Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

伊勢志摩国浅間信仰図

25 松阪、堀坂山

2015.11.14 10:40

 松阪を見下ろす鎮守山、堀坂山(757メートル)は、富士信仰で有名な山である。伊勢の方向から車でやってくると、富士の形で遠望され、頂上石室には富士権現が奉られる。

 またこの山は、日本最古の神社、奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)のある三輪山から伊勢湾の神島へ真東に進む、有名な古代太陽道上にある。太陽道は、三輪山を起点に長谷寺、室生寺、 倶留尊山、大洞山、堀坂山と続き、伊勢平野に出ると斎宮、そして海に出ると神島にいたる。卑弥呼時代の都と推測される三輪山のふもと、巻向遺跡にあったと考えられている古代ヤマト王権は、「日出ル」方角を貴んだ。

 浅間さんのある堀坂山の頂上から、松阪の市街地を見下ろすと、同じ古代太陽道上の方角にあるのが、旧伊勢国最大の古墳、宝塚古墳である。5世紀前半のものといわれている。

「囲形埴輪」 松阪市文化財センター はにわ館

 宝塚古墳から出土した埴輪のなかには、垣で囲まれたものがあり、それらは祭礼儀式に用いる水の清浄さを貴んだ湧水施設であるという。宝塚古墳の周辺には多数の古墳群が存在していたが、確かに水に関係するかもしれない遺跡があるようである。しかしそれを、祭礼のための清浄な水とするならば、その湧水の場所自体を、谷汲や、龍神信仰の地として祭ればよい。その清浄さを貴んだ埴輪を、宝塚古墳に納められた首長の偉業としての遺物とすることにはやや疑問が残る。その埴輪が湧水のモニュメントであるとするならば、それは不足した生活水、農業水などの希少さを貴んだものと考えるのが現実的である。この古墳の被葬者は、導水、干ばつ対策に業績のあった人物と考えるのが自然である。

 現在の松阪市内の溜め池の数は2ヘクタール以上のものだけでも17以上あり、地理院地図で数えただけでも大小70を越える。阪内川、三渡川は余りに水源流域の面積が狭く、日照りでたちまち干上がってしまい、櫛田川は水面が低く、灌漑の導水に向かないことも以前に述べた通りである。ため池が整備されても、取水による農民同士の争いが絶えず、死者が出ることも稀でなく、非常に厳しい掟によって取水の約束がなされていた歴史を垣間見れば、当地域でも干ばつ災害で悩んでいた状況を想像することは難くない。

 そう考えると、現在でも松阪市内に多々確認できる浅間さんが、過去には、多気郡などで多くみられたように、干ばつ神、水神として存在していたと考えても無理はないだろう。

 宝塚古墳群のすぐ西側の立野には、以前その上に浅間さんを奉っていた浅間古墳群があった。浅間古墳のすぐ側には、その丘を一体とする山に松尾神社という有名な神社があり、古墳が無くなる前は神域を共有していたと考えられる。そして松尾神社は過去から湧き水に由来したのだろう、酒の醸造の神として知られ、現在でも他府県の酒蔵からの参拝も多い。

 松尾神社の周辺は、かつて松阪の中心を占める手付かずの丘陵地帯で、僅かながらも大切な水を生み出す湧水地域だった。現在は宝塚古墳は住宅に囲まれ、さらに中部台運動公園となり、松尾神社の周辺は砂利採取場として開発された。名水の湧水点である「亀の井」は地下水をポンプ汲み上げし、浅間古墳群は跡形もないが、松尾神社と、古墳と一緒に消失した浅間さんのあった一帯は、以前から「水汲み山」とも呼ばれていた。

 堀坂山の浅間さんの大日如来は、延宝8年1890年に建立され、頂上直下のオタイ場と中腹、二体あり、それぞれが智拳印、法界定印を結んでいる。体長は1メートル程あり、銅製のそれは、屋外にある浅間さんの大日如来の中でも飛びきりの立派さで、さすが歴史の街であることをうかがわせる。

 その堀坂山の祭礼もまた手が込んだものであり、通常なら各字で個別に行われている浅間祭りであるが、堀坂山では、伊勢寺町の9つの字から一人ずつ選ばれた別当と呼ばれる者が参加した。最初は川筋を登り、要所で注連縄を替え幣を立てた。峠まで行くと、今度は尾根づたいの道を登り、頂上に向った。途中の中宮で大日像、五輪塔、 経塔に参拝。頂上では、幣を杭に高々とくくりつけた。

 松阪市史では祭りの目的を、豊作と水、雨乞いと説明しており、確かにその通りであると考えるが、祭礼では堀坂川を逆登り、その水源まで達し、更にそこから峠を経由して頂上にまで至っている。頂上では、幣を立て、それを依りしろに天上にいる雨の神、龍神、雷神を「みあれ」しているとも見えるが、その中には南伊勢町の方座浦と共通する地震・津波厄を祓う要素が含まれてことを感じる。

 引用されている山田勘蔵氏の文章によると、「・・・大竹を根付きのまま寄進し、先に大幣帛をつけて頂上にかつぎ上げ、社前におし立てて奉納する」とは、方座浦の幣上げのクライマックスをほうふつさせる行動を行っている。要石、地鎮の要素である。また、「古来の風習として、二十八日に大口浦でこりをとって海水を汲んでくる」などは、海水を汲むことで地震だけでなく津波厄、大潮厄を意識させており、方座浦で幣上げの前に幣の根元を海に浸していた行動と同じ意味の表現である。「竜泉寺に集合して精進料理で酒食がある」のも、後に進化した水神信仰だけでなく、要石で押さえた鯰・龍を意識しての行動である。「途上の各祠には皆しめ縄等を供える」イメージも、方座浦のきつい崖のような坂を、休み(笑)ながらも、幣をしっかり地面に接地させ地中の龍を押さえつけていたイメージと重なる。

 地元の古老から聞いた話では、数十年前まで、ほっさかさん(堀坂山)の浅間祭りは、夜通し行われ、町から頂上の松明を確かめることができ、参加する伊勢寺町の字同士で、どこが早く幣をかつぎ上げるのかを争っていたということで、旧南島町の浅間さんとの共通点、さらには火祭りの様相も加わっており、非常に興味深い。

 堀坂山は伊勢平野から山間部への入り口でもあり、山間部特有の山崩れ災害も意識されうる。山崩は、その跡を竜・大蛇が通った跡ともいわれ、谷間に住む住民が一番恐れる災害のひとつである。堀坂山は、地震や豪雨で引き起こされる山の災害厄も祓っていると考えられ、平野部の洪水、干ばつ、大潮などの災害を含め、それらを纏めて厄祓う、この地域の中心的な浅間さんだったと考えられる。



引用・参考文献

松阪市教育委員会「宝塚古墳」、2005年

穂積裕昌「伊勢神宮の考古学」雄山閣、2013年

松阪市史編さん委員会「松阪市史」蒼人社、1981年

松阪市教育委員会「浅間古墳群発掘調査報告書」、1995年

筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫、2002年

野本寛一「自然災害と民俗」森話社、2013年