100万回生きたねこ
人間は誰かに何かを伝えたくて言葉を使う。
だが、語られた言葉や書かれことよりも、書かれなかったこと、語られなかったことの方にこそ大事なことが隠れているのではないか。
近頃、そんな思いを強く抱いている。
誠実を貫こうとすれば人は言葉を失い、真理に近づこうとすれば言葉は邪魔だとも思う。
それでも私は沈黙よりも不誠実を選び、真理よりも何かを伝えたくて言葉を使う。
それは、大海からコップ一杯の水を掬うようなものである。
本当は、海に溢れる水のすべてを知って欲しい。
だがそれは、人間には出来ないことである。
コップ一杯に込められる思いというのは、海全体からみれば、本当にほんの僅かでしかない。
それでも、伝えたいことのかけらぐらいは掬えるのではないか。
そんな思いで、今日も言葉をつづる。
『100万回生きたねこ』という絵本がある。
サン・ジョルディの日ではなくても、私は大切に思う人には本を贈る。
大切、という言葉は人によりさまざな捉え方があるので定義が難しいが、人生において些細なことでも何かしら影響を受ける関係は、私はみな大切だと思っている。
何かしら影響を受けたり与えたりするのであれば、それはなるべく互いにとって有意義なものでありたいと思う。
本題に入ろう。『100万回生きたねこ』に登場する猫のことである。
1977年に講談社から出版された佐野洋子さんの絵本である。
簡単にあらすじを紹介する。
一匹の猫がいて、生きては死んで、生きては死んでを繰り返している。
ある時は王様の猫となり、ある時は船乗りの猫となり、ある時はサーカスの猫、あるときはどろぼうの猫、あるときはひとりぼっちのお婆さんの猫、あるときは小さな女の子の猫というふうに、100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。
100万人の飼い主は猫が死ぬととても悲しんだが、猫はまったく悲しまなかった。猫は飼い主たちのことが嫌いだった。
ある時、猫は誰の猫でもない野良猫となっていた。
自分だけの事が好きな猫は、100万回生きたことを自慢し、周囲のメス猫たちは何とか友達や恋人になろうと、プレゼントを持ってきたりして寄ってくる。
しかし、唯一自分に興味を示さなかった一匹の白猫の関心をなんとか引こうとするうちに、いつのまにか猫は、白猫と一緒にいたいと思うようになる。
そして、白猫に思いを伝えるのであった。白猫は猫の思いを受け入れる。
時がたち、白猫は子供を産み、年老いてゆき、やがて猫の隣で静かに動かなくなっていた。
そこで猫は初めて悲しんだ。朝になっても昼になっても夕方になっても夜になっても、猫は100万回も泣き続け、ある日のお昼に猫は泣き止み、そして猫も、とうとう白猫の隣で静かに動かなくなり、決して生き返らなかった。
「人はなんで生きているのか」
初対面の方に会うと、たいてい私はこの質問をする。職場や飲み会、取引先の方、夜の色街、友達の友達、誰にでもする。
頭がおかしいと思われたり、うざいと思われこともあるが、この思春期真っ盛りのような質問を、ほとんどの人は真剣に考えてくれる。
王様の飼い猫だったときの猫に同じような質問をしたら、きっと返事はないだろう。
白猫と出会うまで、猫は自分の生(せい)を生きていなかった。
お婆さんに可愛がられ、その膝の上では安心して眠れていたかもしれないが、それはお婆さんのために、やっていたことである。
猫は自分のしたいことを知らなかった。
けれども猫は100万回の生を生き、ようよく白猫と出会い、自分の生きたい生を生きることになる。
そうして100万回生きたことより大切なものを知り、猫はとうとう、最後の生を終えることになる。
人生は短い。気づいたら生は終わってしまう。
あなたは、自分の生を生きているだろうか。
生まれ変わっても、今していることをまた同じようにするだろうか。
もし違うようなら、人に振り回されず、あなたの生を生きて欲しい。
あなたがあなたの生を生きることを祈って。