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小名木川

2023.06.04 12:15

https://note.com/honno_hitotoki/n/n9310b97c4d52 【川上とこの川しもや月の友|芭蕉の風景】より

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

川上とこの川しもや月の友とも 芭蕉

小名木川は運河

 掲出句は芭蕉没後刊行された俳諧撰集『続猿蓑』に収録されている。『続猿蓑』掲載の句は、門弟支考の助力を得ながら、芭蕉自身が生前選句したと考えられている。「月」という季語は「雪月花」の内の一つ。季語の世界を代表する重い季語である「月」を用いた芭蕉の自信作であった。

 前書には、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」とある。元禄六年陰暦八月十五日、名月の夜、芭蕉は、芭蕉庵から小名木おなぎ川がわに船を出す。深川の外れ、五本松というところで、船を止めて、川の上で、月を楽しんだ。

「月の友」とは、月を楽しむ風雅の友の意。句意は「川上と川下に月の友がいる。二人は直接会ってはいないが、一筋の川に沿って、ともに名月を眺め、思い合うことで、会う以上に思いが通じ合っている」。

 梅雨明け近い一日、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄新宿線住吉駅下車。地下鉄出口を出ると、梅雨の晴れ間で暑い。芭蕉の句を訪ねる旅を長く続けているが、このような繁華な場所を歩くのは珍しいことである。人通りも交通量もかなり多い。四ツ目通りを十分程、南下する。大きなスーパーマーケットがあって、ホームセンターがあって、小名木川に出る。

 橋の名は小名木川橋。橋の側面には、「五本松」と打ち出した金属板と、広重筆の浮世絵「名所江戸百景」の「小奈木川五本まつ」の図をレリーフとしたものが、はめ込んである。広重が描いた「五本松」は川面へと張り出す立派な松である。芭蕉はこの松越しに、名月を楽しんだわけだ。

 今日は深川在住の友人、S君に案内を頼んだ。彼によれば、小名木川は自然の川ではないそうだ。徳川家康が千葉県行徳産の塩を江戸に運ぶために、隅田川と旧中川とを結んで作った運河だと教えてもらう。運河なので、流れが激しくない。それで、芭蕉は月下の船遊びをゆっくり楽しむことができたのだ。橋の近くに木材を積んだ船が停泊していた。今でもこの川の運輸機能は生きている。現在は水位を調整する閘門こうもんが設けられているため、水が動いているようには見えない。

 芭蕉は旧中川の方向を川上、自分の庵があった隅田川の方向を川下と考えているのだろう。あるいは、川上も川下もない運河において、「川上とこの川下や」と詠むことに、俳意、おもしろみがあったのかもしれない。

友二人を結ぶ光の線

 掲出句の「この川下」の「月の友」とは芭蕉自身のことである。それでは、川上の友とは誰か。評論家山本健吉によれば、門弟の桐奚とうけいか利合りごう、あるいは葛飾に住んでいた友人、山口素堂そどうかもしれないという。月の夜、船で友を訪ねるのは風雅なことだ。が、友だちをいたずらに騒がすことはせず、それぞれ静かに月を見て、酒を酌んで、友を思うというのはもっと風雅なことである。芭蕉はあえて友を訪ねないことを選んだ。友情のきわみが描かれていると言っていい。唐代の詩人、白楽天の詩句、「雪月花の時最も君を憶ふ」をまさに踏まえた一句なのだ。掲出句の景を天から見下ろすと、月の光を反射している一筋の川が見える。その光の線が二人の友人をつないでいることになる。

 五本松は小名木川北岸、かつて丹波綾部(現在の京都府綾部市)藩の九鬼家の下屋敷の庭から生えていたという。明治になって、屋敷跡地にセメント工場ができ、工場の煤煙のために、名木は弱り、ついには枯れてしまった。橋のたもとに、失われた五本松を懐しんで、黒松が植えられている。まだ小さいが、これから名木に育っていくのだろう。木の肌に触れてみると、夏の日に照らされて、熱くなっていた。

 河岸のコンクリートの上に、燃え残りの線香をたくさん見つけた。S君によれば、この川は関東大震災、東京大空襲の惨事の場所でもあったとのことだ。大火に追われてこの川に飛び込み、命を失った多くの方がいたのだ。線香は遺族の方が新暦の盆に手向けたものであった。

 川の岸には蔦が茂っている。葦も青々と育っている。緑が豊かである。河辺を白鷺がゆっくりと歩いている。川を見ているかぎりでは、都会にいることを忘れてしまうほどだ。S君はこの川で釣りをすることもあるという。運がいいと、ハゼやスズキが釣れるとのことだ。

 深川は芭蕉が庵を結んだ地ということで、小学生の俳句大会が開かれているそうだ。S君はPТAの副会長として、小学生を連れて芭蕉生誕地の伊賀上野を訪ねて交流会を行ったこともあるという。芭蕉は現在もひととひととを結びつけている。

黒松の木肌灼けたり小名木川 實

風に消え線香のこる夏の川


https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-283.html 【小名木川五本松跡/五百羅漢道標】より

 小名木川橋の欄干に五本松と小名木川を描いたレリーフがあります。

 芭蕉もここで句を残しています。 「川上とこの川下や月の友」  この句碑は、江東区芭蕉記念館と芭蕉庵史跡展望公園にあります。

 松尾芭蕉は延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番 小木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。

  平成24年3月吉日」

<石柱説明>

「江戸時代この付近から東にかけて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり地名ともなったほどであってその一本の松が九鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった」

<江戸名所図会>

 「深川の末、五本松といふところに船をさして 川上とこの川下や月の友 芭蕉」

 満月が描かれています。

<絵本江戸土産>

 絵本江戸土産は安藤広重等が描いています。

 「小名木川 五本松

  此松ハかの千年の老松花橘ともいふへきものか 実に稀代の名木なり」

<五本松雨月>

 小林清親と井上安治が「五本松雨月」を描いています。

<五百羅漢道標 文化2年銘>

「五百羅漢道標

 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。

 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保一六年(一七三一)、寛政九年(一七九七)、文化二年(一八〇五)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化二年に再建されたものです。

 五百羅漢寺とは、明治二〇年(一八八七)まで現在の大島四-五付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された五三六体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。

 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。

 平成十九年三月 江東区教育委員会」