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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 10 (01/05/23) 土庄町 鹿島村 / 柳村 / 千軒村 / 小瀬村

2023.05.02 06:28

土庄町 鹿島村 (かしま)

土庄町 柳村 (やなぎ)

土庄町千軒村 (せんげ)

土庄町 小瀬村 (こせ)

ウォーキング距離: 21.2km



今日は土庄町の中にある村を巡る。小豆島は土渕海峡を挟んで二つの主要な島で構成されており、旧土庄村は前島にあり、土庄本町、鹿島、柳、千軒、大木戸などの集落がある。土庄本町は4月24日4月26日に訪れている。今日は前島の鹿島、柳、千軒、小瀬を訪れる。



今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第59番 甘露庵

第60番 江洞窟

第61番 浄土庵


訪問ログ



福田港で南回り土庄行きのバスに乗り、オリーブタウンで下車し鹿島村に向かう。



土庄町 鹿島村 (かしま)

鹿島は、風も当たらず温暖で、古くから集落ができたところ。

鹿島村の史跡


土庄から鹿島地区に入ると県道254号の本町小瀬土庄港線沿いにも土庄町が企画している小豆島石の絵手紙が三つ置かれている。


鹿島海岸

本町小瀬土庄港線は海岸沿いを走っており、海岸は砂浜になっている。ここはかつては松並木の街道だった。今は、夏には観光客で賑わう鹿島海水浴場として整備されている。小豆島には6ヶ所海水浴場が整備されている。この鹿島海水浴場には夏にはシャワー、トイレ、売店も利用できる。


地蔵尊

本町小瀬土庄港線を鹿島村に向けて進むと小さな祠の中に地蔵尊が置かれている。詳細は不明だが、地域住民に大切にされている様だ。


地蔵尊

更に道を進み鹿島村の集落が始まる所にも地蔵尊が置かれている。地蔵尊を保存する為に塀に切り込みを設けて祀っている。


第59番霊場 甘露庵

鹿島村に入り、村の上方西部にある第59番札所の甘露庵を一部残っている遍路道を通り訪問した。五月になると、境内の藤の古木が藤色の花を咲かせるので地元では、藤の庵とも呼ばれ、無量寿如来を本尊としている。残念ながら今日はまだその時期には間があるのか境内の藤棚では花は見られなかった。以前の堂は切妻平家の本瓦葺き屋根で江戸期の建築という。現在の堂は平成15年に改築されたもので、仏堂は東西二間に仕切り、西が仏間、 東が庵坊の間となっている。この甘露庵は室町時代以前からあったとされて、鹿島明神の別当寺だった。本尊の阿弥陀如来は桧材の一木造りの座像で素彫りの上に漆を塗って仕上げたもので、ほとんど全身に火熱を浴びた形跡があるそうだ。いつの時かは不明だが火災があったのだろう。現在の堂内には金色に輝く阿弥陀如来像が置かれているので、元々の本尊は公開されていない様だ。

庭の西端には小杞があって中に寛政時代の観音座像、安永四年の地像立像と明治の地像座像などの石仏が安置されている。この横には幾つもの供養塔が並べられている。1711年 (正徳元年) の光明真言百万辺の供養をした笠塔婆を始め、光明真言百万辺供養塔が、宝暦年間から明治時代へかけて建立されている。奥には江戸前期頃に造られた五輪塔も置かれれいる。


鹿島荒神社 / 山の神

甘露庵のすぐ南に遍路道沿いには大国魂命を祀る鹿島荒神社がある。石鳥居は慶応年間に建てられたもの。

この神社には二つの拝殿があり、鳥居をくぐった正面が荒魂神社 (拝殿には鹿島荒神社と書かれている) で、その隣の拝殿 (山神宮とある) には山の神が祀られている。山の神はもっと北の山の中にあり、村人のお参りの便を考えてここに合祀されたのでは無いだろうか?


鹿島明神社

鹿島荒神社から鹿島集落の西部海浜に遍路道で降りて行くと鹿島明神社がある。記録が残る島内の神社としては最古のものだそうだ。大鳥居の横には旧賀島明神跡と石柱が建っている。この神社は文献により様々な名称がある。古く延喜式内社 (927年) と同時代に書き上げた備前国神名帳に小豆島郡坐二社の一つ鹿嶋玉比咩明神とある。1395年 (応永2年) の備前国神名帳にも小豆島郡座ニ社として福田の玉姫神社 (玉媛明神) とともに賀島玉比咩明神と記載がある。当時、小豆島は備前国 (岡山県) の領地だった。これから見ると由緒のかなり古い神社だったことがわかる。神社入り口の大鳥居には「享保四年九月十五日建立」と刻まれているので1719年のものだ。

大鳥居からの参道階段を登るとその途中、左手に赤鳥居が見える。その奥には稲荷神社が境内末社として祀られている。

更に参道階段を登った所に横木の無い鳥居石柱があり、「我世事能許曽神習・宇都志岐青人草習哉・明治二十八年鹿島氏子中」と刻まれている。その横には1907 (明治40年) に寄進されたユニークな姿の狛犬が置かれている。境内正面に銅板葺き流れ造りの拝殿がある。祭神については小豆郡誌では玉依比売、香川県神社誌には豊玉姫命とある。嘉永年間は、 武甕槌神 (たけみかづち) が祭神ともあるが、豊玉媛が本来の祭神だった。本殿と拝殿は明治時代に元あった場所から少し後退し移築されている。現在の拝殿の下には経塚が発見され、志楽焼の壺の中に鎌倉時代の和鏡が出土している。

拝所奥には渡り廊下で繋がった本殿があり、その脇には境内末社があるのだが詳細不明。

この神社の神宝の一つに、旧御本殿、地下から発掘された鎌倉時代作青銅製和鏡があり、「池辺松藤双鳥鏡 (ちへんしょうとうそうちょうきょう)」と呼ばれている。壺形陶器に納めてあったと事から、経塚に納めてあったものと推定されている。

この神社も先日訪れた富丘八幡神社と同じく「からかい上手の高木さん」のアニメで登場しており、アニメファンの聖地巡礼の一つになっている。本堂の壁にはその紹介が貼られている。


鹿島金毘羅宮 / 鹿島恵比須神社 (未訪問)

鹿島村訪問後のこの村の史跡を調べていた際に、鹿島神社の下方、波止場の北岸に鹿島金毘羅宮と鹿島恵比須神社あるとあった。見落としていたので、次回に訪問予定。



鹿島の佐七庵 (未訪問)

これも場所の記載や地図がなく未訪問なのだが、鹿島部落の上方山中の石が原に小堂庵があり、山田佐七が創設したので土地の人は佐七庵と呼んでいると資料にはある。花こう岩の玉垣の中に高さ約1mの玄武岩の壇上に初七日から三十三回忌までの13回の追悼供養にあたる仏や菩薩を意味する十三仏の種子 (梵字) と、南無阿弥陀仏を太く刻し、その両側に、天下和順、日月清明の文句を添え彫りした自然石の塔が建っている。前には拝殿に相当する拝所をしつらえ、境内の東端には通夜堂が設けられていたそうだ。次回、地元の人に確認して見てみたい。




高見山城跡、高見山公園 (未訪問)

この高見山城跡も未訪問になる。鹿島村の後方には標高153mの高見山がある。上の写真は皇頭山からの高見山。鹿島地区と土庄本町地区にまたがって高見山公園が整備されている。

その山の上には南北朝時代 (1337-1392年) の高見山城があったとされる。東西に伸びる尾根頂上に主郭があり、東と西に2段の郭が伸び、東の曲輪の端は出丸があったとされる。この出丸跡は公園のやしろの杜となって三つの小さな祠 (和霊神社、秋葉神社) が置かれている。

高見山城の築城時期も城主は不明だが、星ヶ城主だった佐々木信胤の出城で1347年5月3日~6月3日に讃岐細川掃部輔師氏により攻められ落城したと伝わっている。他の資料では築城年代は不明だが、南北朝時代に高橋伊豆守入道存孝によって築かれたと云われる。高橋氏は土庄小学校の辺りにあった城山 (富丘八幡神社) に居館を構えていたが1347年 (貞和3年・正平2年) に妻子を連れて妻方の草壁に向かい梨木峠を通った際に、池田城主の須佐美氏に待ち伏せに遭い襲撃され、妻子はその場で討たれた。高橋氏はその場を逃れたが須佐美氏に城館を焼き払われたため、肥後へ落ちていったと伝わっているとある。高橋氏も宇佐美氏も佐々木信胤が小豆島を統治していた1339年から1347年までは信胤の配下だったと思われる。この高橋氏が宇佐美氏に襲撃された1347年は讃岐の細川氏が佐々木氏を攻め落とした時で、どちらかが細川氏に寝返ったとも考えられる。高橋氏が肥後に落ち延びたのであれば、宇佐美氏が細川氏に寝返ったのではないかと思える。宇佐美氏は信胤が小豆島を統治する以前、1221年 (承久3年) の承久の変で後鳥羽上皇が管理していた小豆島荘は北条氏に没収され、関東から新補地頭として須佐美紀伊守が池田荘に派遣され池田に居城を構え、信胤が1339年にきた際に、信胤の配下に入ったとされている。宇佐美氏が佐々木信胤に対しては良い感情を持っていなかった事は想像される。


地蔵尊

鹿島村を後にして県道245線を次の村の柳村に向かう。県道は緩やかな登りとなり、登り切った所に地蔵尊が置かれている。花も供えられて、村で大切にされている様だ。


オリーブの森

県道は下りとなり、また緩やかな登りとなる。この道沿い、鹿島と柳にまたがって海岸線までは広いオリーブ畑になっている。このオリーブ畑は1985年に始まった小豆島ヘルシーランド株式会社が運営しており、テレビでも宣伝しているオリーブ化粧品などオリーブ関連商品の製造販売をしている。土庄町の迷路の町の地域活性化事業も行なっているMeiPAM(メイパム)もこの会社の関連だそうだ。



土庄町 柳村 (やなぎ)

県道245号線を進むと柳遂道がある。このトンネルは1922年 (大正11年) に造られ、1962年 (昭和37年) に改築 (57m) されている。現在では鹿島から柳への自動車道路はこの道だけで、それ以前は山道ありそれが遍路道だったのだろうが、現在では消滅してしまった様だ。このトンネルを抜けると柳地区になる。


柳村の史跡

  • 寺院/庵等: 江洞窟 (60)
  • 神社: 荒魂神社、足尾神社、柳恵比須神社


荒魂神社

県道245線から昔の遍路道に入り進むと柳村の氏神の荒魂神社に出る。この場所は柳村の東端入り口にあたる。参道の階段を登り、1862年 (文久2年) 建立の鳥居を入った所が境内になる。本殿には荒魂が祀られている。狭い境内には祠があり、その中には7~8世紀に奈良を中心に活動し、修験道の開祖とされている役行者 (えんのぎょうじゃ) 像が置かれ祀られ、石柱には真言 (おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか) が刻まれている。(真言はインドの仏尊ごとにつけられているのだが、日本に限られる役行者にこの真言がつけられているのは興味深い) 修験道は山岳信仰に仏教や道教がミックスし日本独自に発達したもので、役行者は神仏調和を唱えていた。この事から神社で役行者が祀られている事は特に特別なことではないだろう。小豆島には幾つもの修験道の寺院があり、山岳信仰の盛んな地域。


足尾神社

荒魂神社に隣接して南に足尾神社がある。足の神を祀っており、足に関する病気、怪我に御利益のあるとされている。拝殿にはこの神社の神木の楠で作った大下駄が置かれており、足に悩みを持っていてもこの大下駄を履き祈願すれば治ると伝えられている。本殿には二つの石造りの祠が置かれている。資料では足の神以外にも弊神として塩竈神社、荒神社、金刀比羅宮を祀っていると書かれていたのでそれに相当するのだろう。また、境内の大木の前にも祠が置かれている。これが神木とされる楠だろう。


柳海岸、柳の浜の波戸

柳集落の南の海岸は砂浜が広がっている。海の沖には波よけや、船舶の積み荷の上げ下ろしなどに使われる波戸 (はと) が長く伸びている。


足尾神社から次の札所の江洞窟に遍路道を進むと、その途中に庵があった。この庵についての情報は見つからず。


柳築港之碑、柳漁港

更に遍路道を進むと道は二股に分かれる。その分岐点には小豆島ではよく見かける石臼を積み重ねた燈籠が置かれている。石臼燈籠の隣には柳築港之碑が建てられている。左の道が遍路道で先には柳漁港がある。


柳恵比須神社

柳漁港には柳恵比須神社が置かれている。大漁と航海の安全の神である恵比須神 (蛭子神) と龍宮を祀り祈願している。


第60番霊場 江洞窟

柳漁港の西端波止場の宝珠山の岩窟 (約50m2 ) に弁財天を本尊とする第60番札所の江洞窟がある。2009年 (平成21年) に改築落慶されている。下の写真は改築前のもので、これと比べると、現在のものは随分と立派になっている。

更に古い写真があった。昭和9年の江洞窟を訪れるお遍路さんたちが写っている。この写真を見る限りでは、随分と立派な堂が建っていた。

入口には鮮やかな朱塗りの鳥居が置かれている。江洞窟は真言宗の札所なので、仏教寺院なのだが、神仏習合の名残で、住民は寺に鳥居があっても特に違和感は持っていない。

本堂に入ると役行者 (写真左上、左中) が鎮座している。洞窟内には諸仏や笠形塔婆供養塔が祀られている。(写真右上) 護摩壇の奥には中央に本尊の弁財天、その左が不動明王、右が弘法大師像を祀っている。 (写真中央) この本尊の弁財天は弘法大師の作といわれ、昔この地を訪れた大師が悪魔を洞窟に封じて、弁財天をまつったと伝えられている。この洞に祀られている本尊の弁財天は昔から、首から上の病 (蓄膿、脳の病、中耳炎、内障、吃り、中風) に御利益があるという。洞窟内の右手にはネパールの僧侶から贈られたマニ車 (写真左下) が奉安されている。

外には海を背に修行大師が置かれれいる。ここは参拝者の休憩所にもなっており、中央に置かれた縁台にはお茶やコーヒーのお接待があった。宝珠山へ登る階段があるのだが立ち入り禁止になっている。上に何があるのかを住職に尋ねると、この道はかつてのお遍路道だったのだが、大正時代にここを訪れたお遍路さんが、次の札所へこの道を登ったのだが、足を滑らせて落ち亡くなってしまった。それ以降、この道を閉鎖し、お遍路さん始め一般の人は通れなくしているという事だった。


千軒遂道 、地蔵尊

お遍路道が通れないので、道を戻り、柳築港之碑がある三叉路まで戻り、県道245号線に通じる道で向かう。この道が新しい遍路道となっている。県道に出ると、1924 年 (大正13年) に造られ、1963年に改築された千軒遂道 (81m) を通る。トンネル入口手前にも地蔵尊が置かれていた。



土庄町千軒村 (せんげ)

千軒は県道に沿った細長い集落で県史跡大坂城石切千軒丁場跡があり、江戸時代に丁場に派遣されていた石工が住み発展した集落になる。


千軒村の史跡

  • 寺院/庵等: 大師堂、薬師庵、庵 (名称不明)
  • 神社: 堀神社、金神さん、荒神社、亀神社、黒崎恵比須神社 (未訪問)、黒崎らとう大明神 (未訪問)
  • 丁場跡: 千軒丁場


地蔵尊

千軒遂道から千軒地区となる。トンネルを抜けた所にも地蔵尊が置かれていた。


千軒丁場跡

千軒遂道の地蔵尊から県道245号線を進むと道が二股に分かれ、分岐した道に入った所に千軒丁場跡がある。ここは千軒村の東端にあたる。この丁場跡は、加藤肥後守が管轄していたもので、土庄村の庄屋の笠井家に、加藤家の人々が宿泊して監督したといわれている。千軒丁場跡には、当時の築城用の残石はほとんど姿を消し、種石やそげ石などが若干残っているに過ぎないのだが、ここ山腹から麓への傾斜地域で、大坂城石垣用の巨石を切り出していた。大阪城の再建が終わった後も、再三採掘が行われていた。畑岸に使っていた残石には「矢孔」の列の残る石があり、ここに移設されている。この地は「千軒 (せんが)」と呼ばれているが、これは加藤家の石工が滞在していた石工小屋が千軒もあった事から来ている。この丁場から掘りとられた巨石は、下におろされ、堀神社裏から海上運搬の仕掛けにして、沖にある「ろくろ岩」のろくろで巻いて沖へ引き出されたといわれている。村内の地域名称で、その当時の名残として、石工衆へ時を報じた「太鼓原」や「ほら貝原」がある。


千軒堀神社 

千軒丁場跡から道を挟んだ所には千軒堀神社が置かれている。千軒部落の東端。鳥居をくぐった正面が本殿で堀大明神として巳の神 (蛇神) を祀っている。大坂城用巨石をとった所に大蛇がいたという伝説からこの神社が造られたそうだ。資料には創建年は書かれていないのだが、境内に残る板碑には天保十年 (1839年) と刻まれているのでそれ以前から存在していた。本殿内には祭神の蛇の絵や彫り物が掲げられている。

境内には本殿以外にも三つのコンクリート造りの祠が置かれている。鳥居横には若堀大龍王と玉姫大龍王を祀った祠 (写真上) があり、蛇に関わる龍王なのだろうか?入口階段横には地蔵堂 (中) があり、幾つかの地蔵尊が合祀されている。境内奥には、毘沙門大王を祀る毘沙門堂 (下) があった。


黒崎恵比須神社 (未訪問)

堀神社の海岸側の岬は黒崎と呼ばれている地域で、資料には黒崎恵比須神社があると記載があった。今回この地域は通らなかったので未訪問。次回訪問予定。社殿は昭和8年に造立され、中には恵比須神像が置かれている。石門柱一対には「奉納天恵恩地神恵損人」と刻まれている。神社西方側の海の中には「ろくろ石場」が残っており干潮時に姿を現す。



黒崎らとう大明神 (未訪問)

千軒黒崎にはもう一つ神社があり、祭神は不詳だが黒崎らとう大明神と呼ばれている。これも今回は未訪問。御神体は江戸後期作に作られた高さ約2mの豊島石の大形五輪塔と伝わる。この供養塔に俗信がまつわって神様となったと考えられる。五輪塔はらん塔 (卵乱塔) とも呼ばれる事から、転化し「らとう大明神」と呼ばれる様になった。たものであろう。信者がかなりあるという。らしい



大師堂

堀神社から千軒集落の中を通る道を北に進むと道沿い西側に入母屋造り平瓦葺き、妻入りの大師堂がある。本尊は弘法大師で、 左に薬師如来の座像、右に小形の観世音菩薩の立像が置かれ祀られている。


金神さん

大師堂のすぐ北側の民家の軒下に石造りの祠が三つ置かれていた。一つは井戸の横にあり水神の罔象女神 (みつはのめのかみ、伊奘冉尊 [いざなみのみこと] が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれた) を祀っている。今まで見た水神は単に「水神」と書かれていたが、ここでは古事記、日本書紀の水神の「罔象女神」となっている。初めて見る。その隣の二つの祠の横には説明板がある。摩耗して半分しか読めないのだが、金神とあるので、金光教か金光教の支流の香取金光教の拝所だろう。福田では、数十年前まではこの香取金光教は盛んだったようだが、ここにも信仰が広がっていたようだ。


荒神社

集落の道から荒神山への道があり、その山の林の中に千軒の荒神社が鎮座している。1858年 (安政5年) 造立の鳥居を潜ると切妻造り向拝を付けた丸瓦葺きの社殿があり、大国魂命を祭神として祀っている。

社殿の西隣りにも1864年 (元治元年) の鳥居があり、その奥には一つの神域をつくる。笠井庄屋家の定紋である鍋蓋紋のある唐破風造り石祠が置かれ日本武尊を祀っている。その奥にも石柱が幾つも置かれている。五神を祀っているそうだで、それぞれに神名が刻まれているのだが、摩耗して判読不明だが、少彦名命と山明神のみ読める。千軒の山の神も祀られている。大坂城用採石の際にこの地に来ていた石工や、その後の江戸時代石工業者が奉建したと考えられている。


薬師庵

荒神社から集落の道に戻り、少し進んだ所に千軒村の集会所にもなっている薬師庵があった。庵内には薬師如来像含め三つの仏像が祀られている。


亀神社

薬師庵から海外の県道254号線に出ると、道沿い広場の中に亀神社が置かれている。1906年 (明治39年) に漁師の網にかかった海亀の一頭をここに葬り、他の一頭には酒を呑ませて海へ放ったという。


千軒海岸

亀神社の前は砂浜が広がり海水浴場になっている。この砂浜は海亀渡来地でもある。海の向こうには四国高松の屋島 (写真右上) がくっきりとみえている。


県道254号線を次の村の小瀬への道沿いにも庵がある。名称や本尊は不明。ここは千軒村の端になり、これからは緩やかな登り坂となっている。



土庄町 小瀬村 (こせ)

県道254号線 の坂を登った戸形崎から小瀬村になる。この集落も県道254号線に沿って長く民家が建っている。


小瀬村の史跡

  • 寺院/庵等: 浄土庵 (61)
  • 神社: 荒神社、稲荷神社、恵比須神社、亀神社、大蔵神、小瀬石鎚神社、亀神社、亀神社
  • 丁場跡: 小瀬原丁場


戸形崎、戸形小学校跡、戸崎旧石器遺跡

県道254号線を上り、そして下りになる。ここは小豆島最西端となる戸形崎で、崖下の砂浜では2000年に海亀の産卵、孵化が確認され、子供達が海亀の産卵がその後も見られることを期待して記念碑が建てられて入る。その後、海亀の産卵があったのだろうか?砂浜の向こうの岩場が海に伸びているところが、戸形崎で、写真では見にくいのだが、そこから旧戸形小学校に綱が張られ鯉のぼりが泳いでいる。この砂浜や学校は様々な映画のロケ地にもなっている。崖上では戸崎旧石器遺跡が見つかっている。小豆島では最古の遺跡、小豆島唯一の旧石器包含地で、西洋梨形握と船底形ナイフの各一個が出土している。

ここ二あった戸形小学校は2005年に廃校になって、土庄小学校に吸収されている。今は公民館として後者が利用されている。下にこの戸形小学校の変遷を赤字でハイライトしている。歴史は古く、1883年 (明治16年) に土庄本町にあった熱中小学校の分校として千軒分校と同じ時期に小瀬分校として始まっている。1893年 (明治26年) には千軒分校が西浦尋常小学校となり、その分校となっている。1900年 (明治33年) に分校から小瀬尋常小学校となり、1908年 (明治41年)  に西浦尋常小学校と合併し、第二土庄高等小学校となり、その後名称の変更はあるが廃校まで続いていた。


地蔵尊

小瀬村へ道を降りていく途中に地蔵尊が三体置かれている。

道を降りると波戸の港が設けられ、そこから砂浜が伸びて小瀬海水浴場になっている。


水神

村の山側への道沿いに二つ水神水神が祀られ、その一つは井戸の前にあり地主大神も祀られている。

近くには石臼を重ねた燈籠が置かれていた。小豆島ではこの石臼を重ねた燈籠は至る所で見られるのだが、ここの燈籠は灯を灯した火袋には神棚が置かれている。燈籠が使われなくなった後に、拝所とされたのだろう。


第61番霊場 浄土庵

小瀬村の中南北に道が県道254線に並行して走っている。県道ができる前はこの道がメインロードだった。その道沿いに第61番札所の浄土庵がある。庵とはいっても、比較的大きな庵で小さな寺ぐらい規模になる。小瀬部落のほぼ中位の県道沿いにある。宝形造り平瓦葺き屋根の仏堂には本尊の阿弥陀如来 (無量寿如来座像)、併杞仏として弘法大師と観世音菩薩、不動尊の像が祀られている。

境内には小瀬村に点在していたのだろう多くの地蔵尊をここに合祀している。本堂の隣には新しく建てられたと思われる石造りの仏堂があり八栗歓喜天と書かれている。四国八十八ケ所遍路の屋島にある第85番札所の八栗寺の歓喜天を祀っている。


水神

荒神社への道の途中には奥まった所にも井戸跡があり、水神の罔象女神 (みつはのめのかみ) と大地主神が祀られている。ここの民家が祠を建て祀っているのだろう。


荒神社

山を少し登った所に大国魂命を祀る小瀬荒神社がある。ここへの道は二つあり、水神からは裏参道で山道になっている。本参道は集落北側からの階段道になっている。階段には鳥居が二つ置かれ、拝殿の前の1863年 (文久3年) と刻まれた鳥居脇には1856年 (安政3年) 造立の狛犬が置かれている。

拝殿前には四角石柱が置かれ、「神威赫灼万民崇敬」、「崇神護国英風無窮」と刻まれている。拝殿入り口には狛犬ならぬ狛亀が置かれている。この小瀬には亀神社が二つあり、昔から亀とのつながりが深い様だ。拝殿内には神輿も置かれている。拝殿奥には本殿が続いている。

境内には末社になるのだろう、足尾大明神を祀った祠がある。先に訪れた柳村の足尾神社を勧進して祀っているのだろう。その隣には天照大神、大巳貴命、倉稲魂命を祀った石柱も置かれている。

ここからは集落前の海とその向こうの四国本島が臨める。


荒神社の表参道から小瀬集落中心部に向かうと、路地の道沿いの塀に石の小さな祠が二つ置かれていた。何を祀っているのかは書かれていないが、多分、この民家が地主神を祀っているのだろう。


稲荷神社

路地を集落中心に向かい進むと拝所がある。二つの石の祠があり、その一つには狐が祀られている。稲荷神社だろう。この拝所の形を見ると井戸があったようにも思われる。もう一つの祠は水神か地主神かも知れない。


恵比須神社、亀神社

路地で小瀬集落に入り、海岸に出る。ここは集落の西端で波止場になっている。赤鳥居が置かれて恵比須大黒を祀る恵比須神社がある。明治2年 (1869年) と刻銘された 2つの祠があり、その一つには恵比寿神像が二つ並んで浮き彫りされている。その隣にも二つ石造りも祠がお戸あれている。亀神社と書かれた石柱が置かれている。


小瀬共同墓地

集落から外れ、次の訪問地の小瀬原丁場跡がある山に向かい道を進む。途中、小瀬村の共同墓地がある。入り口には定番の六地蔵ガ置かれている。

墓地を越えると道沿いにはオリーブ畑が広がり、道の先に岩肌が見える。あの山が次の目的地になる。


大蔵神

山への登り道の途中に大蔵神と書かれた拝所がある。これは城崩れの拝所の一つで、源平合戦で屋島、壇ノ浦で敗れた平氏の残兵がこの山に逃れ潜んでいたが、力尽き、この地で亡くなった。小瀬の村人が哀れに思い、落武者の霊を祀ったと伝わっている。祀られた落武者が播磨の大蔵 (現在の明石市) の出身だった事から大蔵神と呼ばれている。以前は重岩登り口の駐車場に置かれていたが、ここに移されている。


小瀬原丁場跡

山道を登っていくと大岩に小瀬原丁場跡の標識が置かれている。この丁場は先に訪れた千軒丁場と同じく肥後熊本城加藤肥後守の丁場の一つで土庄村庄屋笠井家に加藤家の人々が宿泊して監督したといわれている。採石終了後丁場の普請小屋は、笠井家に譲り渡されたという。ここの残石には大阪城の石垣にも見られる加藤家の蛇の目紋の刻印が確認できるそうだ。山復には矢穴のある種石や割石など残石が散乱している。 標識のある場所からは崖を縄をつたって真っ直ぐに登る道があり、その途中には大型矢穴が一列に並んだ大きな割石 (写真左中) が置かれている。道を上り切った所にも残石 (下) が置かれている。


出迎え不動

山道を登り切った所は駐車場になっている。殆どの人は自動車道を通ってここに来る。ここから重岩不動への参道になっている登山口が山の頂上に向かい伸びている。登山口入り口には不動明王が祀られた祠があり、出迎え不動と呼ばれている。

ここからは今から登る山が聳えている。まだまだ道のりは長そうだ。


重岩不動

長い階段を登っていくと、小さな広場に出る。ここには小瀬石槌神社の社殿の重岩不動を祀る庵が設けられている。階段崖沿いには稲荷社が置かれ、何故か招き猫も見られる。


小瀬石鎚神社、重岩 (かさねいわ)

ここからは岩場を鎖をつたって登る事になる。かなり急なところもあり、高齢者や女性には少し辛いだろう。岩場を登ると頂上に出る。ここで標高157mになる。尾根の向こうに重岩が見える。この尾根には木もなく、尾根両側は崖になっている。落ちないとは頭では分かっているのだが、高所恐怖症なので、崖下を見ないように重岩までそろりそろりと進む。重岩の前には祠が設けられている。この大岩の上にもう一つの大岩が乗っているので重岩 (かさねいわ) と呼ばれる大岩が小瀬石鎚神社の御神体で、石槌神を祭神として祀っている。愛媛県の石鎚神社の分社になっている。

ここからの眺めは絶景。大岩に傍からは土庄港 (写真左上)、別の方向には小島群 (右上)が、登ってきた山道方向には四国高松の屋島と五剣山 (右下) が見える。


水神

重岩から来た道を通り小瀬集落に戻り、村道を北に進んだ民家に井戸があり、その脇には水神を祀った石が置かれている。


亀神社

更に村道を進み県道254号線と交わる所にも、亀神社がある。何故かは分からないが、石の祠の中には鈴が置かれていた。かつての亀神社にあったものだろうか?そうだとすると昔はもっと大きな祠だったのかも知れない。その横には中川ニ助翁之碑が置かれている。碑の石には矢穴跡があり、先程訪れた小瀬原丁場で採石された石でできている。麦稈真田製造創業者とある。麦稈真田は製造は、明治時代から昭和30年代ころまで、農家の副業として麦藁帽子の材料となる麦の加工品で瀬戸内周辺では盛んだった。小豆島では明治の半ばぐらいから各地でこの製造が行われていた。

この小瀬ではこの中川氏が始め、その偉業を讃えた碑になる。


亀神社

小瀬村の次は大木戸村に向かうが、ここからは現在では県道254線が唯一の道で、この先にはほとんど民家がない。海岸沿いに走る県道を進むと、もう一つ亀神社があった。小瀬村ではこれで三つ目の亀神社になる。その背後は洞窟になっている。何か、亀と関係があるのだろうか?その隣には四つの地蔵尊が合祀されている。想像では県道を作る際に昔に道沿いにあった地蔵をここに集めたのではと思う。


地蔵尊

県道254号線を進むと道沿いに地蔵尊が二つ置かれていた。この辺りは民家は見当たらず、昔土庄への細い道に置かれていたのだろう。



海上交通安全地蔵

小瀬地区北の端、大木戸地区との境界には大きな地蔵と小さな4つの地蔵尊が置かれていた。海上交通安全を願っての地蔵尊だそうだ。ここからは大木戸村になる。


小瀬遂道

大木戸地区に入り県道254号線を進むと切通しがある、その崖壁に「小瀬隧道」とある。隧道とあるので以前はトンネルで、大正3年に竣工し全長54.2m、巾3.2m、高さ3.0mだった。写真でもわかるように道幅は当時の3.2mよりもかなり広くなっている。現在ではトンネルは消滅し開削され切通しになっている。


小瀬遂道を抜けるとようやく民家が見えてきた。道路の向こうには先日登った渕崎の皇頭山が見える。今日の終点の土庄まではもう少しだ。


土庄港に到着。この土庄で兄夫婦と母親と待ち合わせをし、4人で迷路のまちにあるイタリア料理店で夕食を楽しんだ。


参考文献

  • 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)