6月4日 主日礼拝
6月4日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書23章1〜12節
イエスは律法学者、ファリサイ派の人々を手厳しく批判する。
彼らの何が悪いのか。
彼らは一体、何をしたのか。
ファリサイ派、律法学者。
彼らの性格を端的に表すならば、聖書を大切にしていた人々になる。
聖書を大切にする。
それのどこがいけないのか。
主イエスに言わせると彼らは人のことばかりを気にしている。
人の評価ばかりを気にしている、と言われている。
だが、これのどこがいけないのか。
私たちの仕事は人に評価をされなければ成り立たない。
人の嗜好、価値観、それに配慮をして生きることが人の振る舞いなのではないか。
ファリサイ派とイエス。
これまでも度々、衝突をしてきた。
それはイエスが律法に記されていることを守らないから。
守らないで、自分の方が神を分かっていると、主張するから。
間違ったことをしておいて、開き直るイエス。
ファリサイ派にとっては慇懃無礼この上ない人物と映っていた。
イエスはファリサイ派を批判する。
この批判を私たちは納得ができるのか。
聖書を大切にしている。
人の評価を大事にしている。
正しいことを守ろうとしている。
これのどこがいけないのか。
おかしいのはむしろイエス様の方でないのか。
ファリサイ派、私たち、なぜ聖書を大切にしているのか。
信仰が大事というが、大事にしないと何が起こると思っているのか。
聖書を大切にしないとどうなると思っているのか。
人の評価が大切だと思っている私たち。
人に評価をされないと何が起こると思っているのか。
正しい答えを選択しなければならないと思っている私たち。
正しい答えを選択しない、間違った答えを選んだらどうなると思っているのか。
悪いことが起こる。
自分のこれまでの苦労が泡になる。
幸福が自分の手からこぼれ落ちてしまう。
ここにある世界観は何か。
この世界は悪い。
気を抜けば世界の本質である「悪」に飲み込まれてしまう。
暗い闇で溺れてしまう。
闇にに飲み込まれないために、
悪に支配されないために
神様に助けてもらおう。
人に評価をして少しでも高いところに避難しよう。
正しい答えを選択して明るいところに逃れていこう。
闇に飲み込まれないようにしよう。
この世界は闇でできているから。
ファリサイ派、私たちの世界観。
イエスはこれを否定する。
この世界は神が造った。
ならば、暗いはずがない。
この世界は明るい。
平安に満ちている。
明るい場所にいるのに、どうして神に助けてもらおうと考えるのか。
信じるものは救われる。
地獄に垂らされた命綱を信仰と言うのではない。
世界は暗いとしか感じられない自分の世界観の外に本当の明るい世界がある。
本当の世界は明るいもの。
自分は今、その世界にいる。
神の造った世界がここにある、と認める。
それを信仰と言う。
明るい世界にいると信じる。
信じられれば世界観が変わる。
自分の現実、未来の描き方が変わる。
それを救いと言う。
世界は明るい。
その世界観との出会いを「信じるものは救われる」と表現する。
人の評価も、正しい答えも、世界が明るいのならば、どちらでも良い話。
イエスは「人の評価」「正しい答え」を否定するのではない。
それはそれで大切にして良い。
ただ、世界が暗いと思い出すと、それにしがみつく。
執着、固執をする。
その力みがおかしいと言う。
明るい世界にいるのにどうして力むのか。
人の記憶は生命を維持するために危険なこと、恐ろしいことを蓄積されるようにできている。
悪いことを忘れないようにプログラムされている。
だが、それが世界の真実か。
世界が本当に苦しんだ時、
被災する、戦禍に巻き込まれる、
その時、人がどれほど助け合ってきたのか、その記録はいくらでもある。
世界が明るい証拠はいくらでもある。
なのに人は世界は暗いと思い込む。
私の脳が世界の在り方を曇らせている。
悔い改めて福音を信じる。
脳の記憶から開放され世界の在り方を見つめ直す。
世界を正しく見つめる自分になる。
世界は明るい。
私に世界はそう見えているか。