野ざらし紀行─異界への旅─ ①
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/wa-ku_memenntomori.htm 【死のワークショップ】
Facebook長堀 優さん投稿記事·
スタンリー・キューブリック監督の代表的作品である映画「2001年宇宙の旅」のエンディングは、実に謎めいたものでした。
死に瀕したボーマン船長が、幻想的な光と音の体験のあとに、時間を超越したかのように次々と老け衰え、ついに果て逝く自分の姿を目の当たりにします。
そして、クライマックスシーンでは再び胎児の姿で蘇り、地球を見下ろす様子が描かれ、映画は大団円を迎えるのです。交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の有名なテーマ曲とともに深く印象に残るシーンです。
じつは、「チベットの死者の書(原題:バルド・トドゥル)」には、この光景によく似たことが書かれています。
この書によれば、医学的に死と認定された後も、死者の意識は活動を続け、心の奥底からつぎつぎと湧きあがる鮮やかな色と光、そして雷鳴のような大音響に包まれながら、死者の意識は自由の中に帰っていくと説かれています。
1960年代にこの「チベットの死者の書」の翻訳が全米で広一大ブームを巻き起こしました。それからというもの、臨死体験の研究が、アメリカの大学で本格的に開始されることになりました。
研究が進むにつれ、「バルド・トドゥル」の記述と臨死体験者の語るいくつかのパターンがよく似ていることがわかってきました。その結果、この書物が編纂された背景には、途方もなく膨大な体験の集積があり、決して空想の産物ではないということが明らかになってきたのです。
この映画が公開された1968年は、まさに、この書が、アメリカで大ブームを起こしていたころに一致しているのです。
好奇心旺盛なキューブリック監督が、その内容を知らないはずはありません。おそらくは、生命の神秘への思いが触発され、この場面に監督なりの深い洞察を込めたことでしょう。
私のなかで心にわだかまっていたものが一つ解けたようですっきりしました(参照:「三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界」中沢新一著)。
ちなみに、モノリスは、「人間は猿などから進化したのではない」との監督からのメッセージじゃないかなと勝手に解釈しています(^^ もう一度ゆっくり見直してみたい映画です。
松尾芭蕉曰く 「春と夏の境目が無いように、生と死の境目もぼんやりとしているものだ」
https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%8A%AD%E8%95%89%E7%B4%80%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%9B%86/%E9%87%8E%E3%81%96%E3%82%89%E3%81%97%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E7%95%B0%E7%95%8C%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85/ 【野ざらし紀行─異界への旅─】より
前書き
『野ざらし紀行』は、貞享元(一六八四)年に芭蕉が伊勢を経由して故郷の伊賀上野に帰り、その後、秋の吉野山に登り、さらに名古屋周辺の連衆と俳諧興行を行っては蕉風確立の基礎を築き、さらには奈良・京都にも足をのばし、翌貞享二(一六八五)年の夏に江戸に戻るまでを描いた最初の紀行文でした。本来タイトルはなく、『甲子吟行』とも呼ばれています。
本書はこの芭蕉の記念すべき最初の紀行文を、多少の雑談を交えながら分かりやすく解説しようというもので、俳諧という江戸時代に花開いた庶民の風雅な笑いや言葉遊びの世界を、少しでも読み取っていただければ幸です。
近代俳句の、写生か象徴かの二者択一的な世界に馴染んでいる読者には、若干の違和感があるかも知れませんが、江戸時代の人たちの言語観はむしろそうした対立を超えていく力があると思い、できるかぎり当時に近い読み方を再現しようとした結果なので、ご理解を願いたいと思います。
前編、野ざらしの旅
一、野ざらしを心に
西暦一六八四年は甲子(きのえね)の年で、十干十二支の最初の年だ。
この年、天和(てんな)四年から貞享元年に改元されている。明治以前は天皇の崩御がなくてもしばしば改元がなされ、特に甲子の年の改元は多く、九六四年に康保元年へ改元されて以来、幕末の一八六四年の元治元年への改元まで、甲子で改元のなかった年は一五六四年の一回しかない。
この年は、今でいえば天文学者でもあり数学者でもある安井算哲(渋川春海)の上表によって、貞享の改暦が決まった年でもあり、翌年からは生類哀れみの令も始まる。また、芭蕉が工事に関わった小石川に植物園ができたのもこの年だ。
そして、この年は芭蕉にとっても変革の年だった。延宝五(一六七七)年に俳諧の宗匠として立机(りっき)した芭蕉は、天和元(一六八一)年の七月に『俳諧次韻(はいかいじいん)』を発表し、従来の談林調(だんりんちょう)を脱した独自な俳諧を確立したが、その後持病の悪化や、天和の大火(八百屋お七の大火)といった不運もあり、思うような興行活動ができない状態だった。
しかし、暦が甲子に戻り、元号が改まったことで、芭蕉ならずとも俳諧変革の気運が高まったことであろう。『野ざらし紀行』は『甲子吟行』とも呼ばれ、まさに芭蕉の新しい俳諧を求めての旅だった。
正岡子規が明治二六(一八九三)年の『芭蕉雑談』のなかで「貞門の洒落(地口)談林の滑稽(諧謔)」と一括して以来、貞門や談林の俳諧はただ駄洒落や単純な笑いを楽しむだけのものであるかのような偏見の目で見られることが多かった。しかし「蕉風」の確立とは、決して単なる笑いの俳諧を真面目な芸術に高めたといった意識で行われたのではない。そうした意識は正岡子規以降の近代俳人の意識なのである。
ユーモアというのはどこの国でも文学の欠くべからざる要素として認められているし、笑いだけを卑下したり、芸術から排除したりするのはむしろ不自然だ。そのあたりには明治の富国強兵政策のなかで、笑いが闘争心の妨げになるという意識が強かったせいであろう。
松永貞徳によって開かれた貞門の俳諧というのも、決してただ面白ければいいという理由で駄洒落に興じていたのではない。むしろ、貞門の俳諧の本質は「俗語の連歌」というところにあった。基本はむしろ中世の連歌なのである。俗語を交えながらもあくまで品性を落とさない、むしろ貴族趣味に理想を置く俳諧なのである。
掛言葉や縁語などの伝統的な和歌の技法の習得や、連歌の言葉を変幻自在にあやつる機知を競う要素が重要なのであり、単なる駄洒落とは次元をことにする。
しかし、それは上品ではあるものの、実際の江戸の庶民の生活感覚からすれば、浮世離れした絵空事の世界に陥ってゆく傾向を持っていた。
たとえば、芭蕉の貞門時代の発句、
花にあかぬ嘆きやこちの歌袋
春風にふき出し笑ふ花もがな
の句などをとってみても、「あかぬ」を「開かぬ」と「飽かぬ」に掛けたり、「こち」を「こっち」と「東風」に掛けたりするあたりは見事だが、桜の下で大宮人が歌を詠んで遊ぶといった趣向は、当時としてもほとんどリアリティーがなかったであろう。「春風に」の句も、「笑」という字が漢文では花が咲くという意味で用いられるところからの発想で、それに芽が吹くと「吹き出す」とを掛けたものだが、単に花が咲く=花が笑うという以外にこれといった意味はない。
連歌師西山宗因の指導のもとに延宝四(一六七六)年頃から一世を風靡した談林の俳諧は、むしろ庶民の日常的な世界を解放してゆくなかから生まれたムーブメントだ。「抜け風」と呼ばれる連歌の式目の制約を巧妙にかいくぐる、いわば抜け道を作る技法は、連歌の時代にも行なわれた古い方法ではあったが、それを駆使することで俳諧の表現の範囲を大きく広げて行ったのだ。
談林時代の芭蕉の句、
花に酔えり袴来て刀さす女
盛じゃ花にソゾロ浮法師ぬめり妻
を先の句と比べてみれば、違いは歴然としている。
歌を詠む大宮人のような過去の空想ではない、手近にある風俗の中から題材を拾っている。誰もが見たことのあるようなものを言葉にすることで読者の共鳴を得る、今で言う「あるあるネタ」に近いものだったかもしれない。こうしたリアリティーこそが談林の本質であり、滑稽はその外見にすぎない。
しかし、こうした改革も、一歩間違うと和歌や連歌の風雅の伝統から乖離して、単なる卑俗化につながる危険をはらんでいたことは確かだ。実際、談林は江戸座の点取り俳諧を経て、川柳へと流れてゆくもう一つの道を開いた。
その一方で、むしろ談林俳諧と古典の風雅との接点を探)っていたのが、天和期以降の芭蕉の俳諧だった。
この道は単純ではなく、紆余曲折に豊んでいた。『野ざらし紀行』の旅もそうした一つの新しい俳諧の、古典の風雅と談林のリアリティーとの融合の模索だった。それこそ西山宗因が提起し、果たせなかった課題だったのだ。
その宗因は天和二(一六八二)年にこの世を去り、芭蕉はまさに宗因なき後の俳諧のリーダーとなろうとしていた。
また、各務支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉はこの時既に古池の句を完成させていて、既に次に来る俳諧の新風のイメージがある程度出来上がっていた可能性もある。むしろ天和調自体が、刺激に飛んだ談林調の俳諧から古風に回帰する次の俳諧への中継ぎの意味を持っていたのかもしれない。
そういった新しい俳諧へ、新しい風雅への旅立ちの決意を汲みつつ、『野ざらし紀行』の冒頭を読んで行くことにしよう。
「千里に旅立て、路粮(みちかて)をつつまず、三更月下(さんこうげっか)無何(むか)に入(いる)と云いけむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(じょうきょう)甲子(きのえね)秋八月江上(こうじゃう)の破屋(はおく)をいづるほど、風の声そぞろ寒気なり。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年却(かへ)って江戸を指す故郷」
「千里」といっても、文字どおり四千キロという意味ではない。漢文の常套句で、「千里の行」とか「千里の外」とかいうふうに、はるかに遠い道のりを意味する。『奥の細道』に「前途三千里のおもひ胸ふさがりて」とあるのと同じだ。
路粮の「粮」は「糧」と同じで、旅や行軍のさいの食糧をいう。「三更」というのは時間を表わす言葉で、真夜中を意味する。このあたりの言葉は『江湖風月集』(憩松坡(けいずんば)撰)の偃渓広聞(えんけいこうぶん)和尚(おしゃう)の次の詩句をふまえたものといわれている。
褙語録 三山偃溪廣聞禪師
路不賚粮笑復歌 三更月下入無可
太平誰整閑戈甲 王庫初無如是刀
語録の表装に
食糧を持たずに笑って歌い道を行けば、
真夜中の月の下で無何有の郷に入る。
平和な世の中に誰がしまわれた武器防具を整えたりするだろうか。
君子の倉庫には初めから刀のようなものはなかった。
無何(むか)というのは本来文字どおり「何もない」という意味で、「無何有(むかう)の郷」もそのまま読めば「何もない郷」という意味になる。天を突くような岩峰、遥々と流れる大河、中国の山水画に描かれるような景色は、人間を寄せつけないような広大な大地だ。荒涼としているがゆえに、人間の手の入ることのなかった、そんな自然のままの場所だ。
焼畑をすれば森林が失われ、森林が失われれば洪水が起こる。洪水を抑えるために人間は国家を作り、治水を行う。国家は圧政と重税を生み、飢饉や戦争の元となる。 それは、前近代的な社会の一つの宿命だった。農耕の開始、潅漑農法の発明など、新しい技術は一時的には人間に豊かさをもたらした。しかし、こうした技術革新による生産性の向上は、きわめて緩慢なテンポでしか起らず、その間に人口が増えることで、結局生産の余剰分は食い尽くされてしまう。こうしたマルサス的状況の繰り返しが、文明の無力や人知の限界とされ、常に自然への回帰への憧れを生んできた。
今日はどうかというと、それも難しい問題である。確かに戦後の世界はモータリゼーションやエレクトリゼーションなどの加速する技術革新と少子化が同時に起ったことで、先進諸国は未曽有の豊かさを実現し、新興工業国がそれに続いている。しかし、それは膨大な資源を浪費するもので、人類がもし資源の循環(リサイクル)という問題を解決できないなら、今すぐということはないにせよ、長期的には終息してゆくことになるだろう。最終的に、あるときリサイクル革命が起り、低人口高度消費社会で安定するのか。それとも資源を使い果たして近代以前に逆行するのか。それはまだわからない。
そんななかにあって、人間の容易に近づくことのできないような厳しい自然の景色のなかに、老荘の徒は救いを求めた。何も持たず、深夜の月の下で広漠たる世界を夢見る。そんな思いで芭蕉は旅に出たのだった。
「むかしの人の杖にすがりて」とあるように、この旅で芭蕉は古典の風雅への回帰を意図している。
リアリティーは確かに重要だ。誰だって過去の世界に生きることはできない。今生きているこの現実から逃れることなんてできやしないのだ。しかし、人はどう生きるべきか、人生とは何なのか、ただ今だけよければそれでいいというわけでなく、何かしら時代を越えた価値というものを人は求めずにはいられない。
古典の風雅も単なる過去の遺物ではなく、そこには時代を越えた何かがあるはずだ。その時代を越えた何かを会得しながら、今の現実の世界を詠んでゆけば、句はその場限りのものではなく、時代を越えることができるのではないか。西行法師、宗祇法師、それに、近いところでは宗因法師、いずれも旅に生き、旅に死んでいった。そうした古人の心を学ぶところに、芭蕉のこの旅の意義があった。
もちろん現実には、江戸のローカルな俳諧師から全国制覇への野心がなかったとはいえないだろう。いずれにせよ、宗因なきあと、リーダーを失った俳諧を自ら再建しようという野望に燃えていたにちがいない。
「江上の破屋」というのは深川の芭蕉庵のことで、この言葉は『奥の細道』にも出てくる。延宝八(一六八〇)年に深川に庵を構えた、当時「桃青(とうせい)」を名乗っていた芭蕉は、門人の李下から芭蕉を贈られ、庭に植えたことから、芭蕉庵桃青を名乗り、やがて「芭蕉」という呼び名が定着してゆくこととなった。
芭蕉とはバナナのことで、日本の本土の気候では実はならず、大きな葉も秋風に破れやすいところから、もろいもの、繊細なものの象徴だった。その芭蕉庵を有名にしたのが次の発句だった。
茅舎(ぼうしゃ)の感
芭蕉野分(ばしょうのわき)して盥に雨を聞夜かな
「茅舎の感」とは杜甫の『茅屋(ぼうおく)秋風の破る所と為る歌)』のイメージから来たものだ。安禄山の乱)で「国破れて山河在)り、城春にして草木深し」となった長安の都城を離れ、成都の浣花渓(かんかけい)に茅葺き屋根の草堂を作)り、隠棲していたところ、折からの秋の嵐に屋根が吹っ飛び、寝床が雨漏りでびしょ濡れになった、そのときの杜甫の詩を思い起こし、芭蕉もまた、庭の芭蕉を吹きつける台風の風の音や盥に落ちる雨漏りの水音に杜甫の心を偲んだのだった。
この芭蕉庵は天和の大火で隅田川の対岸から渡ってきた火の粉に燃えてしまい、この時、芭蕉は隅田川に飛び込み、難を逃れたという。芭蕉庵は、この後すぐに再建され、それがここでいう「江上の破屋」だ。
かって芭蕉庵の名の由来になった芭蕉の株を贈った李下は、『野ざらし紀行』の旅立ちのさい、次のような発句を贈っている。
ばせを野分その句に草履(わらじ)かへよかし
芭蕉野分のあの「茅舎」も旅の草履に替えるといいでしょう。それに対して芭蕉はこう和す。
ばせを野分その句に草履かへよかし
月ともみぢを酒の乞食
なぜならば、月や紅葉で酒を飲むのが似合いの乞食だからだ。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年却って江戸を指す故郷
この『野ざらし紀行』の旅立ちの二句は、これから行く旅への力強い決意を表わすというよりは、むしろ旅の不安と悲しみに重点を置いている。
「野ざらしを心に」までは力強い。たとえ道端で朽ち果てようとも、それは覚悟の上だ。しかしそう決意はしても、心には秋の風がしみとおる。朱子学で「春に万物を生じ秋に止む」というように、 秋の風は万物を死へと向かわせる。目にはさやかに見えなくても、死は確実にやってくる。そんな身も氷るような感覚だ。
鯉屋杉風(こいやさんぷう)は、この旅立ちのときに、
何となう柴吹く風も哀れなり
という句を詠んでいる。あえて季語を入れずに詠んだのは、この句が送別の句で、「送別」というテーマ自体が四季とは別に独立して部立てされうるからであろう。
もう一つの「秋十年」の句のほうも、意味は明瞭だ。生まれ育った故郷を離れるには、たいてい皆それなりの事情があり、故郷を懐かしく思っても、なかなか帰るに帰れない事情があるし、帰ったところで自分の居場所があるわけでもない。室生犀星が、
故郷は遠くにありて思ふもの
そして悲しく歌ふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
と歌ったとおりである。
本来、和歌においても連歌においても、旅は都を離れた大宮人が故郷である都を恋慕うように詠むべきものとされていた。その意味で、芭蕉の旅は本当は故郷へ帰る旅なのだが、「却って江戸を指す故郷」の一言で、故郷を離れ、都落ちする古人の旅と同様のものになる。
二、富士を見ぬ日
冬になると、東京からでも毎日のように富士の真っ白な姿を見ることができる。ところが、秋の長雨の頃となると、そうはいかない。芭蕉が貞享元(一六八四)年の秋、『野ざらし紀行』の旅で箱根の関を越えたのも、そんな雨の日だった。
山の中で雨雲に巻かれてしまうと、ほとんど白一色の世界になってしまう。だが、そうした真っ白な世界も、詩人にとっては無限の夢を描き出す恰好のキャンパスとなる。
「関こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」
富士といえば、芭蕉は『士峯の賛』という俳文の中で、
「崑崙(こんろん)は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峯(しほう)地を抜て蒼天をささえ、日月)の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変す。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。」
と言っている。
富士の姿は筆舌に尽くし難い。ただ見たままを表現したとしても、それはたまたまその時見えた富士の姿の一つにすぎず、富士の魅力のすべてを短い十七文字で表現するには、描写というのはまったく無力なのだ。
「富士をみぬ日ぞ面白き」というのは、そのことを逆説的に表現している。富士は霧の彼方で見ることができない。その見えない中に、芭蕉はありとあらゆる富士の姿を思い描いたのだ。そして、読者もまた、自らの心の中にある様々な美しい富士の姿を思い描けばいい。
荘周は『荘子』斉物論の中で、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれる、と言っている。陶淵明が弦のない琴をいつも傍らに置いて撫でていたという伝説が生まれるのも、こうした考え方によるもので、ジョン=ケージの「四分三十三秒」にも通じそうな逆説だ。
「富士」の名は不死にも通じる。それだけに、この山は崑崙山や蓬莱山・方丈山のような神仙郷を彷彿させる。そんな富士の神々しさを描き出そうとした時、下手な描写よりも白一色の世界にあれこれ想像をめぐらす方が賢明なのかもしれない。芭蕉は吉野や松島(白河の関でも)のような名所では、景色に圧倒され句が詠めなかったというポーズを取りたがる傾向がある。(実際は吉野の句も松島の句も詠んでいる。)
一年遅れて、貞享二(一六八五)年、伊丹の俳諧師、上島鬼貫(うえしまおにつら)は同じく秋の富士をこのように詠んでいる。
にょっぽりと秋の空なる富士の峯
こうした「にょっぽりと」という俗語を交えた描写の面白さは、芭蕉が数年後に詠む、
梅が香にのっと日の出る山路かな
にも匹敵しそうだが、富士に関して、あえて描写を嫌ったところに芭蕉らしさが表われている。
なお、箱根というと中世連歌の大成者で、芭蕉も敬愛する宗祇法師の終焉の地でもあった。本来冬の季語である「時雨」を「霧時雨」という独特の造語でもって強引に秋の句とした背景には、宗祇法師の代表作、
世にふるもさらに時雨の宿りかな
を思い起こしての、鎮魂の意も込められていたのかもしれない。
ところで、芭蕉自身「画工も筆捨てわしる」と言っているにもかかわらず、芭蕉は自筆の『甲子吟行画巻(かっしぎんこうがかん)』のこの場面で富士の絵を描いている。
この絵は「富士を見ぬ日」より後の、ちりの「深川や芭蕉を富士に預行く」の句の後、「富士川の捨て子」の場面に至る過程に挿入されている。箱根の関を越えた後、天気も回復し、富士の姿を見ることができたのだろう。そこに描かれた富士は雲の切れ目にうっすらとその優美な姿を現した様で描かれている。手前には低い山並が続き、そこに道が描かれている。雨上がりの箱根路のようだ。
この芭蕉の描いた富士山は、よく見ると三つのピークが描かれている。真ん中に釣鐘型の頂があり、左右に一つずつ別の頂がある。こうした富士山の描き方は、雪舟(伝)の描く富士山にも見られるもので、芭蕉より後に蝶夢が描いた『芭蕉翁絵詞伝(ばしょうおうえことばでん)』の『野)ざらし紀行』の富士川の捨て子の場面の絵にも見られる。当時の人にとっての一般的な富士山のイメージだったようだ。
こうした富士山は、ともすると近代至上主義の美術評論家からは、伝統的な筆法への盲目的従属ということで片付けられそうだ。しかし、当時の人が今日ほど「描写」ということに価値を置いていなかったのは、発句の場合と同様だ。
おそらく、こうした描き方は、富士山を正面からだけでなく、左右両サイドから見た富士山を書き足したからではないかと思(おも)われる。何といっても、富士山の最大の特徴は、四方八方どこから見ても、同じような優美な姿をしている点にある。
中国の伝統絵画では、西洋絵画のような視点を一箇所に固定する透視画法が発達しなかった。その分、自由な視点の移動で対象を捉えることができる。そこから、このようなキュービズム的な富士山を描いたのではなかったか。
この伝統的な筆法に、一大革命を起こしたのは、葛飾北斎だった。北斎はどの角度から見ても美しいという富士山の本質を、一枚の画面で三つのピークで表現するのではなく、三十六枚の富士山を書くことで解消したのだ。
三、芭蕉を富士に
富士山は実在の山ながら神仙郷の面影を持つ。霧に見えない富士となればなおさら、想像上の異界であり、芭蕉は「却って故郷」となった江戸から別の世界へと旅だってゆく。
「何某(なにがし)ちりと云いけるは、このたびみちのたすけとなりて、万(よろづ)いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉(ほうゆうしんある)かなこの人。
深川や芭蕉を富士に預ゆく ちり」
この旅に同行した千里(ちり)は、柏屋甚四郎(かしわやじんしろう)といい、これから芭蕉も行く大和葛下郡竹内村(今日の奈良県葛城市當麻町竹内)の人だった。この旅は千里にとっても帰省の旅だった。句の意味は深川から富士)に芭蕉翁を預けに行くというそのまんまの意味だが、本来旅立ちのさい深川で詠まれるべき句を「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の句の後に置くことによって二人の姿が白い霧の中に消えてゆくかのように思える。
四、富士川の捨て子
「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」
富士川の捨て子の場面は『野ざらし紀行』の序盤の一つの山場で、人の命の重さというずっしりと重い問題を含んでいる。
この場面には、虚構ではないかという説もあるが、捨て子は当時の社会問題でもあった。もちろん、当時はまだ捨て子を収容し、育てる、孤児院のようなシステムはなかった。
江戸時代の子供は、一般的には無理なしつけや離乳をさせず、のびのびと愛情をもって育てられていたものの、経済的に貧窮した家庭に満足な援助があったわけでもなく、それに双子を忌み嫌うなどの迷信からも捨て子は決して少なくなかった。藩や幕府もこれに見かねて、捨て子を育てる人に報奨金を出したりもしたが、逆にそれを悪用して、捨て子を拾ってきては虐待やネグレクトを繰り返し、お金だけもらおうという人もいた。もっとも、当時、幼児虐待はばれれば死罪だったが。
そういう時代にあって、この富士川の捨て子を虚構と断定できる根拠はどこにもない。仮に虚構だとしても、せいぜいどこか他の所で見た捨て子を、富士川という歌枕に掛けて、ここに持ってきたという程度のものだろう。いずれにせよ、芭蕉はこれを書かずにはいられなかったのだし、しばしば言われるような、
猿を聞く人、
左勝ち、
捨て子の秋風
といったような句合わせ的な趣向の遊戯とみなすには、「捨て子」の命はそんなふうに弄ぶほど軽くはない。(山本健吉ともあろう人がこのような発言をしているのは、信じ難いことだ。)
それにしても、問題が重いだけに、文章のほうも難しく、発句のほうも禅問答めいていて、なかなかすんなりと意味が頭に入ってこない。特に、このころの芭蕉は、出典のある言葉を多用する傾向にあった。 だからまずは一つ一つの語句の出典を丁寧にたどっていったほうがいい。下手に今の感覚で考えると、誤解の元になる。
「小萩がもとの秋の風」は『源氏物語』桐壺巻の、
宮城野の露吹きむすぶ風の音に
小萩がもとを思ひこそやれ
からきている。三つになる後の光源氏を小萩にたとえ、母である桐壺が死んだ今、野分の風の中でこの幼い子供がどうなってしまうのか考えてもみろ、という御門(桐壺帝)の歌だ。
娘の桐壺更衣の退出が許されず見殺しにされた恨みもあってか、死穢を口実に参内を頑なに拒み、片身の息子を手放そうとしなかった桐壺更衣の母君も、やがてはこの歌に諭されてか、光源氏は内裏で引き取られることになる。
しかし、富士川の捨て子は光源氏でもないし、芭蕉もまた桐壺帝ではない。せいぜい食物を恵んでやる程度のことしかできない。それは、一時的な飢えを凌ぐだけの応急措置ではあっても、捨て子問題の解決にはならない。
『源氏物語』の作者紫式部よりほんの少し下の世代に赤染衛門(あかぞめえもん)という、一説には『栄花物語(えいがものがたり)』の前半部分の著者ともいわれている人がいる。『新古今集』には彼女のこういう歌が収められている。
野分したるあしたにおさなき人をだにとはさりける人に
荒く吹く風はいかにと宮城野の
小萩が上を人の問へかし
芭蕉は『源氏物語』だけでなく、この歌も念頭に置いていたのではなかったか。そう考えれば、芭蕉の句の下五の「秋の風いかに」の意味が自ずとわかってくる。芭蕉は「猿を聞く人)」に、捨て子がこれからどうなってしまうのかを問いかけたのだ。
「猿を聞く人」が誰か、ということについては、復本一郎の説にならい、先の「三更月下入無何」の詩を詠んだ広聞和尚ということにしておこう。その広聞和尚の詩に、
越上人住菴 三山偃溪廣聞禪師
越山入夢幾重重 歇處應難忘鷲峯
後夜聽猿啼落月 又添新寺一樓鐘
越上人(えつしょうにん)の住む庵
越の国の山は果てしない夢のように幾重にも重なりあい、
休むところはまさに釈迦の説法)した霊鷲山をいやでも思い起こさせる。
夜明けに猿が、沈んでゆく月に向かって次々に鳴き出すのが聞こえる。
それに寄り添うかのように新しい寺の鐘が鳴り響く。
とあり、『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」という註がある。月に鳴く猿の声の悲しさに悟りを開いた広聞和尚なら、きっと捨て子の気持ちも理解できるだろう、と思い、芭蕉はあえて広聞和尚に問うたのだった。
猿の声というと「ウキッキー」と言いたくなるが、ここでいう猿はテナガザルのことであって日本の猿(ニホンザル)ではない。漢文ではかって「猿(えん)」と「猴(こう)」は区別されていて、「猿」というのは本来テナガザルをさす言葉だった。(これはmonkeyとapeの区別に近い)。
テナガザルは夜明け前後の二時間くらいの間に大声で「ウォー,ウォッウォッウォッウォー」と長く尾を引いて歌うように鳴き、テリトリーを知らせ合う。それは、冥界から響いてくるような切ない声で、世を捨て、人里離れた山奥に隠棲しているときにでも聞けば、まさに断腸の思いだ。テナガザルは今でこそ海南島などの中国最南部が北限だが、かっては長江流域に広く生息していたらしい。京都大徳寺蔵の牧谿(もっけい)の『観音猿鶴図(かんのんえんかくず)』の猿も、龍泉庵蔵の長谷川等伯の『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』の猿もテナガザルだ。芭蕉が影響を受けた狩野派にあっても、テナガザルの絵は定番だったし、江戸後期に円山派がニホンザルの絵を描くようになるまでは、猿の絵というとテナガザルの絵だった。
猿の声は、古くは既に『楚辞』にも、
雷填填兮雨冥冥 猿啾啾兮狖夜鳴
雷は重々しくデンデンと鳴り、雨はすべてを覆うかのようにメンメンと降る。
猿はしょうしょうと、狖(黒い猿)は夜鳴く。
とあり、六朝時代の無名詩にも
巴東山峡巫峡長 猿鳴三声涙沾裳
巴東の山峡の巫峡は長く、
猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。
と歌われている。
猿の声に悟りを開いた広聞和尚もまた、遁世人であり、いわば世から捨てられた「捨て子」だ。秋風に死を待っているだけの捨て子が運命をどう受け止めるべきかも知っておられるでしょう、ということだ。
この「猿を聞く人」の句を、ただ山の中でのんびり猿の声を聞いている趣味人に何ができるのか?捨て子の命のほうがずっと重いではないか!と解する人もいるが、それは過去の詩の伝統と決別した近代的な見方であって、芭蕉的ではない。それでは、「猿の声」に感銘し、断腸の思いになった古人たちは一体何だったのか、ということになってしまう。古人の心を敬い、継承しつつ、リアルな現実に接していくというのが、芭蕉のやり方だ。この句はあくまで、猿を聞く人にどうすればいいのか問いかけているのだ。
生への執着を捨てるのが仏教の教えなら、捨て子はそのまま捨て置くべきなのか?いや、そうではなく、殺生を禁じるように、すべて命あるものを慈しむのが真の仏教なのか?
しかし、もはやこの世にいない広聞和尚に問いかけても、答えはない。芭蕉は自分なりに一つの答を出す。
「いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性のつたなきをなけ。」
この答も意外に思うかもしれない。今日の常識)では確かに「捨て子」は子を捨てた親の犯罪以外の何ものでもない。しかし、それはわれわれが避妊の方法)を知っているし、わが国では堕胎も事実上許されている。そのため、子供の数は自由に決めることができる。意図せざる子供が生まれたとしても、少なくとも憲法の生存権に基づいた最低限の公的援助は受けられる。子供はどんな場合でも育てられないはずはない、という前提があってこそ、「捨て子」は許すべからざる殺人行為として認識されるようになったのだ。
また、この文章を虚構とする根拠として、正常な感覚の人間)だったら、食)べ物を投げて通り過ぎるなんてことをせずに、しかるべきところに届けたはずだ、という人もいるが、それも孤児を収容する施設の整った上、行政がそれに責任を持つことを義務づけられた今の時代の感覚に他ならない。
この意識を芭蕉の時代に求めるのはやめたほうがいい。時代があまりにも違うのだ。捨て子は運命であり、「天」だったのだ。そこからむしろ、「捨て子」がすべての人間の運命でもあることに思いを馳せることが重要だったのだ。
すべての生き物はこの地球という限られた空間に暮らすしかない。それゆえ、生きるということは、有限な土地、有限な資源、有限な生態系、その中で終)わることのない椅子取りゲームを繰り返すようなものだ。豊かになる者がいれば、そのぶん必ず滅びてゆくものがいる。そんな生存競争の繰り返しは、今日のわれわれも例外ではない。
今日のわれわれは、膨大な地下資源を消費することによって、生産性を飛躍的に向上させ、未曽有の豊かさを勝ち取った。しかし、その資源も有限であることには変わりない。
近代化初期の段階ではこの豊かさは人口の爆発を生んだが、一定以上生産技術が高度化すると、むしろ高度な生産技術を維持するためには、高度な教育を受けた質の高い労働力が不可欠とされるため、子供一人当たりの教育投資額が急速に膨れ上がり、少子化に向った。これによって、われわれは十九世紀のマルサスの予言に反し、生産性の向上と少子化が同時に起きるという状況が生じ、もはや飢餓と隣り合わせの生活は過去のものとなり、捨て子はもはや社会問題ではなく、単なる犯罪となった。
われわれは確かに自分の子供を泣く泣く河原に捨て去るほど貧しくはない。しかし、そのかわりに多くの難民と野性生物を捨ている、ということも忘れてはならない。芭蕉は捨て子にわずかな施し物をして通りすぎるしかなかった。それは、今日のわれわれが、テレビで見る飢餓難民の姿に古着を送ってやるくらいしかできないし、日に日に失われゆく自然の姿になす術もない、そんなにがにがしさに近いのではないか。
すべては生存競争だから仕方がないといって放置すべきなのか。そんなことはない。捨て子は悲しいし、誰もそれを放ってはおけない。だからといって自分が引き取って育てればいいかというと、この世にいる膨大な数の捨て子を一人で抱え込むなんてできやしない。そのやり場のない叫びが、猿の叫びと重なり、「猿を聞く人」の句となった。
談林時代から芭蕉とともに俳諧を作ってきた山口素堂(「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句が有名)は、『野ざらし紀行』の波静本への序の中でこう言っている。
「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」
あるいは濁子(じょくし)本の後書きでこう言う。
「富士の捨子ハ其(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」
いつ終わるともしれぬ生存競争の厳しい自然の掟は、ただ泣くよりほかにどうしようもない。しかしそれを悲しみ、哀れむところに、人間らしさが、「仁」の発端がある。
五、大井川
徳川幕府は、敵の侵略を防ぐために、大きな川にあえて橋を架けなかったといわれ、大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるくらい、東海道の難所の一つだった。芭蕉もここで川止めをくらったようだ。
「大井川越る日は、終日(ひねもす)雨降りければ、
秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ちり」
ここでふたたび千里(ちり)が登場する。芭蕉の弟子で旅に同行したのだが、この名前も結局ここが最後となる。
この句は、七、八、五で三文字ほど字余りである。当時字余りは一種の流行で、これより少し前の天和の頃には芭蕉も、
櫓の声波をうって腸(はらわた)氷る夜や涙
というような十、七、五の五字も字余りの句を詠んだりしていた。
もっとも、この程度のものはまだ可愛いもので、同じ頃、伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)を中心とするグループは「伊丹流長発句(ながほっく)」と称し、十文字くらい字余りになるような句を詠んでは,一世を風靡していた。それは、
踊子に穴あらば数珠につないで後生願)わんものを 百丸(ひゃくまる)
あたご火や江戸鬼灯(ほおずき)めせところてんものまいれ 青人(あおんど)
田の中に棒の一本立ちたるは鵙をおどすか千の字か 馬桜(ばおう)
といったものだ。ただ字余りというだけでなく、発想そのものも奇抜で、シュールともいえる。
踊り子に穴というと、ちょっときわどいが、それを数珠にして釈教に逃げるあたりはさすがだし、百丸という俳号は人丸(=人麻呂)のパロディーだろう。
「あたご火」は、西山宗因の句に、
天も酔へりけにや伊丹の大燈籠
とあるように、伊丹の愛宕神社の祭で赤々と灯す大燈籠のこと。それに江戸のホオズキを連想したもの。青人ももちろん赤人(あかひと)のパロディー。
「田の中に」の句は判じ物のようなもので、「田」の中は「十」。それに一本棒を引くと「千」の字になる。田の中に棒が一本立っているのは、それは千の字か、鵙を嚇(おど)すための案山子(かかし)なのか、という意味。馬桜(ばおう)は馬肉が桜肉と呼ばれているところから取ったのだろう。仏教色の強い風雅の世界で、あえて肉食など殺生を匂わせる俳号をつけるのは、反骨精神か。
いずれにせよこれらの句は、本来の俳諧というものは、今日の俳句の常識では計れないほどの幅の広さがあったことを物語る。
『野ざらし紀行』の時代より十年くらい前、延宝(えんぽう)四(一六七六)年頃から大流行した「談林」の俳諧は、連歌の式目を杓子定規に守るのではなく、式目の裏をかいた、いわば法に抜け道を作るような作風をはやらせた。
たとえば、宗因独吟「口まねや」の巻の初裏七句目に、
過がてにする西坂の春
有明のおぼろおぼろの佐夜の山 宗因
という句がある。内容的には佐夜(さや)の中山を朝未明に越えると、残月がおぼろで、このまま春の金谷の西坂(にっさか)は越えがたい(もっとここにいたい)。という意味になる。ただ、それだと俳言(はいごん)つまり雅語ではない言葉、俗語、漢語などを一句に一語入れなくてはならないという貞門以来のルールに抵触することになる。そこで、この有明は有明行灯(ありあけあんどん)、「ありあかし」のことだよということで、ルールを遁れることになる。そして、佐夜(さや)を「さよ」と読ますことで、地名ではなく、一般名詞としての夜のことになり、宿屋で行灯がぼんやりと灯り、西坂を過ぎかねて春を楽しむという、江戸の街道のリアルな姿となる。
ただ、宗因流の俳諧の場合、
関の戸をさそひし人は出でやらで
有明の月さやの中山
藤原定家
の歌を證歌(しょうか)としており、卑俗な情景を描くにも必ず證歌をとり、古歌の情を持たせることが必須とされていた。
しかし、こうした談林風が庶民に引き継がれてゆく過程で、ややこしい證歌のルールはすたれてゆくことになった。芭蕉はその中で、発句のみ古典の本意本情を実質的に踏まえて作ることで、古典との連続性と品位を維持しようとしたといってもいいだろう。
芭蕉がこの後『野ざらし紀行』の旅で名古屋に行ったとき、名古屋の俳諧師たちと詠むことになった『冬の日』の中の、
たぞやとばしる笠の山茶花
有明の主水(もんど)に酒屋作らせて
の句も、有明を人の呼び名に用いて秋の句にしてしまっている。これも、人名が人倫に当るかどうか曖昧な上、本名ではなく、そう呼ばれている程度の通称であるところで、二重にかいくぐっている。
こうした中で字余りも流行したのだろう。というのも、室町時代に作られた連歌の式目(應安五(一三七二)年の『應安新式(おうあんしんしき)』と享徳元(一四五二)年に追加された『新式今案(しんしきいまあん)』が正式な式目とされている)には「字余り」についての規定がないからだ。式目に字余りについて何も書かれてない以上、何十字余らせようが違反にはならないというわけだ。サッカーでいう「マリーシア(悪知恵)」に近いかもしれない。
とはいえ、芭蕉の句は二字、三字の字余りでもかなり長く感じる。
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
猿を聞く人捨子に秋の風)いかに
そしてこのあと『野ざらし紀行』に出てくる、
三十日(みそか)月なし千歳の杉を抱く嵐
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
狂句木枯(きょうくこがらし)らしの身は竹斎に似たるかな
といった句は、字余りにしてもなお心余って言葉足らずの感がある。字余りでいながら字足らずという不思議な句だ。これに対し、ちりの句は芭蕉のような切羽詰まった緊迫感もなく、ただ流行に乗って長くしただけという感が残り、芭蕉との力量の差は歴然としている。
六、道のべの木槿
『野ざらし紀行』の中、大井川と小夜の中山という二つの名所にはさまれた所に、二行ほどぽっかりと場所の指定もなく、こう書かれている。
「馬上吟
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」
木槿といえば朝に咲いてはその日のうちに萎むはかない命を象徴する花でもあるが、白楽天が「木槿は一日にして自ら栄となす」と歌っているように、命の短さは決して哀れむべきことではない。むしろ、「朝(あした)に道を聞きては夕に死すとも可なり」という『論語』の言葉にもあるように、短い命を天寿とこころえて生きている花だ。
長い短いは相対的なもので、人生五十年だろうが百年だろうが、あっという間といえばあっという間で、悠久の時の流れからすれば、あまりに短い。それは木槿の花の命とさして変わらない。
しかし、この木槿は自然に萎んだのではない。短い花の命の、その短い天寿を待たずして、突然馬に食われてしまったのだ。
木槿を食ったのは、ここでは芭蕉自身の乗っている馬だ。それだけに、木槿の死は他人事ではなく、自分自身の罪の意識となって、心の中にじわじわと染み込んでくる。はかない命の木槿もまた芭蕉自身の姿かもしれない。
誰だっていつ死ぬかわからない身だ。馬も自分かもしれないし、木槿も自分かもしれない。人間は常にその両面をもっている。そんな心の一瞬の揺れ動きが、この句の生命だ。ただ木槿を哀れむだけなら、単なる感傷にすぎない。
馬が木槿を食ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。しかし、その一瞬の驚きは一瞬で終らず、悲しさと罪の意識が交錯したまま、どこまでもつきまとってくる。それが、この句の不気味な余韻となっている。
馬に悪気があったわけではない。芭蕉に悪気があったわけでもない。生きてゆくというのはそういうことだ。誰だって生きてゆくためには他人を押し退けていかなくてはならないし、誰だって毎日のようにたくさんの生き物を殺して食っている。そんなことをいちいち考えては生きてゆけないから、何ごともなかったかのように通りすぎてゆく。しかし、眼前の事は消えることはない。道のべの木槿は馬に食われたのだ。