体罰の6つの問題性
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体罰の6つの問題性
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57431
速見コーチに伝えたい「暴力による躾は1%の効果もない」という事実 体罰の「6つの問題」
リオ五輪体操女子日本代表の宮川紗枝選手に暴力をふるっていたとして、日本体操協会が速見佑斗コーチの無期限登録抹消措置を発表したことに端を発した問題は、いまや塚原夫妻を中心とした「日本体操協会内のパワハラ問題」に発展している。今回はその問題によって少しずれてしまった、「暴力」がしつけや指導に使われることの問題点に焦点をあてたいと思う。
速見コーチも暴力による指導を受けていた
8月29日に行われた会見で、「被害者」と日本体操協会が認めている宮川選手は、速見コーチから暴力を受けたことは認めながら、速見コーチも暴力について反省しているということ、暴力があったのは1年以上前のことであり、現在は一切暴力がないことを語った。
そして何より速見コーチとの二人三脚で一からやり直したい、より純粋によい体操選手になりたいということを繰り返した。いずれにせよ、一日も早く、宮川選手が健やかに練習に集中できることを願う。
2016年のリオ五輪のときの日本代表女子体操チーム。中央にいる宮川紗枝選手は2018年9月現在まだ18歳だ Photo by Getty Images
さて、9月5日に「暴力行為はどういう理由であれ、決して許されることではないといま深く実感しています。今後一切暴力行為はしないと誓います」と会見したのは、速見コーチ自身だ。そこで、速見コーチはこうも語った。
「(自分の子どもの頃も)気持ちが入っていない時に叩かれたりとか危ない時に叩かれたりとか(そういう指導を受けていた)。当時はそれに対して教えてもらえたというむしろ感謝の気持ちをもってしまっていたので、そこがやっぱり自分のなかの根底にあった」
つまり、速見コーチは「しつけ」「教育」として暴力を受けていたし、だからこそ「暴力」がしつけに効果があると信じ、実行していたのだ。
2015年に撮影されたという、宮川選手の身体が揺らぐほどの張り手をしている動画がFNNの独自入手による報道で拡散された。当時15歳の宮川選手への暴力は「見るだけで怖い」「ありえない暴力」という意見が集まったと同時に、「子どもが平手打ちされて子どもを連れだした時、『コーチに叱咤激励されるのは期待の証なのに、親が甘やかしてバカね』といわれた」というコメントも見られ、暴力に対する意識の差を改めて感じさせる結果となった。
では暴力による「しつけ」はどのような問題があるのだろうか。アメリカと日本で35年以上子ども虐待・女性への暴力防止に携わる専門職の養成に携わり、日英文著書も多い森田ゆり氏は、『虐待・親にもケアを』(2018年築地書館)、『しつけと体罰』(2003年童話館出版)の中で体罰の問題性を的確に指摘している。なぜ体罰はいけないと言い切れるのか。「しつけ」とは何か。上記の二冊に書かれていることから抜粋の上、紹介する。
60%が「しつけのために子どもを叩くべき」
公益社法人セーブ・ザ・チルドレンは国内2万人を対象にした画期的な体罰等に関する意識・実態調査を実施し、2018年2月に発表しました。報告書によると、しつけのために体罰を容認する人が56.8%。しつけのために子どもを叩くべきだと答えた人は60%。決してすべきでないと回答した人が40%でした。同時に行った1030人の子育て中の親への実態調査では、体罰を1回以上したことがあると答えた人は70.1%、一度もしたことがない人が29.9%と報告しています。
2010年に朝日新聞社が行った意識調査では、親による子の体罰は必要と考える人が58%でした。子どもをしつけるためには体罰は必要だとの考えは、大変に広く深く根を張っているのです。
なぐった先生の心の痛み、は本当か
ある中学校で、ピアスをしていて男性教師から激しくなぐられ、廊下に倒れてしばらく立ち上がることのできなかった少年のそばに、別の教師がきて、こう声をかけたそうです。
「あなたのことを思ってなぐった先生の心の痛みは、あなたのその身体の痛みとは、比べものにならないくらいきついのよ」
本当でしょうか。男性教師は心の中では泣きながら、ただただ、生徒への愛ゆえにその子を張り倒したのでしょうか。仮に、もしそうだとしたら、なぐられた少年の心の痛みはどうなのでしょう。この教師には、体罰は、子どもに、身体的苦痛よりはるかに大きい心理的苦痛をもたらすという、認識が欠けています。
子どもの発達心理の研究は、長年にわたって、体罰が子どもの心の健全な発達に否定的な影響を与えると、警告し続けてきました。欧米では、体罰を受けた子どもたちを何年間も追跡調査して、その後、問題行動をとる子どもの割合が高いことを示す研究報告が、発表されています。
体罰は、子どもと大人の信頼関係を壊します。
たった一度なぐられることと、何年にもわたって「おまえなんかいない方がいい」と言われ続けることの深刻さを比較すると、言うまでもなく、後者の方がはるかに大きな心理的ダメージを与えます。一度だけ平手打ちされることと、一年間にわたって担任教師から無視されることを比較すると、後者の方がずっと大きな苦痛をもたらします。ですから、子どもに対する不適切な対応のなかで、体罰だけが問題だと主張しているのではありません。
ただ、「体罰はよくない」と知っていながら手が出てしまう大人が多いこと。体罰を「教育熱心なあまりに」と容認する人が少なくないために、学校教育法で教師による体罰が禁止されていても、発達心理の専門家たちが体罰の問題性を指摘しても、体罰はいっこうになくなる気配がありません。
体罰の6つの問題
体罰は、次のような6つの問題があると、私は考えています。
① 体罰は、それをしている大人の感情のはけ口であることが多い
つい子どもに手をあげてしまったことがある人は、その時のことを、思い起こしてください。それは、暴力をふるいたくはないが、子どものことを考えると、心を鬼にしてでもなぐらざるをえないと考えた末の、「理性的判断」からの行為だったのでしょうか。
子どもが大人の言うとおりにしている時は、彼らはまるで天使のようです。けれど、子どもが大人の思うとおりにならないとき、彼らは、しばしば大人の感情をいたく刺激してきます。
「二度としない」という子どもの言葉を信用していたのに、それを裏切られれば、怒りがこみあげてくるのは当然です。「こんなメシ、食えるか」などと、親の尊厳をおとしめるようなことを子どもが言い放てば、許してなるものかとこちらはいきりたちます。これも当然の感情です。
しかし、その感情をうまく子どもに伝える方法をもたない大人は、なぐる、突き飛ばすなどの暴力行為で、感情を表現してしまいます。そのとき、体罰を受けた子どもが大人から学ぶ教訓は、「腹がたったら、暴力でそれを表現してよい」ということにほかなりません。
「指導に熱心なあまり、つい手が出た」と大人は理由をつけますが、実のところ、多くの場合、体罰がふるわれるのは、大人の感情が暴力という形で爆発するからです。そのことを、まず私たち大人は認める必要があるのです。
では、親や教師は子どもを前にして、いつも、観音様のようにおだやかでなければならないのかというと、そんなことのできる人間はまずいませんし、それは子どもにとっても、少しもよいことではありません。
問題行動を起こす子どもは、実は、大人から制止してもらいたいのです。怒ってほしいのです。誰も自分の行動を制止してくれなければ、さらに問題行動をエスカレートさせて、これでもかと大人の拒否権を得ようとします。ですから、本当に腹が立ったのなら、それはしっかりと子どもに伝える必要があります。ただし、暴力以外の方法によってです。
恐怖で抑えつけて身につくのか
② 体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である
子どもが盗みをした、うそをついた。これは放っておいたら大変だと、体罰で指導しようとしても、恐怖で行動を抑え込んでいる限り、親の子に対する切実な願いや賢明さは伝わりません。子どもは、体罰をする大人の前ではその行動は二度としないかもしれませんが、他の人の前では行動は変わらないのです。
小学2年生の子どもが、ゲームのカセットがほしくて、親の財布からお金をぬきとりました。そのことに憤慨して、親は子どもを庭の木にしばりつけました。
しばられた子どもは、大変な恐怖を抱え込みました。その恐れゆえに、その子は親の財布からお金を盗むことはもうしないかもしれません。しかし同時にその恐れは、子どもの親に対する信頼をこわしてしまいました。なぜ盗むまでにいたったか、その気持ちを聴いてあげるプロセスがない限り、盗むのはいけないことだと学んでほしい親の切実な願いを、子どもが受け入れることはないでしょう。
子どもは、親を手本にして規範や価値観を身につけていきます。ですから、これだけはという、子どもに伝えたい信条があるのでしたら、それは繰り返し伝えていく必要があります。けれど、その方法に体罰は逆効果です。大人も同じですが、子どもが必要としているのは、安定した言動のガイド(指導)とモデル(規範)であって、体罰のような恐れによるコントロール(支配)ではないのです。
体罰はエスカレートする
③ 体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法がわからなくなる
体罰は恐れで子どもの行動を抑えこむために、体罰をする人の前では子どもの行動は矯正されたかに見えます。こうして、体罰の表面的な効果に味をしめた大人は、他のしつけの方法に目が行かなくなってしまいます。ですから、ちょっとした子どもの過ちや言動に対して、つねに体罰という方法を取ることになります。体罰以外のしつけの方法は、それを知らなければ使えないし、即効性に欠けるので、忍耐心や心理的エネルギーを必要とするからです。
体罰以外のしつけの方法を知るために、子育ての知恵やアイデアがもっと共有されていいのではないでしょうか。知恵とは、子育ての理想や心構えではなく、具体的な対応、具体的な言葉かけの成功例の集積です。子どもが物を盗んだ時、子どもが他の子どもに危害を加えた時、体罰ではなく、このように対応したという「しつけのアイデア集」のようなものが必要なのです。
④ 体罰は、しばしばエスカレートする
体罰が、相手への恐れを利用した言動のコントロール方法である限り、それは充分に痛かったり、恐れを抱かせたりするものでなければなりません。3歳の時にはおしりを叩くだけで充分怖がったのに、その子が6歳になると、同じ方法では少しも怖がらない。ならば、今度は棒でたたかなければならなくなります。このように、体罰はエスカレートする傾向をもっているのです。
とりわけ、体罰をする人が孤立している時は、体罰は虐待へとエスカレートしがちです。体罰で子どもの行動をコントロールしようとして、効果を見ないと、なにがなんでもこちらの思うとおりにさせようと、さらに激しい体罰を加えることしか、考えられなくなります。「そんなときは少し子どもから離れなさい」、などと具体的な助言をしてくれる人が身近にいないと、自分の行動に歯止めをかけることができなくなってしまいます。
⑤ 体罰は、それを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与える
体罰をする大人の真意が、子どもの指導や教育的配慮だとするならば、体罰を受けているのを見ている、他の子どもへの教育的配慮はどうなっているのでしょう。身近な人が怖い思いをしているのを目の前でみていると、自分が怖い思いをしているのと同じか、それ以上の心理的苦痛を覚えることは、米国のドメスティック・バイオレンスの研究でも明らかにされてきました。母親が父親から暴力を受けているのを目にして育った子どもは、様々な心理的発達上の問題を抱え、一生苦しむ人も少なくありません。
体罰を受けている子どもの恐怖は、それを見ている子どもに伝染します。クラブのコーチから友人がなぐられているのに、何もできない自分への無力感と自責感に襲われます。さらに、体罰を受けずにすんでいる自分への罪悪感にさいなまれます。こうした心理的ダメージを、体罰を受けている子どものみならず、まわりの子どもにも与える方法が、教育的配慮や指導と呼べるでしょうか。
取り返しのつかない事故にもつながる
⑥ 体罰は、ときに、取り返しのつかない事故を引き起こす
体罰をする大人は、「この子を指導するため」と心底思っているというよりも、その人の感情の爆発である場合がほとんどです。その感情に正当性があったとしても、爆発する感情のエネルギーを、いつも適切にコントロールできる人はいるのでしょうか。
2歳と4歳の子をもつ母親の、悲痛な事例です。母親は2歳の子の世話で疲れていました。唯一の息抜きが、その子のお昼寝の時間でした。やっと昼寝をしてくれたので、さあ、これからの1時間は自分の時間と、母親は手紙を書き始めました。そのときの嬉しさと解放感とがどれほどかは、幼児を持つ親なら共感できるでしょう。
ところが、数分もしないうちに、4歳の子が母親の注意をひきたくて手紙書きを邪魔し始めました。4歳の子にとっては、2歳の子が寝ているこの時こそが、母親を独占できる時間なのです。
しかし、母親は、貴重な自分の時間を妨げられていら立ちました。このいら立ちも、多くの人が共感できるに違いありません。そのとき、彼女は腹立ちのあまり、4歳の子のほおに平手打ちをしました。今までも何度かやったことのある体罰です。そうすれば、その子はすぐにおとなしくなるのを母親は知っていました。
ところが、母親はたたいたその手にペンを持っていました。4歳の子の目を突いてしまったのです。事故です。でも、完全な事故だったとは言い切れません。「私が叩いたりしなければ、こんなことにはならなかった」と、母親はあまりの自責の念から、情緒的な混乱をきたしていました。そのような危険をおかしてまでも、体罰は、するに値する「しつけ」や「指導」の方法なのでしょうか。
「体罰はよくないが、時には必要だ」という、実に多くの人が支持するこの考えは、きっぱりと捨てなければなりません。「ときには体罰も必要」と考えている限りは、体罰はなくならないでしょう。「どんなときにもしない、させない」と、自分に決めておくことが肝心です。
こうして森田ゆりさんの「体罰」に対する言葉を読み返しても、日本体操協会のいう「暴力を追放しよう」という姿勢は正しい。速見コーチ自身が会見で語ったように、よくないと心でわかっていながらも我慢できない。そして時には必要だと思ってしまう。それこそが体罰に対する間違った認識なのだ。
ただ、「暴力をなくす」という正しいスローガンのもとに行われた行為が、被害者の心を置き去りにしたやり方で、私利私欲が絡んでいる可能性もあるということにも問題はある。せめて、これを機に暴力が追放され、権利体質も見直されることが、被害者である宮川選手をはじめとした選手たちが能力を思う存分生かせる体制構築につながるのではないだろうか。
そしてなにより私たちは、暴力よる「しつけ」に「時には仕方ない」という認識を捨てなければならないのだ。