご老人も、ひつこい程に語ってくれた。
南海プレートを震源とする地震による津波を、150年毎に正面から受け止めてきた国崎では、浅間さんは災害神として何度も国崎の村の人々を励ましたに違いない。やがて浅間さんは村の人々の心に心底浸透し、今では水の神、無病息災の神ともなって村を守っているようである。
国崎の人々は、年に一回どころか、毎月標高110メートルにある浅間さんに参り、無意識に避難訓練を行っている。国崎の人の体には、津波がきたら浅間さんに逃げることがそのDNAに刷り込まれているのである。
参考文献
・和歌森太郎編「志摩の民族」吉川弘文堂、1965年
・「鳥羽市史」鳥羽市、1991年