Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

懸魚

【GWT】【K暁】ある晴れた日曜日

2023.06.03 10:08


 幼い頃の記憶だ。

 雨の中、母に手を引かれている。どこからかの帰り道。歩くたびに水しぶきが飛んで、服や体が濡れるのが嫌だった。自分は、母の大きな傘からはみ出ないように、懸命に母に身を寄せていた。肌寒くて、足が疲れていて、早く帰りたいとばかり考えていた。

 けれど、繋いだ手は嬉しかった。母の手は柔らかくて大きくて、温かかった。今もかすかに脳裏に残る、遠い母との思い出。

 ………しかし、ふと思う。

 どうしてあの時、自分は傘を持っていなかったんだろう?


 *


『マレビトは生物とは言えない。彼らは呼吸も食事も睡眠もしない。そもそも肉体が無いからね。仮に眠っているように見える個体がいたとしても、そのような素振りをしているだけだ。もちろん繁殖もしないし、生と死も彼らには適応できない。動く無機物か、あるいは人間に似た形をしたひとつの現象として考えた方が理解しやすい』

 アジトを訪れて早々、暁人を出迎えたエドの熱弁がこれだ。なんの話だろうか。朝もはよから、凛子とエドの二人は小難しい話で盛り上がっていたらしい。

 穏やかな日曜日。せっつくような仕事も無く、ゆっくりと休息したり、資料の整理をしたり。『ゴーストワイヤー』の面々は思い思いの過ごし方をしているようだった。

 暁人が来た時、KKはソファに寝転んで、河童の本をアイマスク代わりにいびきをかいていた。まるっきり休日のだらしないおっさんだ。だが、いたずらしてやろうと本を取り上げてみたら、バッチリ開いた目がこちらを見上げてにやりと笑った。まんまとビックリしてしまってケラケラ笑われてしまった。

「オレに寝起きドッキリなんて百年はやいぜ」

「いつから起きてたんだよ」

「オマエが入ってきた時からだな」

「地獄耳」

 おやつを一緒に食べながら、今週あったことやアジトでの仕事について話をする。

 暁人とKKは相棒だ。生活習慣はまるで違うが、仕事となれば常に二人で行動する。二人の相性はアジト全員のお墨付きである。いざという時に最良の連携ができるように、こまめなコミュニケーションや情報共有が大事なのだ。

 話題は暁人の今週の出来事から、先日の仕事内容に移り、そして今手元にある河童の本へ。

「渋谷中の河童はあらかた捕まえた気もするが、奴ら妖怪だし、探せばまだいるんじゃねぇか?今度探しに行こうぜ」

「いやだよ。なんで僕までそんなことしなきゃいけないんだよ。それに渋谷の河童が絶滅したらどうするの?」

「別に殺してる訳じゃないだろ?捕まえるだけだ。それに河童が絶滅なんてするか?」

『そのことについて聞きたいんだが』

 唐突に背後から割り込んできた音声に、二人して肩をビクつかせた。いつの間にか側に来ていたエドが、さらにレコーダーを再生する。

『KK、河童の幼生を見たことはあるかい?』

「は?河童の妖精?」

『KKならそう言うと思ったよ。日本語はこういう時が難しい。別の単語だと、幼体だ。つまり成熟していない幼い状態のことだね』

「レコーダーで馬鹿にしやがって…おい暁人、笑うんじゃねえ」

 KKは少し考え、無いと答えた。

「そんな珍しいもんがいたら、何時間かけてでも捕まえてるよ」

「KKならやりそうだ」

 エドはしばらく考え込み、別のレコーダーを再生させる。

『マレビトの発生要因について調査する中で、彼らに成長過程があるのかと疑問に思ったんだ。マレビトがどのような経緯で生まれるかは以前説明したとおりだが、核となるエーテルと構成要素となる穢れから、あの形になるまで、つぶさに観察できたことはない。マレビトはいるだけで危険だからね』

「適当に一体捕まえてきて、解剖でもしてみるか、あるいは人工的にマレビトを発生させる実験でもしてみれば、大いに研究が進むでしょうけどね」

 和室から凛子が口を挟む。KKは反吐が喉までこみ上げてきたような顔をして、苦々しく吐き捨てた。

「悍ましいこと言いやがって。だから研究者ってのは信用ならねえんだ」

「ただの補足よ。本当にそんなことすると思う?」

「実行できるだけの資金と設備があったら、やりかねないとは思ってるぜ」

「KK。別に目くじら立てるところじゃないだろ」

 暁人が宥めると、KKは鼻を鳴らしながらも口を閉じた。やや機嫌を損ねてしまった彼の代わりに、暁人が口を開く。

「それで、マレビトのその…話が、どうして河童に?」

 エドはさらにレコーダーを再生させる。

『マレビトと妖怪はまったく異なる存在だ。マレビトが現実社会に生きる人々の感情を投影した姿をしていること、日本における妖怪に時代の風刺という側面があることを踏まえれば、ある角度からは比較が可能かもしれないけどね。だが妖怪には確かに生命と自我があり、一方マレビトは核を失えば壊れる土人形のようなものだ。』

 暁人とKKは黙ってレコーダーを聞く。再生されている間はそうするしかない。KKはすごく煙草が吸いたそうな顔をしていた。

『だが両者に類似点が全く無いかといえば、そうでもない。何故ならどちらも、冥界に属する存在だからだ。この世を生きる我々生命は、みな平等に同じ物理法則が課せられ、それに従って生命活動を行っている。それと同様に、冥界に属するものたちにも、発生・成長などに共通点があるのではないかと推測している』

 ここでレコーダーの音声が止まった。二人はしばらく待ち、エドが動かないのを確認して一息ついた。

「それで河童の幼生、か。河童の子どもがいるなら、マレビトの子どももいるんじゃないかって?」

『厳密に言えば違うが、大体そのような趣旨だ』

 KKはいかにも面倒そうにため息をつき、冷茶を一口すすった。

「早めに終わらせたいから手短に言うが、いないと思うぜ、そんなもん。あのスーツ野郎共にも妻がいて、ガキがいるってのか?土人形は繁殖なんてしねぇだろ」

 暁人は水まんじゅうを一口頬張った。エドには片手で食べられるチューブの羊羹を渡した。エドは『ありがとう』と返事をした。もしかして短い返事用のレコーダーがあるのだろうか。

『先の繰り返しになるが、マレビトは一切の生命活動をしない。もちろん繁殖もだ。当然、そのままの意味でのマレビトの幼体というものは存在しないだろう。だが、いつもキミたちが目にしている、あの姿になる前の段階があるんじゃないかと思ってるんだ』

 エドはもぐもぐと羊羹を食べながら、じっと暁人とKKを見下ろす。二人は顔を見合わせ、そろって肩を竦めた。


 ◆


 人っ子ひとり見当たらない。

 白くぼんやりとした雨のカーテンが暁人を囲んでいる。ここはどこの道だろうか。ただ立って待つべきか、歩きだしてみるべきかもわからない。

 いつになったら母は来るのだろう。

 暁人はぎゅっと傘を握りしめた。


 ◆


 午後三時過ぎ、暁人は一足早くアジトをお暇することにした。

 お昼に来てからほぼずっと、おやつを食べながらKKと駄弁っていたから、ちょっと体が固まっている。玄関で伸びをして筋肉をほぐしていると、お見送りをしてくれるKKが言った。

「晴れてよかったな」

 暁人は少し遅れて、「うん」と答えた。KKは柔らかい表情をしていた。

 今日は母の日だ。

 朝早くに家を出て、妹の麻里と一緒に、墓前に花を手向けに行った。昨日はずっと雨が降っていたが、家を出る時にはまっさらな青空になっていた。供えたのは、ピンクのカーネーション。供花としては場違いな色合いだ。けれどやはり、母への感謝を込めたものだからと、昨日麻里と二人で選んだのだ。

 母の生前は、花と一緒に、お菓子や日用品など母の好きなそうなものを贈っていた。品選びは麻里の方が得意だった。暁人はどうにも正解がわからなくて、結局当たり障りのないものを挙げては妹にダメ出しされていた。

 母が亡くなった後は、花しか贈れなくなったのが悲しかった。

 悲しみも寂しさも後悔も、当分は消えない。心の奥底で水たまりとなって、気化するにはきっと十年以上もかかるだろう。墓前にカーネーションを供えた時、暁人は泣いた。麻里も泣いていた。花を買いに行ったフラワーショップの、明るい空気にさえ胸が軋んだ。

 晴れ晴れと感謝を伝えるつもりで墓前に来たのだ。零れた涙をすぐに取り繕って、暁人は母にありがとうと言った。麻里も、しばらくしゃくり上げてから、小さな声で続いた。不格好だが、いまの二人の精一杯だった。少なくとも、兄妹で墓前に立てただけで。

 昼食は、麻里が行きたがっていた店で食べた。二人して目元を赤くしていたから、店員さんにやや気を遣われて、少し恥ずかしかったけれど。見た目にも鮮やかなランチプレート、ヘルシーなスムージー、芸術品のようなデザート。まだ涙の気配を残しつつも、麻里は喜んで写真を撮り、兄と自分も入れて撮り、嬉しそうに頬張った。暁人は一枚だけ撮って、KKに送信した。

 それから各々別れて、暁人はアジトへ赴いたのだ。着くまでに目元の赤みが引いてくれてよかった。

「オマエと妹が元気にしてるだけで、お袋さんは喜んでるよ」

「…うん」

 また目の奥がじわりと熱くなってくる。どうにも涙腺が緩くなった気がする。

 KKはちっともからかったりせずに、ぽんぽんと暁人の肩を叩いた。その思いやりが嬉しかった。


 *


 帰りがけに買い物をしたら荷物が重くなってしまった。

 今日の夕飯は張り切るつもりなのだが、ちょっとだけ奮発しすぎたかもしれない。肩と腕にのしかかる重みに音を上げて、暁人は小さな公園に立ち寄った。ビルに囲まれた、猫の額のような公園だ。

 狭くても遊び場には違いない。暁人が腰かけたベンチのすぐそこで、子どもが二人、遊んでいた。


 あーめ あーめ ふーれ ふーれ かあさんが…


 ぴちゃぴちゃと、幼い指が水たまりをいじくる。やたらめったら掻き回してみたり、ちょんちょんと波紋を生んでみたり。昨日の雨でできた水たまりだ。コンクリートで舗装された街路はすぐに水が流れてしまうが、土のある公園には深い水たまりができることもある。子どもたちには興味深いものかもしれない。

 小さい頃はなんにでも意味があった。大人のように、情報や価値や時間で取捨選択することがない。知識はまだなく、価値はわからず、時間はたんまりとあった。だからただの水たまりさえ遊び場にできた。

 僕にもああしてた頃があったかな、と暁人は小さく微笑む。

 高い声で歌いながら、子どもたちは水たまりに手を突っ込んでいる。雨水だから、見た目には澄んでいてもきれいな水ではないだろう。母親らしき女性たちは公園のすぐ外で談笑している。どうしよう、お母さんたちが見ていない間に手を口に含むようなことがあれば、声をかけた方がいいかもしれない。暁人はちょっとソワソワしつつ、子どもたちを見守る。

 子どもたちが歌っているのはあめふりの歌だ。懐かしい。


 じゃーのめーでおーむかーえ うーれしーいな


 じゃのめがなんなのかわからないまま、昔は歌っていた。蛇の目傘なんて暁人はほとんど見たことがない。きっと、それなりに古い歌なんだろう。


 ぴっち ぴっち ちゃっぷ ちゃっぷ らん らん らん


 そういえば二番以降の歌詞を知らない。急ぐ用事もない暁人はスマホを開いた。幼稚園か保育園かでちょうど習った後なのか、子どもたちは詰まることなく二番より後を歌い出した。

 なんてことはない、雨の日に母親に迎えに来てもらう歌だ。けれど、へえ、二番からってこんな展開するんだ。


 かーけまーしょ かーばんーを かーあさーんの

 あーとかーら ゆーこゆーこ かーねがーなる


 暁人が幼稚園生の頃、送迎はもっぱら園バスだった。小学校に上がれば自分で歩いて登下校したし、母に徒歩で迎えに来てもらったことはない。

 ―――はず。不意に浮かび上がった記憶があった。

 いや、一度だけ、似たようなことがあった。…多分。迎えに来てくれてたんだと思う。あの時は。雨の日の思い出だ。


 ぴっち ぴっち ちゃっぷ ちゃっぷ らん らん らん


 小さい時、雨音は今よりも大きかった。足元で跳ねる滴の音はより鮮明だった。雨の中、傘の柄を握りしめて、母を待つ時間は心細かった。暁人は昔、小さな傘を持っていた。明るい黄色の傘だ。

 けれど…確か、そうだ。母が迎えに来てくれて、手を引かれて歩いた帰り道、暁人は母の傘に入っていた。閉じたのではない。もう傘を持っていなかった。あの日以来、あの黄色い傘はなくなってしまった。

 あれ、あの傘はどうしたんだっけ。

 思い出の想起に耽って、無意識に動いた足が、ぱしゃりと水を踏んだ。

「うわっ」

 ベンチの真下に窪みがあり、水たまりができていたのだ。慌てて足をのける。靴が濡れてしまうところだった。安堵したところで、自分が雨靴を履いていることに気付いた。

「あれ?」

 雨音が近い。いつの間にか、子どもたちの歌はやんでいた。それどころかその姿も、母親たちもいない。

 ざあざあと降りしきる雨が暁人を包んでいる。ぱしゃ、と足がまた水しぶきを上げる。小さい雨靴だ。座っていたはずのベンチも無い。ボディバッグも、横に置いていた買い物袋も。手にあったスマホさえも消え、代わりに暁人の小さな手は、ぎゅっと傘の柄を握りしめていた。

 ここはどこだっけ。

 辺りは雨で煙り、なにもわからない。

 小さな暁人は、心細い気持ちで母を待った。


 *


 エドが切り出した『幼体』の話題に付き合いながら、暁人はうっすらと考えていた。

 マレビトの子どもはいないが、子どものマレビトはいる。雨童や血童だ。子どもの姿をしたあれらに母はいない。だが、マレビトを形作る穢れは人の感情から生まれる。遡ればやはり、無念や怒りを抱いた子どもたちにも親がいる。辿ることは不可能だが。

『例えば雨童だ。君たちは雨童のコアを見たことがあるかい?あるなら教えてくれ。見たなら報告してくれ。よく知っていると思うが、雨童は通常の方法では祓うことができない。他のマレビトのように体を破壊させることができないから、実際どのようにコアを内包しているのか、詳細がわかっていないんだ』

 エドは滔々と語った。

 雨童を倒す方法はひとつ。背後からの即浄だ。それも他のマレビトのようにコアを割るのではなく、印を切って浄化する。そうすれば雨童は消滅する。

『雨童がどうやって雨童となるか、確実なことは言えない。ボクはいくつか仮説を立てている。ひとつは、エーテルと結合する前の〈穢れ〉の状態で、既に子どもの形をしているのではという説だ』

 穢れは多く樹木のような形をしている。それだけでなく、幹や枝からもがいているような人間の形が浮き出ている。穢れに囚われた霊があのような形で表れるのか、それとも〈穢れ〉自体が人の感情の集合体だからなのか。

『さらにひとつは、核となるエーテルに、雪玉のように徐々に穢れが集まりマレビトとなるという説だ。この場合――』

「おいエド、この講義はあと何分で終わる?あの化け物共がどう生まれようが、オレたちがやることは結局変わらねぇ。そうだろ」

 KKは、ぐ、と暁人と肩を組んだ。KKよりは真面目に聞いていた暁人は意表を突かれるが、遮られたエドはやれやれと首を振ってまた別のレコーダーを再生した。

『マレビトがどのような状態で、どのような環境で発生するのかがわかれば、穢れがマレビトとなる前に対処することが可能になるだろう。さらにマレビトが発生しにくい、穢れが発生しにくい環境に整えることも不可能ではない』

「日本の職場環境をオマエが改善してくれるのか、頼もしいぜ」

『無論、理想はそもそも〈穢れ〉を発生させないことだ。だが感情そのものの抑制は技術的・倫理的に不可能といっていい。したがって重要なのは負の感情を〈蓄積させない〉という部分になる。そのために、発生要因とその過程を知りたいんだ』

 暁人はKKにわらび餅を差し出した。きなこと黒蜜をたっぷりまぶして、楊枝で口元まで運んでやる。

 KKは素っ頓狂な顔をしたが、ばくりと口に収め、もむもむと無言で咀嚼する。ちょっと毒気が抜かれた様子だった。

「…穢れが溜まりやすい場所ってのは、もう大体わかってるだろ。覚えてたら気にしてやるよ」

 暁人の肩に腕を回したままふんぞり返る。重いのでそれをそっと外しながら、暁人も言う。

「もし怪しいところとか、見たことない穢れとかがあったら、すぐに報告します」

『そうしてくれると助かる。仮説もデータがあってこそだ。情報は多すぎるに越したことはない』

 エドはさらにもう一本、チューブの羊羹を所望して、和室へと戻っていった。

「河童の赤ん坊から、なんだってこんな眠い話になったんだ」

「河童の子どもを探すついでだと思ったら、いいんじゃない?」

 河童の話のままならまだKKも興味を示しただろうに。暁人が言うと、KKは愉快そうに笑った。そしてもう一口、わらび餅を所望してきた。わらび餅の個包装と楊枝を渡してやり、この話題は終わった。


 *


 ざあざあと雨音ばかり。お気に入りの黄色の傘も、今はつまらなく見える。

 妹が生まれてから、母は妹にかかりきりだ。だから今日も、こんなに遅くなっているのかもしれない。ぐっと喉が詰まったような気がした。

 だったらいくらでも遅くなってしまえと、暁人はむしゃくしゃした気持ちになった。待ちぼうけをやめるようにしゃがみ込む。雨靴はすっかり泥が跳ねて汚れていて、なおのこと気持ちが沈んだ。

 ぼこぼこと地面のへこんだところに、水たまりができている。暁人はそこを覗き込んで、ばしゃりと手を突っ込んだ。いつもならこんなことをしたら注意されるだろうけれど、母はここにいないのだ。好きなように遊んでしまえ。

 ばしゃばしゃと雨水を掻き回して、底の泥を巻き上げた。指の間を土の粒子が抜け、やがて沈殿する。沈めた手の上にも薄く積もった泥を、暁人はまじまじと見つめる。そして葉っぱが漂っているのに気付くとそれを摘み上げて、てらてら光る表面や葉脈の形を観察した。

 他に面白いものは沈んでいないか。葉っぱを水に戻すと、すぐ目の前に誰かがいた。

「あれ?」

 子どもだ。暁人の真向かいに、子どもがいた。

 暁人と同じように、水たまりに指を突っ込んで、くるくる回している。いつからいたのか、全く気が付かなかった。だが遊び相手ができたことが嬉しくて、暁人はぱしゃぱしゃとその子に波を送った。すると、その子もぱしゃぱしゃと波を返してくれる。

 ひとりで待つ心細さや、母が来ない寂しさも忘れ、暁人は小さな水たまりで遊んだ。

 一緒に遊んでくれた、その子は―――どうしてか、顔や格好がよくわからなかった。ただ、暁人より小さくて、そしてあめふりなのに傘を差していなかったことは覚えている。なにを話したかも、あるいは話をしたかどうかも、覚えていない。

 水の中でその子の指に触れた。その感触や体温も、思い出せない。

 互いに飽きてきた頃合いで、その子は言った。その言葉だけは鮮明だった。


「こっち」


 そして手をそっと握られた。どっち?と暁人は聞いたが、返事はなかった。

「こっち」

 つたない声がそう言って、くいくいと暁人の手を引く。立ち上がると、濡れた二人の手から雫が垂れた。おうちが近所にあるのかな、と暁人は思った。

「こっち」

 うん、と応えようとした時、後ろの方から呼ぶ声がした。

「暁人―、あっくんー?」

 母の声だ。暁人は嬉しくなって振り返った。その拍子に手が離れる。うすぼんやりした雨の向こうに、確かに母の傘が見えた。

「おむかえきた!」

 向き直ると、その子はぽつりと立っていた。

 なんだかゆらゆらと心許なく見えた。雨の中、傘も差さずに何も言わずに、佇んでいた。暁人は思いついて、持っていた傘をその子に差し出した。

「これ、さしていいよ」

 その子は顔を上げ、しばらく暁人を見つめていた。やがて小さな手が傘を受け取って、その子は暁人の黄色い傘をぎゅっと握った。

「暁人!帰るよー」

「うん!」

 じゃあね、と手を振り、暁人は急いで母のもとに駆けた。大きな傘に入り、母にしがみつくと、なんだかほっと体が温かくなった気がした。

「あれ、暁人、傘は?」

「あげた」

「だれに?」

 あの子、と指したところには誰もいなかった。母は首をかしげていたが、お友達に貸してあげたんだね、と合点した。そして暁人の握ったところが濡れていることに気付き、あっと声を上げた。

「暁人、おてて濡れてるよ?水たまりさわった?」

 暁人はばつが悪くて黙っていた。母はもう、と呆れて、しかし冷えた体をいたわるように肩を撫でてくれた。

「待たせてごめんね」

 そして暁人の手をハンカチで拭い、そっと手を繋いでくれた。

 それからの帰り道は、寒くて、疲れていたけど、楽しかった。母の傘の下は、なにより特別に思えた。


 そうだった。思い出した。だから傘を持っていなかったんだ。

 暁人は得心がいった。

 いつかの雨の日。どこからかの帰り道。暁人がお気に入りだった傘をなくした日。

 失くしたのではない。渡したのだった。あの日出会った誰かに。一緒に水たまりで遊んだ子に。その子の印象は、まるで陽炎のようにおぼろげで、なにひとつ語ることができない。

 けれど今になって、わかることがあった。

 「うん」と応えていたら、きっと暁人は帰れなかった。

 あの子は人ではない。だが亡霊でもない。子どもの形をした、もっと曖昧なものだ。悪意は感じられなかった。だがいずれ、あのままいたら、良くないものになる。エドならあの子をなんと呼んだだろう。

 あの子は、霊よりも、影よりもあやふやなあの子は。

 KKが言っていた。子どものうちは、霊的存在を視る力が強く、その分引き込まれやすいと。あの日の暁人も、きっと危ういところだったのだ。

 もし、母が来なかったら。


 幼い暁人は、傘の下でそっと母を見上げた。花柄の傘。大きくて柔らかい手。顔の輪郭。こんなところまで、小さい頃は見つめていたんだったか。記憶にあるよりずっと若く、健康で、暁人を守ってくれる母。

 掠れた記憶の中でも、母がそこにいることが嬉しい。

 目が熱くなって、胸が苦しい。しゃくり上げそうになるのを必死でこらえた。子どもの体は我慢が難しい。

 喜ばせることもろくにできなかった。支えることもできず、あんなにやつれさせてしまった。父が亡くなって、一番しんどい思いをしたのは母だろうに。なにもできなかった。なにも。現実に正直に、真摯に向き合うことができず、最期まで母の重荷になってしまった。

 考えるほどに後悔は溢れて、不甲斐なさが心を重くしていく。

 ぎゅっと母の手を握った。

 目を瞑り、開く。自分はもう大人だ。ただ母を待ち、母に守られる子どもではない。母に胸を張れるように、しっかり前を見て生きなければいけないのだ。目を覚まさなければ。幸せな思い出でも、もう過ぎてしまって、無いものなのだから。

 そっと母の手を離す。今の自分を意識する。すると景色にノイズが混じり、白く煙る雨が、張りぼてのように倒れて暗闇へ消えていく。現実へ戻るのだ。異空間というほどではない。幻視の力によって生じた、記憶の再現だ。

 温かい記憶だった。

 雨空も景色も道も、全てが無くなり、ただ母の立つ場所だけが柔らかく白い雨で包まれている。その場所も流れるように遠くなっていく。

 小さな自分にとって、心から安心できた場所だった。涙がこぼれた。

「母さん」

 傘を差す母は、暁人へ微笑んでくれた。去っていく思い出の向こうで、母の声がした。


 おはな、ありがとね。


 *


『エーテルと穢れが結びつき、マレビトが生まれる時、彼らは既にあの姿をしているのだろうか。影法師は傘を、鉈女は鉈を、口裂は鋏を持って生まれてくるのだろうか。彼らに生命は無い。人から生まれる、自我のない土人形だ。人形ならば、はじめから姿かたちは決まっている。穢れをもっと分析することができれば、どういった感情から、どのような性質のマレビトが生まれるか、解明することもできるだろうか』

 アジトでエドは、そんなレコーダーも流していた。彼の音声記録は膨大な数だから、ひとつひとつを気にしていては切りが無いところもあるのだが。

 今、数時間前に戻れるなら、暁人はひとつエドに報告ができる。

 そっと手に何かが触れた。誰かの小さな手だ。ひんやりして、なめらかなのに、硬い。

 暁人はゆっくりを目を開く。小さな公園。ベンチ。そして、目の前で暁人の顔を窺っている誰か。

『おにーちゃん』

 ノイズが混じったようなひどい声だ。黄色いレインコート。黄色い傘。小さな手は病的なほど青白い。目線を上げれば、目と思しき虚ろな光と交わる。暁人は、この子を――いや、この存在をよく知っている。相棒と共に、もう何度も浄化した〈マレビト〉。

 雨童だ。

『こっちだよ』

 きゅっと、雨童は暁人の手を握る。暁人はまだ覚醒しきらない頭で、握られた手と、自分に触れる雨童を見やった。

 雨童の顔をまじまじと見るのは初めてだ。顔というよりも、フードに覆われた闇だ。無念や、怨念や、恨みから成る、子どもの体。マレビトに肉体は無い。彼らを構成するのはエーテルと穢れだ。

『こっち』

 雨童はしきりに手を引く。強い力ではない。ただの子どもの力だ。

 通常であれば、雨童はこちらに気付いた瞬間に逃げる。他のマレビトを大勢呼んで、どこかへ隠れてしまう。だから背後から忍び寄って片をつける必要があるのだ。けれど、この個体は暁人が気付いても、目を合わせても、逃げる素振りがなかった。

 雨童の手の質感に、記憶の中で重なるものがあった。いつかの雨の日、水たまりで一瞬だけ触れた、あの子の指。あの時はわからなかった感触が、今になって蘇る。

 水には情念が宿る。子どもはどんなところでも遊び場にする。先程見た子どもたちのように。どこにも行き場の無い雨の日に、子どもの情念が留まるのはどこか。

 白昼夢のように過去の記憶を視たのは、偶然ではなかったか。

『ねーえ、こっち』

 この子は自分に会いに来たのか。

 きゅっと手を握り返すと、雨童は嬉しそうにした。

 あの時も、この子は暁人を殺そうとしたのではない。寂しいから一緒にいてほしい、もっと遊びたい、きっとそんな気持ちで暁人の手を引いたのだ。心細くて寂しいのは、暁人も同じだった。母が来るまでは。

 けれど、暁人はもう大人だ。

 母はもういない。暁人は自分で、自分を助けることができる。暁人には力があり、その術も知っている。

 暁人はそっと御札を取り出し、印を切った。白く輝く靄が雨童の体を包む。何をされているのかわからないのか、雨童は不思議そうに暁人を見上げている。

「お迎えがきたよ」

 暁人が言うと、虚ろな目が丸くなった。

『…ほんと?』

 そして確かに、喜びに溢れて破顔したのだ。

 ぽとりと黄色い傘が落ちる。

 いづきあきと

 持ち手にはそう書かれていた。その文字を読めたのも束の間の事で、雨童と傘は、解けるように消えてしまった。

「…十年以上経って、返しにくるなんてね」

 ベンチにもたれて空を見上げる。どれくらい意識を飛ばしていたのか、もう日が暮れ始めている。水たまりで遊んでいた子どもたちも、母親たちももういなくなっていた。ベンチの下を覗いてみれば、そこには干上がった窪みがあるだけだった。

 手に持ったスマホを開くと、直前に開いていたページが目に入る。あめふりの歌だ。


 あらあら あのこは ずぶぬれだ

 やなぎの ねかたで ないている


 かあさん ぼくのを かしましょか

 きみきみ このかさ さしたまえ


 ぼくなら いいんだ かあさんの

 おおきな じゃのめに はいってく


 ついさっきまで忘れていたが、まるで自分のことのようだ。苦笑して画面を閉じる。予定に反して長居をしてしまった。早く帰らないと、夕飯が。

 ふと、足音が聞こえた。大股で歩いてくる、やや速い足音。こんな歩き方をする人を暁人はよく知っている。

「おーい、何してんだ、こんなところで」

「KK」

 ふらりと男が目の前に立つ。見慣れた立ち姿。なんだかもう、見るだけでほっとしてしまう、相棒の顔。KKはベンチにもたれる暁人を見て渋い顔をした。

「おいおい、公園で寝るなんてオレみたいなことするなよ」

「ちょっと休憩のつもりだったんだよ。それに僕にだって事情があるの」

「寝こけるのに何の事情があるってんだ」

 はーやれやれと首を振るKKは、アジトで見た時と同じ、いつものジャケット姿だ。だが、ボディバッグを身に付けていない。

「…もしかして、迎えに来てくれたの?」

 声がちょっと上ずってしまった。KKはいかにも面倒そうに文句を言う。

「先に帰ったくせに、家に戻った気配がねえからな。どこで道草食ってんだと思ったよ。ったく、迷子の暁人くんにはお迎えが必要だったみたいだな」

 まったくムカつく物言いをしてくれる。けれど、一度帰宅したのに、また暁人を探しに出てくれたのだ。これが嬉しくない訳ない。大人しくハイハイと立ち上がるふりをして、KKが油断した隙に、素早くキスをしてやった。不意を突かれたKKは目を丸くしてから、ハッと呆れて笑った。

「大胆なのは結構だが、場所考えろ」

「誰もいないよ」

「油断するなよ。ガキってのはどこから覗いてるかわかんねぇからな」

「なにそれ経験談?」

 暁人が買い物袋を持とうとすると、すかさずKKに奪われる。中をちらりと覗いたKKは、口元を綻ばせて機嫌良さげに歩き出した。そうだろうそうだろう。今日の夕飯はあんたの好物だ。

 暁人とKKは、パートナーだ。

 生活習慣はまるで違うが、帰る場所は同じだ。

 よく考えて、互いの生活と環境と将来のこともよく話し合って、二人でいると決めた。子どもの頃の自分は知りもしない人。大人になってから出会い、紆余曲折を経て、一生一緒にいたいくらい、好意を抱いたひと。

 ぶらぶら歩くKKの手を握ってみる。硬くて指先の荒れた、温かい手。KKはからかうような笑みを見せたが、ぎゅっと強く握り返してくれた。

「ねぇ、KK。僕って大人だよね」

「なぁに子どもみてぇなこと言ってんだよ、暁人くんは」

 ぶらぶらとKKは繋いだ手を振り回す。あんただって子どもみたいだぞ、と笑い、並んで帰路につく。

「あ、そうだ。KK、僕、エドに良い報告ができるかもしれない」

「あ?…河童の子どもを見つけたのか?先にオレに言えよ」

「いやそっちじゃなくてね」

 そして暁人は、恋人に語る。小さい頃の思い出のこと、お気に入りだった傘のこと、一緒に遊んだ雨童のこと。

 ある晴れた日曜日のことだった。