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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 09 (30/04/23) 小豆島町 (旧内海町) 福田村 (3) / 当浜村 / 岩谷村 / 橘村 / 安田村 (2)

2023.05.01 07:26

小豆島町 (旧内海町) 福田村

小豆島町 (旧内海町) 当浜村 (あてはま)

小豆島町 (旧内海町) 岩谷村 (いわがたに)

小豆島町 (旧内海町) 橘村 (たちばな)

小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)

ウォーキング距離: 22.6km


今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第86番 当浜庵

第87番 海庭庵

第88番霊場 楠霊庵


訪問ログ



今日は福田から安田まで徒歩にて向かう。13km程の距離で、福田村、当浜村、岩谷村、橘村、安田村の順で、史跡を巡る。




小豆島町 (旧内海町) 福田村

福田村については前回 (4月28日) 当浜村への遍路道を通りバス通りまで巡った。今日はその地点唐バス通りを当浜村へ向かう。


地蔵尊

バス道沿いに地蔵尊が置かれている。多分この道はかつては遍路道だったのだろう。現在は道幅も広くなり、遍路道は消滅してしまっている。


さぬき百景福田海岸

バス道を進むと展望スポットがある。さぬき百景福田海岸とある。讃岐百景は明治百年と四国新聞創刊80年を記念して四国新聞社が読者投票をもとにして選出した香川県内の観光地・景勝地の100選で、小豆島ではこの地を含め、19も選ばれている。その中には今まで訪れた宝生院の巨柏双子浦も含まれている。

ここからは福田の海岸が見渡せる高台でここから先は道が降りになり、村は見えなくなる。ここには91小豆島国際石彫シンポジウムで置かれた石彫作品が置かれている。


‘91小豆島国際石彫シンポジウム

福田からのバス道沿いには多くの石彫作品が展示されている。小豆島の石を使った芸術作品で、この石彫作品の展示が始まったのは1968年の「日本青年彫刻家シンポジウム」からになる。1991年には、町政施行40周年を記念して、「'91小豆島国際石彫シンポジウム」を開催している。町の広場や公園、公共施設、街道筋に100個を超える作品が展示されている。

福田から当浜にかけては下の写真の様に特に多くの作品が多く展示されている。


遍路道

バスから山側に遍路道の表示がある。バス道で遍路道が消滅したのだが、ここからかつての遍路道が残っている。山道を登ると遍路道は再度バス道に合流している。以前はこの地点からも遍路道はあったのだが、1967年に小豆島シーサイドゴルフクラブが造られて遍路道が消滅してしまった。かつての遍路道は盲目坂 (めくらさか) は、金神さん前から大谷を経て、いすすり川 (外明神川の上流、現在はゴ ルフ場内) を渡り当浜へ下っていた。



小豆島町 (旧内海町) 当浜村 (あてはま)

福田村の南隣には当浜村がある。伝承によれば、当浜村は、坂手村に本拠を置いた伊予水軍河野氏の支流久留島氏 (黒島氏) が、苗羽村や田浦村を含み、西に進んで開いていったとされ坂手村の支村だった。この様に草加部村東部の村々の開拓は、中世末応仁の乱前後のころ、本州や四国から流浪の武士が移住し、東岸の坂手村を基点に開墾開拓をし独立村を形成したと考えられている。江戸時代は坂手村から独立して、江戸幕府直轄の天領の草加部村 (草壁村) の支村となっている。当時は草加部村内は11の枝村が存在していた。(草加部本村 [西城村とも呼ばれ、上村、下村、片城村を含む)、西村、安田村、苗羽村、古江村、堀越村、田浦村、坂手村、橘村、岩谷村、当浜村)  1880年 (明治13年) に草加部本村から分離独立。1887年 (明治21年) の明治の大合併で安田村に吸収され、1951年 (昭和26年) の昭和大合併で内海町の大字になり、2006年 (平成18年) に平成大合併で小豆島町の一村となっている。

当浜は小豆島町の中では2番目に人口の少ない地域で、小豆島町の中では0.6%にあたる。1972年の人口に比べて2015年には約63%も減少して86人となっている。2023年の人口は不明だが、更に減少していると考えられる。


当浜村の史跡

  • 寺院/庵等: 当浜庵 (86)
  • 神社: 当浜荒魂神社、当浜戎神社


休憩所

バス道を進むと休憩所があり、ここにも石彫作品が置かれていた。ベンチも石でできている。山の岩の上には雷様のお弁当という作品が置かれていた。


地蔵尊

道は当浜村へ降り坂になり、道沿いには地蔵尊がある。


当浜漁港

坂道を下って行くと、当漁港が見えてくる。山の谷間に当浜集落がある。坂道を降りて集落に入り港まで行く。


当浜荒魂神社

当浜漁港に流れる当浜川 (総延長2km) 沿いには当浜村の氏神になる当浜荒魂神社がある。幣殿と本殿が分かれている。7月15日に荒神祭が行われている。


当浜戎神社

当浜漁港にはもう一つ神社があった。当浜戎神社で漁業の神である恵比寿を祀っている。この神社では7月9日に金毘羅祭が行われている。


第86番霊場 当浜庵

当浜村の中、バス道沿いに千手の変化で地獄の苦悩を救済し、誓願成就を司るとされる千手観音菩薩 (千手千眼観音) を本尊とする第16番札所の当浜庵が置かれている。昔は観音庵と呼ばれ、現在は消滅してしまった難所だっためくら坂に置かれていた。めくら坂は、あまりにも険しさに、不自由な行者が峠を越すのに苦労したということでそう呼ばれていた。1983年 (昭和58年) にめくら坂から現在地に移されている。

境内には地蔵堂があり二体の地蔵尊と二体の仏像が祀られている。


椿の里

谷間にある当浜村を後にして坂道を登るとバス道から南海岸の急斜面に旧道が通っている。この旧道沿いには民家もなく、直ぐにバス道に戻るので、自動車は利用しないのだろう道の入り口は苔が生えて、ツルツルと滑り歩きにくい。この道の半ばに「椿の里」と呼ばれる場所があった。ここには小規模だが約1000本の野生のヤブツバキ群生林が残っており、小豆島町指定天然記念物となっている。当浜では昔からツバキは山に入っても切らないという無言の掟があったようで、これが

椿油の確保に役立ち、このヤブツバキ群生林の保存に貢献したという。


小豆島町 (旧内海町) 岩谷村 (いわがたに)

岩谷村は江戸時代は当浜村と同様に草加部村の支村だった。その後、1880年 (明治13年) に草加部本村から分離独立。1887年 (明治21年) の明治の大合併で安田村に吸収され、1951年 (昭和26年) の昭和大合併で内海町の大字になり、2006年 (平成18年) に平成大合併で小豆島町の一村となっている。

岩谷は小豆島町の中では4番目に人口の少ない地域で、小豆島町の中では0.6%にあたる。1972年の人口に比べて2015年には約55%も減少して205人から92人となっている。2023年の人口は不明だが、更に減少していると考えられる。


岩谷村の史跡

  • 寺院/庵等: 観音寺、海庭庵 (87)
  • 神社: 恵比寿神社、宝龍神社、岩谷荒神社 (未訪問)
  • 丁場跡: 八人石丁場、亀崎丁場、豆腐丁場、天狗岩丁場、天狗岩磯丁場 (未訪問)


八人石丁場

当浜村からバス道を登り、道を進み岩谷 (いわがたに) 地区に入った所に八人石丁場が残っている。この岩谷をはじめ小豆島各地に丁場跡がある。大坂夏の陣によって破壊された豊臣家の大坂城は、徳川の時代に入り二代将軍秀忠と三代将軍家光により大規模な再築がなされた。この再築は西日本大名63藩64家による割普請によって1620年 (元和6年) から1629年 (寛永6年) までの間、三期の工役により実施され、石垣用石材は兵庫県東六甲を始め瀬戸内海島嶼部を中心に各地で切り出された。石垣石採石地は、京都府加茂笠置、伏見城石垣の転用、大阪府生駒山系、兵庫県東六甲山系、小豆島/前島/北木島など瀬戸内海島嶼部、福岡県沓尾、佐賀県唐津等が確認されている。特に、伏見城石垣の転用、生駒山系、東六甲山系、小豆島の4つの地域が主たる採石場だった。東六甲山系では、石が少ない事や、小豆島より日用の値段が高い事から多数の大名は小豆島が採石場の中心となっていく。小豆島では、伊勢津藩藤堂家、福岡藩黒田家、柳川藩田中家、熊本藩加藤家、小倉藩細川家、岡藩中川家、松江藩堀尾家が採石している。

福岡藩黒田家は第一期普請では兵庫県の御影と西宮で採石しているが、第二期普請以降に小豆島で採石している。小豆島では、東海岸の岩谷地区と千振島で採石 したとされる。黒田家が岩谷地区を丁場とした経緯を示す次の史料がある。草壁村庄岩谷の石丁場の中で、現在では南谷、天狗岩、天狗岩磯、豆腐石、八人石、亀崎の六つの丁場が残り、種石、角石、そげ石等の築城残石が約1600個が残存し、その内600個がこの八人石丁場に残っている。

丁場には様々な残石がある。石割する前の原材料で割りかけの「種石 (写真左上)」、加工済み、作業途中の「角石 (右上、左下)」、余材の「そげ石 (右下)」が多く残っている。時の作業がそのまま中止されたような状態で残されいる。

巨大な角石には、色々な刻印が施されている。40を超える刻印が見つかっているそうで、大坂城石垣石にも同じ刻印と符合している。

丁場跡には遊歩道の八人石苑路が設けられ、その道を進んだところに巨石が残っている。「八人石」と呼ばれ、高さ4メートルの巨石が真っ二つに割られている (写真中右)。この石を割った際に、8人の石工が下敷きになり犠牲になったという言い伝えから、八人石と呼ばれる様になった。巨石の前には1942年 (昭和17年) に建立された五輪塔が置かれ、犠牲になった石工たちの供養をしている。


亀崎丁場跡

八人石から岩谷村方面にバス道を進むと海岸側にも亀崎丁場跡が残っている。この丁場跡は整備されておらず、道も無く、はっきりと残石と分かる石は少ない様に思えた。


観音寺

亀崎丁場跡への入り口の反対側には地蔵尊が置かれて、観音寺参道となっている。予定にはなかったのだが、この山の上に寺がある様で行ってみることにした。途中二つの地蔵尊が置かれれいる。二つ目の地蔵はお助け地蔵と書かれていた。

長い舗装された自動車道を登って行くと、やっと階段が見えてきた。これも長い階段で登り切った所に山門がある。

真言宗醍醐派観音寺の山門を入ると建物があるのだが誰もいない。境内には多くの地蔵尊、滝、奥には護摩道場がある。この寺は修験寺になる。

護摩道場の上に洞窟があり、ここが本堂なのだろう。洞之観音とある。洞窟内にはお助け地蔵尊、文殊菩薩、大日如来、弘法大師が祀られている。お助け地蔵尊は参道途中にもあったにだが、こちらがオリジナルだろう。ここに祀られている大日如来が本尊になる。

更に上にも洞窟があり、ここにも仏像が祀られているが、名はわからない。この寺の情報は色々と探したのだが見つからなかった。

観音寺は標高242mにあり、そこから見える島の山。


豆腐石丁場跡

観音寺の参道を降りて行くと途中に豆腐石丁場跡への道が分岐している。山道を進むと丁場跡があり、豆腐のように切り立つ巨石の角石がある。石工の手によって見事に割られた豆腐石は、数ある残石の中でも、往年の技術を伝える最高傑作であると言われている。 石材の表面に残された黒田家の代表刻印 (写真中中) がある。


天狗岩丁場跡

バス道に戻り、岩谷村に向かうと緩やかな下り坂になり、道の途中にあった石彫を通り、丁場跡が見えてきた。

この丁場は小豆島にある丁場跡の中では最も整備されて、観光客も多く来ていた。丁場跡までは綺麗に整備された遊歩道になっている。

遊歩道を進むと猪鹿垣 (写真左上) がある。獣害から畑を守るため小豆島では至る所に造られていた。その奥には高さ17.3mの大天狗岩と呼ばれる巨石があり、この丁場の目玉になっている。この大石は角石に割る前の種石だが、刻印や矢穴が見られ、作業が途中で終了したのだろう。

遊歩道沿いに珍しいコアストーンが紹介されていた。地下深くでマグマが冷えて固まった花崗岩で、風化しやすいマサ (風化花崗岩) と、硬いコアストーン (未風化花崗岩=種石) で構成されており、築城用石として用いられたのがコアストーンになる。ここにはマサが風化して崩れて中から丸いコアストーンが生まれてくるのを見ることができる。

遊歩道の階段を登ったところには小天狗岩と呼ばれる岩がある。大岩を見上げると矢穴とそれを開けるための下取り線 (写真右上) が残っている。通常、石割では上から矢穴を開けるのだが、この岩ではから上に向かって矢穴が空けられいる珍しい石割工法になっている。石割り工程の途中で中止された様だ。

この天狗丁場では多くの残石があり、石割りの工程の各ステップを見ることができる。


七兵衛屋敷跡

天狗岩丁場から山道を降り、バス道に出た所には黒田家が派遣した番人七兵衛が住居した屋敷跡があり、昭和45年に香川県指定文化遺産に指定されている。ただ、文化遺産としてはあまり手入れがされておらず、標識がなければわからない状態にあるのは残念。

1629年 (寛永6年) の大坂城普請の後、岩谷はじめ各丁場には大量の残石があり、福岡藩は大坂鈴木町・紀伊国下清水町、伊豆真男鶴、網代などの各丁場に番人を置き管理していた。岩谷には配下の頼七兵衛を土着させ残石の監護にあたらせていた。岩谷村年寄には一人扶持、七兵衛には藩から二人扶持を与えられ、七兵衛の子孫は幕末まで約240年間石番を務めている。残石は畑などに散乱していたが、村民は福岡藩の許可なしには移動もできなかった。この様に丁場と残石は福岡藩の管理下だった為、この期間は小豆島では石材産業が成立し得なかった。

幕末期には、幕府は国内外勢力への軍事的・政治的プレゼンスを示し摂海防備のために兵庫県に和田岬・湊川崎・西宮・今津の四砲台を築造する。今津砲台の石材については事業

請負によって小豆島福田と岩谷から調達されている。明治時代になり、岩谷の石切場は明治政府の陸軍工兵第四方面の所管となったが、政府による直接管理ではなく地域に管理を委ねている。1882年 (明治15年) に民間に開放され、以降小豆島の石材産業が発展して行くことになる。1965 ~ 1974年の開発により、丁場跡は破壊に直面していたが、1970年に県指定史跡「大阪城用残石群」として指定され、1972年に小豆島岩谷地区は「大坂城石垣石切丁場跡」として国の史跡に指定され、石切場が保護されることとなった。


天狗岩磯丁場跡 (未訪問)

今回は訪れなかったのだが、天狗岩丁場の前の海岸には天狗岩磯丁場があった。各丁場から切り出された石材は、この辺りの海岸から船で大阪城まで輸送されていた。船に積み込む際に落ちたのだろうか、ここの海中にも多くの残石が見られるそうだ。天狗岩磯丁場跡は2010年に海の文化遺産総合調査プロジェクトとして調査が行われ、波打ち際に石材を確認された。2012年には同志社大学文化遺産情報科学研究センターが天狗岩磯丁場の海中の石材分布を調査している。

次回小豆島訪問時に来てみよう。写真はインターネットで紹介されていたもの。


かもめ石

天狗岩磯丁場跡の海岸の少し沖に突起物がある。大坂城石垣石の積み出しの際に、船を係留するための岩と考えられている。地元では「かもめ石」と呼ばれている。


海岸沿いのバス道を岩谷村を目指して歩く。海岸は砂浜になっている。


地蔵尊

坂道を降り切ると城石川 (総延長1,333m) が海に流れ込んでいる。城石橋の手前には地蔵尊が置かれている。


恵比寿神社

城石橋を渡った海岸の防波堤の前には恵比寿神社が置かれている。祠の中にはえびすさんの像が置かれている。この岩谷にも漁港があり、漁業の神の恵比寿を祀り、大漁祈願、海上安全を祈願している。


宝龍神社

城石川を山川に向かうと岩谷集落内のほぼ中心部に宝龍神社と呼ばれる神社がある。7月13日に祭礼が行われている。この神社については祭神などの情報は見つからないのだが、村で夏祭りも行われている事、村の中心地にある事、祠内は綺麗にされている事から見ると岩谷の氏神とされている様に思える。


第87番霊場 海庭庵

バス道沿いに第87番札所の海庭庵がある。昔は観音堂と呼ばれ、安阿弥の作と伝わる島内随一の仏像の十一面観世音菩薩を本尊としている。安産子授の御利益があるとされ全国に信者がいるそうだ。今は無くなったのだが、昔は庵前に老松が枝を広げ、参拝者の目印になっていた。明治初期には寺子屋が置かれていたそうだ。小豆島では明治時代に小学校が置かれる以前は、神社や寺に置かれていた寺子屋が教育機関だった。

庵の中にはダンボール箱の中にお接待としてみかんが用意されていた。四国八十八ケ所札所に比べて小豆島の札所ではお接待は少ない。四国に比べて集落の規模も少ないのだが、その中でもここの様に村民がお接待を用意してくれているその気持ちはありがたい。箱の中からみかんを一つ有り難くいただいた。


岩谷荒神社 (未訪問)

後日、小豆島の拝所を調べている際に岩谷村には荒神社がある事が分かった。小豆島では各部落には荒神を氏神として祀っているので、荒神神社があって当然なのだが、この日の訪問前には荒神社の場所などの情報がなかった。村を歩き回るか、住民に聞けば見つかったのかもしれないのだが、今の日は時間に余裕がなく結局見つからなかった。この神社では村では7月12日に祭事が行われている。次回小豆島訪問時にここに来ることにする。



地蔵尊

バス道を進むと岩谷漁港の所に地蔵尊が置かれている。


岩ヶ谷漁港

岩谷村にも漁港がある。船溜まりには小型漁船が繋がれている。


地蔵尊

岩ヶ谷漁港が岩谷村の南端になり、ここを過ぎると登り坂になる。道沿いにはもう一つ地蔵尊が小さな祠の中に置かれている。またここにも石彫作品が置かれている。ここを越えると橘地区に入る。




小豆島町 (旧内海町) 橘村 (たちばな)

橘村は元々は坂手村に属していた。その起源は文明年間 (1469~1487年) に播州より来島し坂手村の草分けとなった赤松氏一派の広瀬重兵衛親則の孫の重兵衛道親が沿岸漁撈の合間に隣接地区の開墾をはじめ、その子の道香も父の跡につづき、同族の広瀬五郎右衛門、東谷五右衛門および伊予河野氏の支流といわれる黒島新左衛門らとともに橘に移住し、1605年 (慶長10年) に行われた片桐且元の検地の際に坂手村の支村となった。その後、1648年 (慶安元年) の小堀遠州の新開地の際に、坂手村から分離独立している。村の年貢は1688年 (元禄元年) に単独上納になるまでは坂手村に納め上納していた。江戸時代終わりまでは橘村は草加部村の支村だった。その後、1880年 (明治13年) に草加部本村から分離独立。1887年 (明治21年) の明治の大合併で安田村に吸収され、1951年 (昭和26年) の昭和大合併で内海町の大字になり、2006年 (平成18年) に平成大合併で小豆島町の一村となっている。

橘は小豆島町の中では人口は真ん中ぐらいの地域で小豆島町の中で2.7%を占めている。1972年の人口に比べて2015年には約55%も減少して867人から394人となっている。人口減少率の高い地域となっている。2023年の人口は不明だが、更に減少していると考えられる。


橘村の史跡

  • 寺院/庵等: 楠霊庵 (88)
  • 神社: 荒神社、山の神、厚子大明神


南風台、城ヶ島

坂を登り切った所が南風台で展望台になっている。記憶では数年前までは旅館があったと思う。当時は小豆島の観光名所で大いに賑わっていた。今は旅館もなくなり、ひっそりとして、ここに駐車して景色を見ている観光客も少ない。南風台の岬の先端の海の中には城ヶ島が見える。干潮時には陸続きになり島に渡れる。これはトンボロ現象と呼ばれ、この現象で陸路が現れるのはが見られるのは全国で11か所あり、そのうちの2か所が小豆島にある。土庄のエンジェルロードとこの場所で、ここは希望の道と呼ばれている。生憎、今日は道は完全には現れていなかった。次回に期待する。以前、この島には弁財天が祀られていて弁天島と呼んでいたそうだ。更に時代を遡ると、この島には城ヶ島城と呼ばれた城塞があった様だが、詳細は不明。南北朝時代に小豆島を領有していた佐々木信胤の出城か物見砦だったのだろうか?

地蔵尊

橘村に入ると道沿いには六地蔵と石仏が置かれている。石仏の方は伝統的な仏像ではなく、アニメのキャラクターの様な浮き彫りがされているので比較的新しく作られた様に見える。


第88番霊場 楠霊庵

橘村には第88札所の楠霊庵があり、小豆島八十八ケ所お遍路の打止め霊場となっている。昔は、地蔵堂と呼ばれていたが、この場所に楠の大木があり、その木材で庵が建立されたので楠霊庵と名づけられたという。庵内には本尊の延命地蔵菩薩が鎮座している。


祠 (厚子大明神)

集落中心のバス道沿いにはブロック造りの祠が置かれており、中には厚子大明神と書かれた札が祀られている。詳細情報は見当たらなかった。


荒神社

厚子大明神から山側への道に入り、集落を抜け、拇指嶽への道を進むと山腹に橘村の氏神である荒神 (こうじん) を祀った橘荒神社がある。階段を登ると途中、左右は広場になって、それぞれに祠が置かれている。一つは祠内に狐像がいくつも置かれているので稲荷神社と分かる。もうひとつの祠内にも像が置かれているのだが、何を祀っているのかは分からなかった。

更に階段を登ると正面に荒神社の拝殿が置かれ、その奥が本殿になる。この橘荒神社では7月15日に祭事が行われている。

橘村の背後には拇指岳が聳えている。ロッククライミング練習岩にもなっているそうで、ここへの登山口が橘村にある。この荒神社の道を進むと登山道になるのだが、今日は安田に行き従兄弟を尋ねようと思うので時間に余裕がなく、登山は断念。次回小豆島訪問時にはぜひともこの拇指岳 (おやゆびだけ、山の前の上にとがった岩)、山の頂上の千羽ヶ嶽 (371m) に登ってみたい。


橘集合住宅

今まで小豆島の幾つかの集落を見てきたが、この橘村は少し街並みが異なる。それは幾つもの4-5階建の集合住宅がある。先に訪れた岩谷にも集合住宅があったが、規模は小さなものだった。住宅地としての土地はふんだんにある地域にこの様な集合住宅があるのは少し違和感を感じる。その背景は何なのか?

その一つは、昭和49年に小豆島に大きな災害をもたらした台風8号はがあるのかも知れない。年間降雨量の25%が1日で記録し、この地では29人もの死者を出した。

特にこの橘村、岩谷村、福田村は背後に山が聳え、集落はその谷間の平坦地域にあった。豪雨により、岩山の上に7m程堆積している真砂土が削り取られ谷を流れる川に土砂流として集落を直撃した。特にこの橘村の被害は最も大きく、全壊家屋21戸、半壊家屋21戸、19名の死者、14名の重傷者を出している。(橘村の当時の人口は803人、234戸) 家を失った人達への救済の為、将来の災害に備える為にこの様な集合住宅が建設されたのかも知れない。

橘村には更に奥深い悲しい歴史がある。この災害集合住宅は他の地域で「同和住宅」と呼ぶ人がいる。橘をはじめ小豆島には過去に差別を受けていた地域がいくつかある。現在では差別意識は薄れてきてはいる。橘出身と聞いても特に意識をしなくはなってきている。とはいえ、悪意はないのだが同和住宅という言葉が無意識に使われている現状ではまだまだ解消まではいっていないのだろう。橘は先にも書いたように由緒ある赤松氏一派が小豆島に移住し開拓した村で誇れる村のはずなのだが。他の地域がこの地域にもつ感情よりも、その地域に住む人が潜在的に感じている事の方が深刻と思える。部落では今でも無意識のうちに植え付けられたコンプレックスを抱いている人も多い。小学生の時には村で同級生と神社境内で遊んでいた時に、遠くから遊んでいるのを眺めていた少女の事が今でも記憶に残っている。仲間に入り一緒に遊びたかったのだろう。遊んでいた仲間の一人が少女に石を投げ「エッタ」と叫んだ。その時の少女の悲しそうな目が忘れられない。当時は「エッタ」が何を意味していたのかは分からなかった。そう叫んだ子供も意味を分かっていたのではなく、大人達がそう言っていたのをそのまま使っていたのだろう。何年かして学校の社会の授業で「穢多 (エタ)」という身分が江戸時代に政治的に使われていたと知った。このエタという言葉の発祥とその背景には諸説あるが、1000年も前から存在していた事から、長い歴史の中で社会の中で様々な意味を持つ様になったのだろう。現在は小豆島でもほとんど耳にする事は無くなってはいるが、この様な差別的な言葉が死語になるまでは差別意識がなくなり問題の解消は難しいのかも知れない。

以上のような課題はあるのだが、橘地区は過疎化は進んではいるのだが、小豆島町の中で高齢化率が最も低い地域になっている。この理由は調べたがわからなかった。集合住宅が他の地域ん比べて、多いことで比較的住みやすい地域なのかも知れない。


遍路道、地蔵尊

橘村の南端を抜けた所から山越えの遍路道が残っている。遍路道沿いには地蔵尊が置かれれいる。


橘山の神

遍路道を進むと階段があり、その上二派橘村の山ノ神を祀った小さな祠が置かれている。その側にも何を祀っているのかは不明だがもう一つ祠が置かれていた。


地蔵堂

更に遍路道を登って行くと地蔵堂があり、何体もの地蔵尊が合祀されている。この遍路道沿いにあった地蔵尊を集めて祀っているのだろうか?


峠地蔵

道を進むと峠に着く。そこにも地蔵尊が置かれており、地元では峠地蔵と呼ばれている。ここからは下り道になる。

道を下って行くと獣害柵にがあり、扉を固定している紐を解いて柵の外に出る。そこには池がある。静かで綺麗な池なので、休憩として、朝作ったサンドイッチで昼食を取る。今回の遍路巡りでは、弁当を持参して景色の良い場所で昼食をとっている。ほとんどは人里から離れた所なので、景色を独り占めでき気持ちが良い。



小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)

この池を過ぎた所から安田地区になる。まだまだ民家へは距離がある。安田村中心地のスポットは昨日訪れている。



野 (?) 神社

遍路道を進むとようやく民家のある場所に出る。道沿いの石垣の上に石柱がある。何かが刻まれている。「●神宮」と刻まれ、最初の文字ははっきりとは判読できいないのだが「野」の様にも見える。兎に角、何かの神を祀っている。


山王神社 (?)

集落内に入るともう一つ神社が置かれている。元々あった石の祠を木の祠を作り、その中に納められている。この神社の情報は無いのだが、山王と書かれた木札が置かれている。山王神社なのだろうか?


山王神社の道は遍路道ですぐその先には第12番札所の岡の坊になる。ここには昨日訪れている。


今日はここまでにして安田村の隣の馬木の従兄弟を尋ねたのだが、生憎外出中で会えなかった。時間も5時を過ぎており、バス時間が迫ってきている。バスは1-2時間に一本なので、従兄弟宅には別の日に訪問する事にして福田行きのバスにて帰路に着く。



参考文献

  • 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
  • 小豆島おへんろ道案内図
  • 災害の記録 (1975 内海町)
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)