作法とは相手を考えたら自然
小さな座敷でしたので、右手と左手に並んでお座りになられたら
前を横切り向こうの人にお料理や飲み物をお出しできないですよね?
また背を向けるようになんてもってのほかで、からだを開いて 左から出さねばならない時は左手で左からお出しする。お一人づつ間隔をとってお座りならいいが、たいていお二人セットに座られる時自然そうしていた。
ふと「わりをきらう」と席でおっしゃられた方がいらした。
識者でいらっしゃるなあとつくづくに尊敬し
同時に背が伸びる思いがしたものでした。
こうして 思えば折々でお客様から育てていただいたように思います。
さまざまに造詣深く その上でさらりと楽しまれる大人達先輩方が多くいらしていただいてご贔屓くださって頂けたことは(なぜか)
今も何よりの宝物です。
その方々に失礼のないように、また少しでも恥ずかしくない程の識を積むことがひいては店の有り様に繋がると多分人生で一番勉強した時期でもありました。(まだまだまだまだで今もこれからもそれは続くでしょう)
先達がそしてそれはどの分野であっても結局つまるところ
お相手を考え、余計をそぎ落としての振舞いおこないを作法というマニュアルにし、そもそも未熟で無作法な存在に「感じよ、考えよ」と伝えてくれたのだろうと思います。
これだけグローバルになり、コモンセンスが全く違う背景を持つもの同士が入り混じる今ではなかなか一つとはいかないものの、
感じ考え 相手の背景を学びおもんばかれる意識があれば、そうした現代も生きやすくなるでしょうし、そうした他者をおもんばかる経験を積み、しばしば失敗もする。
それこそが現代こそ必要かもしれないな と思います。
思えばよく叱られました。それは大人になっても。先ほど書いたご贔屓の方々は叱ってくださる方ほど長くご贔屓いただいたなと思います。
最近は「叱られる」と自己否定と受け止め萎縮する傾向がありますが、叱られるってすごいラッキーなことです。特に大人になってそんなにも自分を思ってくれるって少ないではありませんか。
なのに一括りにハラスメントにくくられる。
まあ怒鳴ったり、感情的になるのは違いますね。昔の私も感情的な物言いだったように思います。反省。感情が伴わないために一呼吸置くようになりましたが(齢経てくると)
そうした人間ができていれば、もっと正しく伝わったことでしょう。
あ
また自省へと話がそれてしまいましたな。
いつまでも 感じよ 考えよ と言い聞かせていきたいと。すると自然に環境も良くなっていくことでしょう。