不動尊縁日
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=267 【清水寺】より
北法相宗の本山。西国観音霊場三十三カ所第16番札所。778年(宝亀9)延鎮上人が開山、798年(延暦17)坂上田村麻呂の創建と伝える。音羽山中腹に30近い堂塔伽藍が並ぶ。現在の主な堂塔は、1633年(寛永10)徳川家光の再建。‘清水の舞台’で知られる本堂(国宝)は寄せ棟造り、檜皮葺、寝殿造り風の優美な建築で、十一面千手観音立像を安置。舞台の下方に音羽の滝、谷を隔てて安産祈願の子安の塔(重文)がある。ほかに仁王門、馬駐(うまとどめ)、鐘楼、西門(さいもん)、三重塔、経堂、田村堂、轟門、朝倉堂、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院など重文指定の建造物がいらかを連ねる。1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
建立:現本堂1633(寛永10)年再建 創建798(延暦17)年、平安時代初
■本堂
清水寺にある江戸時代初期建築の国宝建造物。寝殿造風の建物を中心とし、前方左右に翼廊を出し、その間は板張りの舞台となっている。舞台は約12メートルの長い樹齢400年以上の欅の大木の束柱を貫で組み合わせて支えられ、断崖上に架かっている。坂上田村麻呂が長岡京の紫宸殿を賜って本堂にしたといわれている。
本尊は十一面千手千眼観音立像で国宝の厨子内に安置され、秘仏。33年ごとに開扉される習わしになっている。近年のご開帳は2000年。脇侍の毘沙門天、勝軍地蔵もともに秘仏。
■子安の塔
清水寺の本堂から錦雲渓をへだてた丘の上にある。総丹塗り、桧皮葺の三重塔(重要文化財)で室町時代後期の再建。清水寺の塔頭で泰産寺という寺名をもつ。塔内には千手観音が安置されている。寺伝では聖武天皇・光明皇后がこの観音に祈願され、孝謙天皇を安産されたので、その報恩のため建てられたという。後世、安産祈願の信仰が生まれ子安観音とあがめられる。塔前からの清水寺全景の眺望は素晴らしく、東山の光景になくてはならない塔でもある。
■木造十一面観音立像
清水寺にある重文の彫刻。樟(くす)材の一木造りで、平安初期の古様を漂わせる平安中期(藤原時代)の優作である。
非公開
■渡海船額(絵馬)
清水寺にある江戸時代初作の重要文化財絵画。貿易商人が東南アジアとの貿易の成功を感謝して奉納した。角倉船(すみのくらぶね)図一面、末吉船(すえよしぶね)図三面がある。風俗史の資料としても貴重。
非公開
■狛犬
一対の狛犬が仁王門前に建立されている。双方共に口を開いた珍しい形式。
■音羽の滝
北法相宗本山清水寺奥の院の断崖へ音羽川の流れを引き、三条の滝口から清流を同寺の舞台下へおとしている。寺名の由来通り四季を通じ水が美しく水量も変わらず、滝にうたれ祈願する人も多い。
■景清爪形観音
東山区清水寺の境内、随求堂の前に立つ石灯籠の、火袋の中にある小観音像で、平氏の侍大将、悪七兵衛景清が爪で刻んだと伝えられている。
https://www.kiyomizudera.or.jp/yodan/vol4/index.html 【霊水パワーは信心次第 清水寺の原点「音羽の瀧」】より
清水の名の通り、量も質も文句なしの名水
清水寺の創建以前、少なくとも1200余年の昔から現在まで、瀧は一度として枯れたことがなく、四季を通じて、ほぼ一定の水量で湧き続けています。
あまり知られていませんが、境内売店では「音羽の瀧」の名水を詰めてご祈祷をした「音羽霊水」も販売しています。お参りに来られない方へのお土産におすすめです。
当ホームページ「清水寺縁起」にご紹介しているように、奈良の僧・賢心(けんしん)、後の延鎮上人(えんちんしょうにん)が、観音さまの夢告(むこく)によってたどり着いたのが「音羽の瀧」。この瀧のほとりの小さな庵から清水寺は始まりました。流れ落ちる清らかな水は寺名の由来であり、「音羽の瀧」は、まさに清水寺の原点といえる大切な場所です。
約4メートルの高さから流れ落ちる三条(みすじ)の水は、京都盆地の地下水が、地圧によって清水山(音羽山の別称)断層の岩盤から湧き出したもので、不純物の混入が少ない大変澄んだ水です。水温は11~12℃、水質調査でも非常に硬度が低い軟水で、ミネラルを豊富に含み、有機物質量が限りなくゼロに近いという結果が出ています。つまり「音羽の瀧」の清水は、とてもおいしい天然の名水。早朝にはペットボトル持参で、水を汲みに来られる方もいらっしゃいます。
三つの瀧に込められた意味とご利益
中世には、すでに瀧は三つに分かれていました。
この石の足場は「お瀧」のためのもの。瀧に向かって正面を向いて行います。
瀧の前の建物にかけられている「お瀧」の方へのご注意札
三つの瀧の霊水には、学問、健康、縁結びのご利益があるといわれていますが、長い歴史の間には、たくさんの説や意味が生まれ、それぞれの時代で篤く信仰されてきました。
古くは菩薩さまの「功徳水」、心身を清める「金色水」、長寿の「延命水」として。江戸時代には仏教の教えを含んだ解説もよく用いられ、「仏・法・僧の三宝への帰依」「三大煩悩といわれる貪欲・瞋恚(怒りやうらみ)・愚痴(真実に対して無知であること)の浄化」「人間の根本的な三つの行為、身(行動)・口(言葉)・意(こころ)の清浄」などが代表的です。さらに『観音霊場記図会(かんのんれいじょうきずえ)』には「中は利得、右は智慧、左は慈悲。観音の三体とす」という記述も残っています。
「音羽の瀧」はまた、瀧の下で心身を清める水垢離(みずごり)の行場でもありました。当山を開かれた行叡居士(ぎょうえいこじ)は、長年の行によって200歳を超える長寿を保ったと『清水寺縁起』に記され、中世には修験道の瀧行も盛んに行われました。瀧の足元に並んだ3か所の石はその足場です。
行は修験者だけでなく、一般の信者の方にも広まり、現在も「お瀧」と呼んで、行を続けておられる方がいらっしゃいます。
「お瀧」を続けて半世紀以上 信者さんの不思議な霊験談
ご自身のこと、ご家族のこと、人生のさまざまな局面を信仰とともに乗り越えられてきた信者さん。今は、「この世にいながら、極楽にいるような穏やかな心持ち」とおっしゃっています。
「土用の丑の日に汲んだ霊水は腐らない」という伝説どおりに平成17年に汲んだ霊水。常温で保管していてもまったく変わらず、飲用しても大丈夫なのだそうです。別の方の音羽の水には藻が生え、よく聞いてみるとお参りをせずに汲んだだけだったとか。信仰の不思議な力に驚かされます。
この信者さんは「お瀧」の後にすべての諸堂をお参りされています。感謝の気持ちを霊水で描いた円は、職員が早朝に撒いた打ち水に比べて、なかなか蒸発しないと話題になっています。
通常の拝観時間に皆さまがご覧になることはありませんが、早朝や夜間には、現在も「お瀧」が行われています。10歳の時から半世紀以上も続けておられる、ある一般の信者さんのお話をご紹介しましょう。
身体が弱かったため、お母さんに連れられて始めた「お瀧」の行。お不動さまの真言を唱えながら霊水に打たれるというもので、時間はおよそ10分から15分、真冬でも行衣1枚で、一心に丈夫になりたいと祈願されたそうです。「お瀧」が辛くなる時もあったそうですが、行けば必ずそれを上回る清々しさと霊水のパワーを体に実感できるとか。67歳になられる現在もとてもお元気で、「お瀧のおかげで、心が澄み、人間らしく歩く道を示していただいた。死ぬまでお瀧に入り続けたい」とおっしゃっています。
この方の半世紀を越える信仰の間には、数多くの不思議な体験も。ある夜の「お瀧」では、裸足になるはずのところを「今日は草履を履こう」となぜか思い立ち、石の足場にあった割れたガラス瓶から足を守っていただいたとか。また、ある年の初めには、本堂の壁面に丸く輝く観音さまの光が現れたこともあるそうです。その他、枚挙にいとまのない不思議な体験の数々は、お不動さま、観音さまをひたすらに信仰されてきた「たまもの」であると、当山ではこの信者さんのお話を、感心をもって拝聴しています。
※警備上、「お瀧」(水垢離)は一般開放しておりません。
信者さんに聞く、お参りのアドバイスでご利益アップ
「音羽の瀧」にお祀りするご本尊の不動明王。霊水をいただく際にはぜひお参りを。
飲用するため、ひしゃくは紫外線滅菌できるように装置を取り付けています。
毎月28日はお不動さまの縁日で、朝6時からろうそくをお供えする燈明(とうみょう)と、朝7時から山内僧侶の読経を行っています。また、「音羽の瀧」横にある茶店「瀧の屋」では、お茶の接待もあります。是非ともご参拝いただき、お不動さまとのご縁を結んでいただけければ幸いです。
「音羽の瀧」のお参りに、特に作法はありませんが、皆さまのご利益パワーがアップするように、信者さんからうかがったアドバイスも含めてご紹介しましょう。
まずは瀧の奥にお祀りしているご本尊の不動明王にお参りを。ご利益をいただくのですから、ご挨拶をしなくては、霊水もただのお水になってしまいます。静かにお手を合わせてご自身と向き合い、そして三条欲張らず、どれか一条を汲んでいただければ幸いです。汲む場所はどこでもかまいません。
また、神社では参拝前に手と口をすすぎますが、「音羽の瀧」の霊水は吐き出さず、飲むのが正解。再び不動明王を向かれ、願を念じながらいただくのがベストです。
そして、ひしゃくをお返しする際は、後の人のために洗い流すのがマナー。仏教的な意味合いも込めて3回、丁寧に洗い流し、気持ちよく次の方へとつなぐ想いも大切です。
行列ができるほど混雑することも多いので、ゆっくりとお参りしていただくには、早朝をおすすめします。
創建以前より、一度として枯れたことがなく、今日もなお、変わりなく湧き出る「音羽の瀧」。
霊水のもつ不思議な力は、決して科学では証明できないものですが、無数の信仰によって支えられてきた歴史は確かに存在します。
坂上田村麻呂公、嵯峨天皇、清少納言や紫式部、源頼朝に義経、弁慶、豊臣秀吉をはじめとする戦国諸大名や、最後の再建を発願、寄進いただいた徳川家光公、明治にかけては西郷隆盛、勤皇の志士達...。清水寺へ参詣された、たくさんの歴史上の人物も、この霊水を汲まれたことでしょう。
そして何より、数えることの出来ないほど多くの、庶民といわれる普通の人々が、ひたすらに幸せを願い、その力を信じてこられました。
皆さまもどうか、くもりのないお心で、お手を合わせてみてください。その清浄な信心こそが、清水寺の大切な宝であり、ご利益を高める一番の秘訣なのです。
https://www.noh-e.com/2011/05/23/%E9%96%8B%E5%B1%B1%E5%BF%8C/ 【開山忌】より
清水寺の開山忌に行って参りました。
作秋、能絵「田村」を奉納したことに依ります。
「田村」は、坂上田村麻呂 ( 7世紀 ) の武勇と観音様のご遺徳、そして清水寺の縁起を描いた謡曲です。
田村麻呂は音羽の山中で延鎮上人 ( 開山 ) と出会い、仏道に帰依、自宅を寄贈して仏殿を建て ( これが寺の始まり ) 、いわゆる旦那になりました。
5月23日は田村麻呂の命日。 この日に開山の法要が営まれます。 今年は1250年忌になります。
処は成就院。
緑に囲まれた、美しい庭園を要する塔頭で、江戸時代初期に東福門院和子 ( 2代将軍・秀忠とお江の娘 ) が寄進して再建させたものだそうです。 古い建物ですが、美しい佇まいでした。
回廊からは雨に洗われた木々が見渡せ、鶯の高らかな声と蛙の合唱の中、僧侶による読経が始まりました。
法要の後は、観音様に献茶し、大茶碗による茶礼が開かれました。
「四ッ頭」という、中国の禅寺で行われていた、喫茶・接待様式の茶会です。
初めて目にした茶会形式でした。
( 後で調べたところ、禅寺の開山忌には、この形の茶会が開かれているようです。
ただ、お茶の点て方そのものは、禅寺の作法とは違っているようです。)
織部流の家元が濃茶を点てられました。
織部流は、茶人・古田織部が創った流派ですが、永く途絶えていたのを、明治に入って復興させたのだそうです。 織部は秀忠の茶の師匠でした。
町衆によって広まり、隆盛した「茶」ですが、織部は以前の ( 室町幕府 ) 武家茶会のスタイルを取り入れた、広間の茶・書院の茶 を旨としたようです。
接待役の方々は袴姿。 お菓子やお茶碗を席に回される際の、足の運び方が能と同じ ( すり足 ) でした。
とても清々しく、きびきびとして格好よく感じました。 ( 私はとても気に入りました。)
粛々と始まり そして終わりました。
接待の方に伺ったところ、今年は出席者が少なかったそうです。
例年ですと、田村麻呂にご縁のある東北地方から、たくさんの方がお見えになるのだそうです。
田村麻呂 所縁の地は、被災地と重なります。