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捨てて、捨てて、捨てる

2023.06.09 05:51

坂村真民bot@shinminbot

咲くも無心散るも無心 花は嘆かず今を生きる


thanatology@thanatology_bot

自然な生き方、つまりインディアンの生き方には、死に対する恐れはない。死は自然なことだ。死は生命の環の一点なんだ。教化されてしまった俺たちの社会では時々忘れられてしまうインディアンらしさとは、死への心構えなくして、生を歩んではならないという悟りだ。(インディアンの言葉)


Facebook長堀 優さん投稿記事 ·

今月号の「致知 」から、村上和雄先生の連載が復活しました(^^) 村上先生、お元気そうでなにより、とても嬉しいです。

毎月、「致知」が届いたらすぐに読み終え、大切なフレーズをメモに残しておくことにしています。

今月号の致知も心に残る言葉が満載です。

松岡修造さんと道場六三郎さんの対談からです。

松岡さんは、小平奈緒さんが、平昌オリンピックに出場したなかで一番日本人らしいアスリート、と評します。

本番に弱く、ソチ五輪でも本来の力を発揮できなかった小平さんは、自分に何が必要かを考え、オランダにスケート留学しました。

そこで、「勝つためには相手を殺すくらいの闘争心を持ちなさい」と教わりました。

普通だったらその通りにするのでしょうが、しかし、小平さんは違いました。人を殺してまで勝ちたいと思わなかったのです。

自分に克つ方法を徹底的に研究しようと決意した小平さんは、コーナリングに目をつけました。

直線では、パワーのあるオランダにはかなわないけど、曲線コースを磨けば自分の武器にできると考えた小平さんは、日本独特の古武術を学んでいきました。

松岡さんは、次のように語ります。

「日本には古き良きものがたくさんあるのに、それを見ようともせず、欧米から学んできたものでよしとするのはもったいない。

日本人には日本人らしい考え方、体の鍛え方、戦い方がある訳で、それを証明してくれたのが小平さんです。」

実に深いコメントです。これはスポーツばかりではなく、いろいろな分野にもあてはまることかもしれません。

もう一つ、羽生結弦選手とのインタビューを松岡さんは紹介してます。

優勝直後に「どんなオリンピックでしたか」と松岡さんが聞いてみたら、羽生選手は、「とにかく捨てて、捨てて、捨てる作業をしたオリンピックでした」と答えたそうです。

世界で初めて四回転ループを習得したものの、怪我をした羽生選手は、勝つためにその「技」を捨てました。

さらに、「欲」を捨て好きなことをすることをやめ、「幸せ」を捨てたと言ったそうです。

松岡さんは、最後に、それではこのオリンピックで何を得たのか?と聞いてみました。

すると、羽生選手は、「幸せ」を得ました、と答えたのです。

人は捨てることによって、かけがえのないものを得ることができる、この人生哲学をこの歳にして、羽生選手は、すでに持っているのです。驚くばかりです。

松岡さんは、世界の頂点に立つ選手に共通するものとして、途方もない挫折を経験していると言います。挫折が最終的には一番の力になる、「挫折を愛している」ほど強いのだそうです。

羽生選手も絶望的なケガを大会の直前に経験しています。その挫折を見事に乗り越えたわけです。羽生選手の素晴らしさにあらためて感動します。

道場さんも、心に残る言葉を紹介しています。

それは、宮沢りえさんの

「散ることを知りながら咲くことを恐れず」

なのだそうです。

いずれ死ぬとわかっていながらも、花を咲かせるために常に挑戦していく、これが人生、と道場さんは言います。まさに生死一如の考えそのもの、死があるからこそ今の生が輝くのです。

一流の人の感覚には教えられるところが多いです。

月刊誌「致知」おすすめです。


Facebook清水 友邦さん投稿記事·  光明に満ちた世界

妻子も家も財産もみな捨てて、寺を設けず 一所に定住せず、書も焼き捨てて日本全国を遊行して歩いた一遍上人は捨て聖と呼ばれました。

一遍上人は念仏をとなえながら全国各地を遊行したところから『遊行宗』とも呼ばれています。

時宗の開祖一遍上人は鎌倉時代後期の1239年に、伊予、道後(愛媛県)の河野家(河野水軍)に生まれました。

一遍上人は熊野で念仏札を配る布教活動をしていた時に「信心が起こらないので、受ければ、嘘になってしまいます」と言って札を受けない僧に出会いました。

そこへぞろぞろと人が集まって来ました。

もしこの僧が札を受けないと、みんな受けないことになるのではと一遍上人は動揺しましたが「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡してしまいました。

札を突き返されて動揺するような「やわな心」では、これから布教活動はできないと一遍上人は悩みました。

一遍上人は熊野本宮で一心に祈りました。その百日目に夢想で白髪の山伏姿で熊野権現が現れました。

「すでに一般大衆は極楽往生しているのだから信と不信、浄と不浄の区別せずに札を配りなさい」と現れた熊野権現が告げると一遍上人は涙を流して「われ生きながら成仏せり」と絶叫したといわれています。

一遍上人がお札を渡したからといって成仏するわけではなく、信心のあるなしに関わらず 人はすでに成仏しているのです。

一遍上人は一心不乱に祈っているうちに自我の境界を超えて微細(サトル)な領域に入り熊野権現と出会ったのでしょう。仏教の開祖、仏陀も瞑想中に肉体を持たない梵天が現れて助言しています。

シャーマンは微細(サトル)の領域に入りシャーマン意識状態で自然界の精霊や祖先の霊と交流します。沈黙の祈りの最中に通常の意識を超えた非物質的な存在と出会う事をキリスト教神秘主義では照明といいます。

意識は何層もの階層があり物質的な次元を超えると目に見えない微細な世界が現れます。そして、微細(サトル)な領域の先にはもっと微細なコーザルの領域があります。

岩手県花巻市の時宗の光林寺の境内に熊野神社があります。

光林寺の開祖が一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信の従兄弟だった河野通次です。

岩手県北上市には時宗の開祖である一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信( こうのみちのぶ)(1156-1223年)の墓所だと伝えられる聖塚(ひじりづか)があります。

平安時代の熊野信仰は皇族や貴族たちのものでした。一遍上人の念仏布教の原点が熊野権現の神託にあったので、時宗の念仏聖達は熊野信仰を庶民にまで広めて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こしました。

一遍上人は三十七歳の修行時代に普化宗の初祖心地覚心(円明国師)に参禅していました。

一遍上人は心境を次のような歌にしました。

「問うなれば仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」

阿弥陀仏の声が聞こえる自我がまだあるので覚心は徹底していないと告げます。

そこで一遍上人はやり直しの歌をしました。

「問うなれば仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」

南無阿弥陀仏と一体となったがそれだけはまだ足りません。

翌年の一遍上人の歌です。

「すてはてて身はなきものとをもひしに さむさきぬれば風ぞ身にしむ」

さらに大悟しただけでは十分ではなく人間の娑婆世界に戻ってこなくてはならなかったのです。

普通は極楽浄土を願って念仏を唱えるのですが一遍上人は違いました。極楽を願う心も捨てるのです。

「念仏の行者は智慧も愚痴も捨て、善悪の境界も捨て、貴き蹴高下の道理をも捨て、地獄を恐れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、また諸宗の悟りも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそが阿弥陀の本願にかなうのです。」

阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミターユスあるいはアミターバが語源です。アミタは「無限」アーユスは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられました。

アミターバはアーバーの意味が「光を持つ」なので無量光と訳されました。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのです。

阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙存在が光そのものであることをあらわしているのです。

念仏を唱える宗派は臨終を迎えると雲間から光明がさし阿弥陀如来が現れ死者は西方浄土へ旅立つと教えます。

しかし、法然上人も親鸞上人も念仏を唱える宗派の開祖は阿弥陀の光明はどこにでも常にあると教えています。

つまり極楽浄土は死んだ後の何処か遠くにあるのではなく、まさに今ここに在るのです。

わたしたちは自我で光を遮っているために、世界が一つで光明そのものである事がわからなくなっています。そのような人のために用意されたのが念仏なのです。

ヨガでは短い言葉をくりかえし唱える瞑想をジャパ瞑想と言います。

一遍上人は1289年8月、16年間の遊行の最中、「亡骸は野に捨てて獣に施すべし」と言い残して兵庫県神戸市和田崎で51歳の生涯を閉じました。その直前に一遍上人は手元にある経典の一部を奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいました。

妻子も家も財産もみな捨てて、寺を設けず 一所に定住せず、書も焼き捨てて日本全国を遊行して歩いた一遍上人は捨て聖と呼ばれました。