28 伊勢国の災害
#28
図1 伊勢志摩地域災害概略図(国土地理院地図加工)
浅間信仰の背景となった、旧伊勢国、神宮領、志摩国における自然災害について、今一度確認しておきたい。
この地域は、他地域に比べ突発的に発生する災害に特色があり、思いもよらない大災害は、被災者の心情を強く傷つけたと思われる。災害による心の痛みが、浅間信仰を広めた理由ともいえる。この地に住んだ人々は、古代からの贄国(みけつくに)の歴史からも分かるように、海や山からの自然の恵みを多く受けた。その一方で、自然の脅威も身近に感じることが多かったのである。(図1)
①熊野灘沿岸 ⇒ 津波・大潮
②宮川水系流域 ⇒ 河川氾濫・洪水
③宮川以北の平野部 ⇒ 干ばつ
【①熊野灘沿岸地域における津波と多雨】
グーグル図は、浅間さんと津波避難所との重複を、黄色アイコンで示している。津波避難所の位置は、志摩市・南伊勢町の発行するハザードマップに準じている。津波避難所は、地域住民の自治会などが、一定の基準を満たした上で、任意で選定している。浅間さんが、津波を意識して奉られていることは明らかである。
外洋に面する熊野灘沿岸地域については言うまでもなく、南海トラフによる巨大地震の発生が今現在も警戒されており、研究によれば有史以降の記録からだけでも、およそ150年毎に大地震が繰り返され、それに伴う津波により甚大な被害を受けていることが分かっている。理科年表を一覧する限り、それ以外の津波も、この地方を度々襲っていることが分かる。これまでに、津波における災害だけでも、数え切れない人命が失われていると思われる。
鳥羽市国崎では、江戸末期に記録的な高さの津波を受け、わが国で初めての津波による居住地の高地移転を行っているし、志摩市の大王町船越は、半島の付け根に位置し、村の前後に海が迫っているため、元の地名を「大津波」(おおつば)、変更した名前も船が津波によって前浜から後浜に運ばれたことから「船越」となっている。また、南伊勢町古和浦の座佐池と大紀町錦浦の芦浜池の地層からは、約2000年前の津波で運ばれた砂の層が発見され、その厚さは他の年代の地震層の数倍と記録がでている。他県に限らず、100ヶ所以上残る津波碑が、津波災害の歴史を後世に伝えているのは勿論である。
また、三重県南部地域、特に尾鷲における多雨についても、台風、熱帯低気圧の通り道である熊野灘海上からの湿った空気が、大台ケ原を中心とした紀州山地に当たって大量の雨を降らせ、その雨量が国内有数であることは学校でも習った通りである。この地域の人々は、大雨による山地崩落や、鉄砲水、土石流、浸水、高浪等で言い尽くせない苦労の歴史を重ねてきている。
【②宮川水系の河川氾濫】
図2 宮川下流流跡図(神宮文庫)
現在、外宮のある大倉山の横を通る宮川は、前述した日本有数の多雨地帯である大台ケ原を水源に持ち、さらに河口に至る距離は他の一級河川に比べ極端に短いため、昭和31年(1956)に宮川ダムが完成するまで、抜本的な対策が非常に難しい暴れ川だった。大雨があると、山間地から伊勢平野に出た宮川は、一気に平野部を水浸しにした(図2)。また、宮川は神宮領と伊勢国・紀州藩などの境界に当たり、それが制度上の治水行政を困難なものにしていた。
古い記録では、717年の神宮の記録に、洪水で祭り事に支障が出たことが記録されいるし、度重なる氾濫に外宮自体を守護するため、1128年には地元山田原の鎮守の神だった土宮を、宮川氾濫を防ぐ守護神として別宮に加列している。神宮専属の奉行である山田奉行によって何度も行われた堰堤築造には、豊臣秀吉も参加した。紀州藩は、川の蛇行を直線化する紀州工法と呼ばれた先端の治水技術を持つ藩だったが、それも活かされなかった。
人的物的な被害は目を覆わんばかりの歴史であり、人々は苦しみ抜いた末に、浅間堰堤に人柱を立てた。その話は、昔の教科書には記されていたこともあったらしいが、余りに過酷な記録であるために消滅したようである。宮川ダムや近代的な堤防が完成したのは、ついこの百年以内であるが、もうすでに災害の忘却が始まっていることも記しておく。
【③宮川以北洪積台地の干ばつ災害】
図3 多気郡玉城町の溜め池が並ぶ伊勢道沿い(国土地理院)
多気郡から松阪市にいたる地域の溜め池の数をみれば、いかにこの地域の人々が水不足に苦しんだかが分かる(図3)。浅間山、大日山の名も見れる図に示した地区は、溜め池が多い地域のほんの一部を切り取ったに過ぎない。
宮川や櫛田川は、時に大洪水を招いたが、その一方で山から大量の土砂を運び平地にそれを高く堆積させた。この地域の平野形成はこのように行われたが、前述したように宮川は河口までの距離が短く、紀州山地から流れ出た急激な水流落下は、川底を削り水面を大きく低下させていた。高い洪積台地と、低い水面は、農業用水の取水を非常に困難にしていたのである。大雨が降れば人の命までも奪い、農地を破壊する洪水を招き、平常時はその水を使わせなかったのが宮川だったのである。
図の一番左は、溜め池築造の為に25軒の集団移転が行われた多気町の五桂池である。集団移転といっても簡単なものではなく、まず生まれ育った場所を去ること、それまでの祖先から引き継いできた自分の耕した農地が奪われること、移転先が用意されているわけではなく、各家がバラバラの場所に移転すること、そして移転先では自身の土地は限られ習慣に慣れず融和できない生活が待っていることなど事態は深刻だったと思われる。
図の下部にカーブする宮川が映るが、この地点での宮川の通常水位は田畑から10メートル以上も下にあり、近代以降のポンプ設備がなければ取水は難しかった。ここから東に向った山間地域である多気町勢和地域では、同じく櫛田川の水位が低かったため、江戸期に実に30キロメートルもの灌漑用水(立梅用水)を、27万人もの延べ人数を使った人力で作っており、上流の粥見町には取水施設が、下流の丹生大師地区には素掘りのトンネルが現在も用水設備として機能している。
松阪市の宝塚古墳から湧水施設を模した埴輪が出土していることからも、この地域の水不足、干ばつ災害は古代から地域住民を悩ませていたことが分かるし、近世からの検地により一層農民の負担は増し、取水の厳しい掟に耐えかねた農民同士の争いは人命を奪う事態を招くことも珍しくなかった歴史は前回も述べた。
【小結・災害と浅間信仰】
「富士浅間災害神曼陀羅」(筆者製作イメージ図)
日本書紀では、天孫ニニギノミコトが天下る前の葦原中国には、「蛍火のように輝く神や、蠅のように騒がしい良くない神がいる。また草木もみなよく物をいう」、とされた。
もともと伊勢は熊野信仰にも近く、先史からアミニズムが浸透していたこともあっただろう。このような自然災害は、伊勢志摩の人たちを、自然の変化にとても敏感な感性を持った人間にしたのではないだろうか。被災した人たちは、自然を悪神として憎みもした。だが、その憎んだ悪神を慰霊することで、善神に転化した。日本の神は常に善悪の両面的正確を持っている。そして、善神とした自然神を信仰することで、死者を鎮魂し災害という厄を祓った。自然はもともと、糧となる恵みも与えてくれたのである。
志摩地域の浅間さんが現在設置されている津波避難所と多くが重複していることや、遠く静岡県掛川市にあり安倍清明に由来する津波伝承を持つ津波塚と鳥羽市国崎の浅間さんとがその風習を同一にしていること、そして伊勢を流れる宮川には洪水災害を守る浅間堤防が現存すること、また近世の記録だが、甲賀市水口町北内貴の川田神社に残る浅間さんに関する古文書には、大干ばつのあった明和七年(1770)、雨乞いの返礼としてに二人の村人が富士浅間神社に代参を行っている記録が残っており、災害と浅間信仰との関連は具体的な事例に示されている。
伊勢志摩の人々は大いなる自然神の大王として、噴煙を上げる200キロ先の特別の山、浅間山富士火山を敬った。それ以前から山は神の住む場所として信仰していたが、富士はその山の中でも抜きん出た存在だった。夜明け前に稀にしか見ることができないことが、なおさら富士拝礼を貴重なものとした。現在も残る、富士山と夏至の太陽を指す、伊勢神宮・二見浦の二等辺三角形と、この地域に広がる富士信仰、浅間さんは、その信仰の過去を伝える痕跡なのである。
引用・参考文献
・岡村眞・松岡裕美(高知大学理学部)「津波堆積物から分かる南海地震之繰り返し」
岩波書店・科学、2012年
・「鳥羽市史」鳥羽市歴史編さん室、1991年
・国立天文台編「理科年表」丸善、2011年
・角川書店「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1978年
・「2000年前に巨大津波=南海トラフ、高知・名古屋大」時事通信社、2015年5月
・新田康二「いのちの碑」冊子、2014年
・一般社団法人 農業農村整備情報総合センターホームページ『水土の礎』
・「宮川下流流跡図」神宮文庫
・清水潔監修、別冊太陽「伊勢神宮」平凡社、2013年
・大紀町「大紀町史」大紀町歴史編さん委員会、1987年
・多気町教育委員会「立梅用水」、2014年
・松阪市史編さん委員会「松阪市史」蒼人社、1981年
・松阪市教育委員会「宝塚古墳」、2005年
・宇治谷孟「全現代語訳 日本書紀」講談社学術文庫、1988年
・桜井龍彦「災害の民俗的イメージ」立命館大学歴史都市防災研究所、2005年
・郷土史会 吉永博「特別講座(水口の歴史)《近江甲賀の富士浅間信仰》」
水口町立中央公民館、2000年