つながるコトバ
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/329436 【人はなぜ俳人になるのか?――大河ドラマ的人生から俳人への軌跡・堀本裕樹さん】より
(つながるコトバ VOL.6_前編 )
俳人 堀本 裕樹さん(平9年卒・105期法) 2023年1月1日更新
俳句に注目が集まっている。バラエティ番組で俳句が取り上げられ人気を博しているし、その影響でおずおずと俳句をひねってみた人が、改めて日本語表現の美しさに気がついたり、毎日の通勤路の自然に目を向けるようになり、生活がイキイキしてきたという話も聞く。
そこで今回は、テレビ番組『NHK俳句』の選者としても知られる俳人・堀本裕樹さんに俳句の魅力や、初心者が俳句を作るときの心得などについてお話を伺った。同時に、堀本さんがどのような経緯で俳人になったのかについてもうかがった。前後編でご紹介していきたい。
最初に目指したのは小説家だった
堀本裕樹さんは、かなりの紆余曲折を経て俳人となっている。そもそも、最初は小説家を目指していたそうだ。
「俳句に出会ったのは國學院大學に入学して、國大俳句(俳句サークル)に参加してからです。そもそもは散文である小説のために、韻文である俳句の力を磨こうと思ったんです。夏目漱石、芥川龍之介、泉鏡花をはじめ、文豪でありながら素晴らしい俳句を残している作家はたくさんいるので、小説のために始めたというのが動機でした。
國大俳句の顧問は鎌田東二先生といい、哲学者であり宗教学者である方でした。現在は京都大学の名誉教授になっておられます。僕自身がすごく影響を受けた同郷の作家・中上健次さんとの対談集『言霊の天地』も出されており、ぜひお会いしたいという気持ちもあっての参加でした。
しかし、大学時代にはほとんど俳句創作をしませんでしたね。國大俳句には合宿があるのですが、画家の横尾龍彦先生の別荘で、当時、鎌田先生はよくお酒を飲まれる時期だったこともあって、朝からビールを飲まされていました(笑)」
文芸部にも所属していたが、そこでも激しく創作したというよりは、本を読んでいるほうが多かった。同じように法学部で文芸部にも所属していた友人と文学談義をしたり、下宿先で二人何も語らず、でも一緒にいて本を読んだりしていた。
卒業時は、出版社の編集者を目指したが希望が叶わず、その後しばらくは迷走とも言える時期を過ごした。古書店や遺跡発掘のバイトをしたかと思うと「やはり就職しよう」と、出版社に入って営業職に就く。かと思うと、退職して地元・和歌山に戻り、ぶどう農園でバイトしながらぶどうを路上販売したり、スーパーでバイトをしたりした。
それでも、創作への気持ちはゆらがなかった。雑誌投稿や賞への応募を続け、短歌では『短歌研究新人賞』で佳作を得て、俳句でもいくつか予選通過するなどの成果を出し始めていたという。
「小説、短歌、俳句、どれも創作して賞に応募していましたが、俳句の入選率がほかの文芸よりも良かったんです。その結果、俳句を自分の表現として選び取っていったと言えるでしょうね」
「80歳まで俳人でいられたら、この迷走の時代を大河ドラマにでもしてほしいぐらい、いろいろな経験をして、いろいろな人に出会いました」
堀本さん自身は淡々と語るが、お笑い芸人であり芥川賞作家の又吉直樹さんとの共著『芸人と俳人』(集英社)では、
「(略)俳句に比べて小説のほうがずっと上だ、たった十七音で何が伝えられるんだと、僕は俳句を小バカにしていたんです。(略)でも、俳句を作り続けるにつれて、また、名句、秀句にたくさん触れることで、奥深さに魅了され、だんだん俳句に対する考え方が変わってきたんですよ」と語っているから、やはり「俳句が自分の表現手段だ」と強く思う瞬間があったのだろう。
迷走の日々の中生まれた会心の一句
そして、「これでようやく1つ、自分の世界が作れた」と手応えを感じる句が生まれた。それは、迷走の日々のさなかだった。
那智の滝われ一滴のしづくなり
「25歳ぐらいのときに詠んだ句です。この句はたくさんの方からの評価をいただきました。僕の故郷は和歌山で、両親は熊野本宮の出身です。世界文化遺産である熊野参詣道の土地で、那智の滝は御神体の一つです。那智の滝って、ものすごく高さがあるし、水量もとても多く、見ていると圧倒されるんですね。じっと見続けていると、滝と一体になってくるような感覚もあるし、同時に跳ね飛ばされそうな、畏怖のようなものも感じて、そのときに『ああ、自分は本当に小さい存在だ……。那智の滝のまさに一滴にしか過ぎない』と思ったんです。
これは那智の滝を実際に目の前にしたからこその、小さい存在である自己を見つめ直すような思いをやっと表現できたと思えた一句です。この句は第一句集『熊野曼陀羅』に収めています」
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/329445 【俳句を詠んでみたい! ではどうするか……。俳人・堀本裕樹さんにうかがった「作句するということ」】より
(つながるコトバ VOL.6_後編 )
「俳句はまず詠んでみることが一歩です」と、初心者をあたたかく励ます堀本さん。
俳人、それは俳句を詠む人。人はいかにして俳人になるのか、前編は俳句の世界で活躍する堀本裕樹さんに俳人となるまでのドラマのような来歴についてうかがった。
後編の今回は、俳句という文芸表現の魅力や「自分も俳句を詠んでみたい」と思った人へのアドバイス、制作への向き合い方についてお話をうかがってみた。堀本さんは俳句に興味を持った人たちへの働きかけも幅広く行っているからだ。記事を読んだあと、ぜひ一句取り組んでみてほしい。
初心者はまず「五七五」と「季語」を意識しよう
俳句を作ってみようと初心者が思ったとき、最初につまずくのは「いろいろ決まりごとがありそうで難しそう」という点ではないだろうか。ところが、堀本さんはこう言った。
「僕は、基本的に俳句ってスポーツみたいに厳格なルールはないものと思っているんです。まずは俳句の世界に飛び込んで、一句作ってみてほしい。そのときに気をつけたいのは2つだけ。五七五で詠むことと、季語を1つ入れることです」
なるほど。しかし「では」とはりきって作ってみたものの、できた句が果たしてこれは俳句なのか?……という悩みもまた、初心者にはありがちだ。有名な俳人の句も、見たままを表現しているように思えるけど、自分の拙い句とどう違うのか? 最初のうちはその違いさえもよく分からない。
「そうですね、その悩みは初心者ならだれしも感じることだと思います。そこは経験を積むことがいちばん大事なのですが、できれば句会に参加するのがいいと思うんですよ」
句会! 何か、ハードルの高そうな言葉が出てきた。
句会とは何か。句会とは、複数の人が集まって各自が句を提出して発表する場。無記名で作品を選び合い、読み合い、感想を言い合い、批評し合う集まりだという。これまた、初心者は怖気づいてしまいそうな集まりである。だいたい句会はどこで開かれているのだろうか。
……というのは俳句に縁のない人が思うことで、ネットで自分の住んでいる場所と句会をかけ合わせて検索してみてほしい。いくつものサークルが見つかり、またサイトを見てみるとたいていが初心者歓迎と書かれているはずだ。
「一人で句を作り続けても、どこがいいのか悪いのか分からないし、だんだん行き詰まって鬱々としてしまう。他人の客観的な評価は、句を磨く上で大事ですね。それに、句会って、共感の場でもあるんです。自分の句について『この句、いいね』とか『この句の気持ち、分かる』と感想をもらえると、その方と共感できて心が開放されるし、癒やされたりします。単純に批評し合ったり、うまくなるためだけではなく、人に句を見てもらうっていうのはそういう点からも大切だと思いますね」
「いるか句会」の様子
句会は、多様な年代、経歴、職種の人が集まっているので、とても刺激的だ。俳句について語るのが中心なので、話題作りに悩むこともない。思いがけないコミュニケーションが生まれるかもしれない。
また、前編で話に出たように、人前で自分の句について説明し、共感を得る行為はある意味プレゼンテーション力を磨くことにもなる。
人前で句を発表するのはハードルが高いと感じる場合は、新聞や雑誌への投稿、またTwitterでの投稿で反応を見るのも良いのではと堀本さんは言う。
「俳句を匿名で投稿できるアプリもあるらしいですね。対面での講評にハードルを感じている人にはいいんじゃないでしょうか」
語彙をどう増やすか
もう1つ大きな問題がある。俳句は十七音という短い詩である以上、一文字も無駄にできない。1つの単語で無限の想像が広がる言葉を精査しなくてはならない。しかし、そのためにはたくさんの言葉や表現を知る必要がある。脳内の引き出しにたくさんの語彙が詰まっていればいるほど、極端な話、20文字ぐらい、あるいは400文字ぐらい費やして書く言葉を、2文字の単語に言い換えることもできる。
とはいえ、現代人はたくさんの微妙な感情を1つの言葉ですませていることが多い。たとえば、驚いても危なくても素晴らしくいいと思っても全部「ヤバい」で表わしたりしていないだろうか?
「よく言うんですが、作句で大事なのは『詠むことと読むこと』。詠むは俳句を作ること。やはり作句を重ねてこそ見えてくるものってあるんです。読むはたくさんの言葉、文章に触れること。心惹かれる文章を見つけたら、俳句でも、小説でもエッセイでもなんでもいいから読むこと。いつも『ヤバい』で終わらせていた気持ちを、作家はどう表現しているか。読めば読むほど『なるほど』と思うことが増え、語彙や表現力が増えていくはずです」
「名句の解釈も、解説本や世の中の評価に必ずしも忠実に読まなければいけないというルールはないんです。自由に解釈していいんですよ。それも俳句の楽しみの1つです」
作句に必須の『歳時記』もまた、語彙や表現、そして日本語の美しさを再認識させてくれる。『歳時記』とは春夏秋冬に新年を加えた5つの分類それぞれの季語と解説、その傍題、例句が掲載されている本だ。傍題というのは、季語のバリエーションであり、たとえば冬の季語である「雪達磨」の傍題は「雪仏」「雪布袋」「雪兎」「雪釣」である。
歳時記には日本の自然の美しさや繊細さ、多種多様な季節の言葉がいっぱい詰まっている。「あの現象を言い表すのにこんな言葉があったんだ」と感動すらしてしまう。
たとえば、春の日差しいっぱいの日にサーっときらめくように吹く風を「風光る」、冬に静まりかえっている山を「山眠る」、そして春になり緑が少しずつ戻り明るくなってきた山を「山笑ふ」、秋の夜の澄んだ空気の中で輝く美しい星々の空を「星月夜」と表わすなどなど……。なんと感受性と美しさのある言葉だろうか。
「最初は過去の名句を読んでも、どれが季語 か分からないかもしれませんが、歳時記を手元に置いて読み込んでいくと、句の奥深さが分かってくると同時に、作句するときもさまざまな思いを一語に託すことができてくると思います」
堀本さんの第二句集『一粟いちぞく』の表紙にも掲載されているこの一句。
蒼海の一粟の上や鳥渡る
“蒼海の一粟”は故事成語で、「大海原に浮かぶ一粒の粟。人間の存在は、広大な宇宙から見れば非常に小さいものであるというたとえ(「デジタル大辞泉」より)という意味だ。この言葉だけでもたった9文字でここまで深い意味があるのかと驚かされる。
大海原を漂う、ちっぽけな、粟のひと粒、ぐっとフォーカスするとそれは一人の人間の姿でもある。人生という海で波にもまれ、なすすべもなく漂っているその上を、鳥が渡っていく様子が、まるで大気圏から俯瞰したような視点で迫ってくる。まさに、わずか十七音で人間のはかなさも感じ、真っ青で大きくうねる広大な海のビジュアルも浮かんでくる(俳句の解釈はライター個人によるもの)。
これが、俳句の魅力ではないだろうか。