令和5年5月度 御報恩御講 住職法話
『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』
「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給(たも)ふべし。日蓮と同意ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか。地涌(じゆ)の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊(しゃくそん)久遠(くおん)の弟子たる事あに疑はんや。経に云(い)はく「我久遠(くおん)より来(このかた)是等(これら)の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めん者は男女はきらふべからず、皆地涌(じゆ)の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり。」
(御書666㌻14行目~17行目)
南無妙法蓮華経
------------------------------------------------------------------------
【背景と対告衆】
本抄は、文永10(1237)年5月17日、日蓮大聖人様52歳の御時、佐渡(さど)一谷(いちのさわ)の配所(はいしょ)において認(したた)められ、天台宗の元学僧で大聖人様に帰伏した最蓮房日浄(さいれんぼうにちじょう)(※)に与えられた書です。
内容は、最蓮房から法華経『方便品(ほうべんぽん)』の「諸法実相(しょほうじっそう)」についての質問があり、諸法実相について「万法(ばんぽう)の当体(とうたい)のすがたが妙法蓮華経の当体(とうたい)なり」(諸法実相抄665㌻)と示され、次にその妙法を末法に入って上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の再誕である大聖人様が初めて説き明かすと仰せられています。
【拝読御書】
拝読の御文は、大聖人様に同意して妙法を弘める者の深い因縁を明示されます。次いで、大聖人様お一人から二人、三人、百人と次第に唱え伝える広宣流布の実相を示され、最後に最蓮房に対して、一閻浮提第一の御本尊様を持ち信行学に励み、折伏の実践に精進するよう督励し、本抄を結ばれています。
【対告衆】 最蓮房日浄
もとは天台宗の学僧であり、いかなる理由からか佐渡に流罪されていたが、文永9年(1272)2月初め、佐渡遠流(おんる)の身となった日蓮大聖人の尊容に触れて帰伏した。法門の信解に秀(ひい)でており、大聖人から『生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけつみゃくしょう)』『草木成仏口決(そうもくじょうぶつくけつ)』『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』『当体義抄(とうたいぎしょう)』『立正観抄(りっしょうかんしょう)』『十八円満抄(じゅうはちえんまんしょう)』などの重要な法門書を賜っている。(法華講員の教学基礎辞典279㌻)
------------------------------------------------------------------------------
【御文拝読】
いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給(たも)ふべし。日蓮と同意ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか。地涌(じゆ)の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊久遠(くおん)の弟子たる事あに疑はんや。経に云(い)はく「我久遠(くおん)より来(このかた)是等(これら)の衆を教化(きょうけ)す」とは是(これ)なり。
〔語句の解説〕
法華経の行者…法華経の教説のままに修行する人をいう。大聖人様は御自身を「日本第一の法華経の行者」(寂日房御書1393㌻)とも「教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)より大事(だいじ)なる行者」(下山御消息1159㌻)とも仰せである。総じては妙法を実践修行する者、別しては末法の御本仏の異名と拝する。
地涌(じゆ)の菩薩…法華経『従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五』において大地より涌出した、上行菩薩を上首(じょうしゅ)とする六万恒河沙(ろくまんごうがしゃ)の菩薩のこと。なかでも上行菩薩は法華経『如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一』において釈尊より結要付嘱(けっちょうふぞく)を受け、末法の弘通を一身に託された。大聖人様は竜口(たつのくち)法難において、上行菩薩の再誕・凡夫(ぼんぷ)日蓮としての迹身(しゃくしん)を払い、久遠元初の本仏としての本地・内証を開顕された。
経に云はく…法華経『従地涌出品第十五』(法華経422㌻)
〔通 釈〕
なんとしてもこの度は信心をいたして法華経の行者となり、日蓮の一門となり通すべきである。日蓮と同意であるならば地涌の菩薩に違いない。地涌の菩薩であると定まったならば、釈尊久遠の弟子であることを、どうして疑うことができようか。法華経に「我(釈尊)は久遠以来、これらの(地涌の菩薩)衆を教え導いてきた」と説かれているのはこのことである。
〔解 釈〕
ここでは、末法時代の衆生は、仏様に一度も縁したことがない本未有善(ほんみうぜん)の衆生ゆえにそのままでは罪障消滅はおろか即身成仏を得ることはできません。しかし大聖人様は「日蓮と同意ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか」と仰せられ、更に法華経『従地涌出品第十五』の経文を引かれて、法華経の行者である大聖人様の弟子檀那となれば、その者は釈尊久遠の弟子たる地涌の菩薩の眷属(けんぞく)であり、本未有善より本已有善(ほんいうぜん)の衆生即ち罪障消滅及び即身成仏を得る衆生へと成れると仰せられています。これ故に「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給(たも)ふべし」と、なんとしても大聖人様の弟子檀那となるよう努めることを勧められています。
------------------------------------------------------------------------------
【御文拝読】
末法にして妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めん者は男女はきらふべからず、皆地涌(じゆ)の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり。
〔通 釈〕
末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の別なく、皆地涌の菩薩として出現した者であり、そうでなければ唱えることのできない題目なのである。
〔解 釈〕
ここでは、末法時代に妙法蓮華経の五字を弘通(ぐずう)する者は、男女及び老若男女とも関係なく、みんな地涌の菩薩の眷属であると示され、法華経の行者即ち御本仏大聖人様の弟子であるが故に、信じ難く解しがたい妙法蓮華経の教えを信解し、弘めがたい妙法蓮華経の教えを弘めることができると仰せられています。
------------------------------------------------------------------------------
【御妙判を拝して】
拝読御妙判では、先ず末法時代に生を受けた我々が、過去に一度も仏様に縁したことが無い本未有善の衆生ゆえに罪障消滅も即身成仏もできない衆生であることを示され、次に本未有善の我々が末法時代に御出現された法華経の行者に帰依信心すれば、釈尊久遠の弟子たる地涌の菩薩の眷属と成ることができ、本已有善の衆生と成れ、罪障消滅も即身成仏も叶えることができることを示されています。この変化(へんげ)について御先師日顯上人は「初めは本未有善として全く仏法に縁のない末法の衆生が、妙法を受持し、題目を唱え、折伏を行ずるとき、地涌の菩薩の命に生まれ変わる。したがって、久遠以来、妙法を行ずる清浄な地涌の徳がそのまま、その者の命となり、久遠以来の妙徳が生ずる。これが、妙法の不思議な功徳なのである」(『すべては唱題から』41㌻)と甚深の意義を御指南されています。
この地涌の菩薩の眷属とは、法華経の行者日蓮大聖人様の弟子檀那であり、即ち大聖人様の自行化他の信心を正直に行じる者なのです。この自行化他の信心を行う中では様々な魔の障害・魔の妨害が正法であるが故に起こってきます。この魔の用きに打ち勝つためにどうすればよいのか。御法主日如上人猊下は「我々一人ひとりが『地涌の流類』であるという確信を持つことが大切なのです。この確信があれば、あらゆる難も乗り越えていけるのです」(『折伏要文』143㌻)と、一人ひとりが、末法時代の御本仏様の弟子である自覚を、確信を持ち、地涌の菩薩の眷属・地涌の流類であることを強く意識し、努めていけば魔の用きに打ち勝ち、否や魔が退散していくと御指南されています。また日如上人は「我々が広宣流布の戦いをしていけば、この先、いかなることがあるか判りません。しかし、それを大御本尊様への絶対の信をもって乗りきっていくところに、私達の一生成仏があるわけであります」(『大日蓮』令和4年9月号)とも御指南されています。
結論的に言えば、我々が本未有善より本已有善の衆生へ変わり、そして罪障消滅と即身成仏の大願を叶えるためには、一人ひとりが末法出現の御本仏様の弟子である自覚。そして弟子としていかなる仏道修行に励むか。これが大事であるということです。
御妙判を拝したみなさんには、この甚深の意義を正直に拝し、そして正直に仰せのままに仏道修行に練磨されて、罪障消滅をなし、更には即身成仏の大願を果たすよう努めて行きましょう!
以 上