あるがままの出来事を受け入れる
Facebook清水 友邦さん投稿記事
心の痛みは、心の全体性を取り戻そうとするときに起こるので、否定したり、逃げたりせずに、そのプロセスを経過することができれば、自己の枠組みが広がります。
心の痛みは、本質に気づくきっかけになります。
見るなと言われたのに見てしまう物語が、世界中の神話に出てきます。
日本神話のイザナギは、妻のイザナミの「けっして私を見ないでください」の誓いを破って、イザナミの腐乱死体を見て逃げてしまいました。
人は強い恐怖感を伴う体験をすると、直面しないでそこから逃げることで、心理的ショックを回復しようとします。
あまりにも妻のおぞましい姿を見て、無自覚にも反射的に逃げしまったイザナギでしたが、そこで逃げないで立ち止まり、時間をかけて、妻の死を受容して、自分の内側に沸き起こる、あらゆる矛盾や否定的な感情を受け入れたならば、「恥をかかされた」とイザナミも怒ることなく癒されたでしょう。
自我はあるがままの出来事を受け入れることができません。
思考の物語に逃げ込み、今ここにいられないのです。
死者の遺体が腐敗・白骨化して霊魂が地上から離れるまでの期間を殯(もがり)といいます。
心理的には、死による喪失感が癒されるまでの期間となります。
もし悲しみを心に閉じ込めて逃げてしまえば、殯(もがり)が終わらないことになってしまいます。
母親は、優しい慈愛の母と不機嫌な鬼の母の、二面性をもっています。
母親は、自覚のないままに感情的になって、子供を傷つけてしまうことがあります。
傷つけられた子供に、母親にたいする憎しみが生まれると愛する対象を憎むという葛藤に、さいなまれることになります。
母親にたいする否定的な感情が生じると、それが罪悪感となって心に痛みが生じるのです。
母親への愛の中に怒りを混入させたまま、大人になり恋愛に傷つき、愛が冷めて終わりを告げるときに、愛は憎しみと怒りに変わります。
その人は愛と憎しみの両極の間で揺れ動き、関係性の中で苦しむ事になります。
生きることは喜怒哀楽の連続で、生老病死は誰も避けることができませんが、人間が成長するために乗りこえなければならないものとの理解が生まれると、すべての否定的な経験を肯定的に捉えることができます。
心の痛みは心の全体性を取り戻そうとするときに起こるので、否定したり、逃げたりせずにそのプロセスを経過することができれば自己の枠組みが広がります。
心の痛みは本質に気づくきっかけになります。
精神的な危機を乗り越えて回復する能力を、すべての人間は潜在的に持っています。
その鍵は恐怖や不安、悲哀から反射的に逃げて今ここにいられない自我に同化することをやめて
本当の自分(あるがままに見守っている自己)に気づくことができるかどうかにかかっています。
************** 古事記 *************
火の神のホノカグツチ(火之迦具土神)の神を産んだ後、イザナミは陰部を大火傷して病気になり、しばらくして亡くなってしまいました。
イザナギは嘆き悲しみ、ホノカグツチを恨んで十拳剣(トツカノツルギ)でその首を斬り落としてしまいます。
どうしても死んでしまった愛妻にもう一度逢いたくなったイザナギは死者がいる黄泉国を訪ねました。
『是に、其の妹伊耶那美命を相見むと欲ほして、黄泉国に追ひ徃きき。
尒して、殿の縢戸より出で向かへし時に、伊耶那岐命語りて詔りたまはく、「愛しき我が那迩妹命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまふ。』古事記原文
「どうか帰ってほしい」と訴える夫イザナギに妻のイザナミは「帰れるようになんとか黄泉の神様に相談してみましょう。その間どうか私を見ないでください。」と言い残して奥に消えていきました。
妻がなかなか戻ってこないので、しびれを切らしたイザナギは約束を破ってとうとう禁止された奥を覗き見してしまいます。
禁止されるとしたくなる衝動欲求を心理的リアクタンスといいます。
イザナミの体は腐乱して、たくさんの蛆虫がたかり、頭、胸、腹には雷神がいました。
神話のイザナミは優しい母性と怖い母性の二面性をもっています。
イザナギは、変わり果てた 妻の姿に恐怖して逃げると、イザナミは「よくも恥をかかせたわね」と怒って黄泉醜女(よもつしこめ)にイザナギを追いかけせました。
黄泉醜女(よもつしこめ)からイザナギは何とか逃げましたが、次にイザナミの体から出た1500人の黄泉の軍隊が追いかけてきました。
イザナギは十拳剣(トツカノツルギ)を振るい蔓(つる)の髪飾り、櫛、などを次々と投げ捨てて黄泉比良坂(よもつひらさか)まで辿りつきました。
神話の英雄は冒険の旅でしばしば恐怖、怒りの感情を表し復讐や戦いの中で「最大の試練」を迎えます。
最後の難関で邪悪な怪物に追い詰められますが手に入れた魔法のアイテムを使い追跡をかわし危機を脱出します。
これは神話の構造でマジックフライト(呪的逃走)と呼ばれ映画の脚本に応用されています。
イザナギが黄泉比良坂に成っていた桃の実を三つ投げ捨てると追っ手は黄泉の国へ逃げ帰りました。
そこでイザナギは「葦原の中つ国(人間の住む世界)の人間たちが、つらいことや苦しいめにあった時に私と同じように助けてやってほしい。」と桃の実にオホカムヅミ(意富加牟豆美命)と名を授けました。
やっとの思いで黄泉の国を脱出したイザナギは、千引(ちびき)岩(千人でやっと引き動かすことのできる大きな石)で出口をふさいでイザナミに離別を言い渡しました。
「あなたが、このようなことをされるのならば、わたしは一日にあなたの国の人たちを千人殺しましょう。」とイザナミがいうと
「あなたがそうするなら、わたしは、一日に千五百の産屋(出産のために建てる家)を建てましょう。」とイザナギがいいました。
地上世界と根の国の境、この世とあの世の境目にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の場所は日本書紀と出雲風土記によると島根県松江市東出雲町揖屋に鎮座する揖夜神社(いやじんじゃ)あたりが伝承地とされています。
松江に滞在中は毎日晴れていましたが揖夜神社(いやじんじゃ)参拝の日は大雨で注意報が出ていました。ところが揖夜神社(いやじんじゃ)と黄泉比良坂に到着した時間だけ都合よく雨が止んでくれたのです。参拝が終わると又雨が激しく降ったのを覚えています。