Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ジョルジュ・エネスコ、J.S.バッハ、そして《無伴奏ヴァイオリン》…ある魂の熱情。

2018.06.28 05:24









ジョルジュ・エネスコ、J.S.バッハ、そして《無伴奏ヴァイオリン》

…ある魂の熱情。









George Enescu

1881- 1955

Johann Sebastian Bach

1685- 1750









芸術というものの価値というのは、ある意味において相対的なものだ。とはいえ、そんな常識を覆す、留保無き絶対性が唐突に姿を現す事がある。


例えば、ジョルジュ・エネスコが演奏するJ.S.バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》などにおいて、である。









エネスコのバッハは、留保なく美しい。


このレコードに関しては、さまざまな毀誉褒貶がある。昔の、かならずしも良いとは言えない条件下で、一線のヴァイオリニストと言うよりは、《亡命》したルーマニアの作曲家として自分のアイデンティティを確立していた老齢の元ヴァイオリニストによって弾かれたものに過ぎず、聴きやすくはないのかもしれない。

しかし、まだこの音楽を体験していない人がいるなら、騙されたと想って、なにも考えずに、ぜひ、一度聴いてほしい。


もちろん、わかりにくい芸術ではない。分かるやつには分かる。分かるやつには分かりはしない、そんな一切の媚のない音楽だから、すべての人がこれを愛するとは想えない。


けれど、もしこの音楽の美しさに触れることが出来たなら、確実に、世界を見つめる眼差しをさえ変えてしまうに違いない、そんな孤高・至純の音楽美が、聴く人の魂を翻弄してしまうに違いないのである。





George Enescu (1881- 1955)

Johann Sebastian Bach (1685- 1750)

Sonata and Partitas for Solo Violin Sonata No.1 in G Minor, BWV1001



Adagio

Fugue: Allegro

Siciliana

Presto





たった一本の楽器。

たった二十分足らずの4楽章が、例えばグスタフ・マーラーのあの9曲と未完成1曲、大規模オーケストラにソロ・ヴォーカリストに混声合唱団まで使った交響曲すべてをあわせたくらいの風景を、一筆書きで描き出す。

異常なまでに研ぎ澄まされた至高の音楽が、ここに鳴る。


アダージョ、単なるヴィヴラートにまで、いっぱいに意味と感情と発熱する思考が、ここまで詰め込まれた音を、僕は知らない。

もちろん言葉に翻訳することは出来ない。

にもかかわらず、僕たちは、これらの音に触れるとき、むき出しのそれらのたゆたいに曝されるのである。

かすかなピッチの上ずりから、フラットな停滞まで、すべてが何かを表現しようとしている。

その密度は胸が苦しくなるほどだ。なんという、表現の強度だろう?

重音は音響空間を強烈にうがつち、旋律線は震える。無駄な音、無駄な響きなど一音たりともないのである。

例えそれが、この世界の存在そのものへの、容赦のない呪詛を叫ぶときですら、それは速度を帯びた風景の中に疾走してしまうので、むしろどこまでも澄み切った音響空間だけが広がり、至近距離に突き放されたある魂のドキュメントとしてただ、透明な戦慄をだけ残すのである。


フーガ:アレグロ、この演奏で、この曲を聴くたびに、ここに、なんという孤独があるのだろうと、いつも僕は絶句する。

例えば、生き物のすべて滅び去ってしまったあとの地球に、ただ静かに雪が降っている。

吹き荒れている。

深い闇の中にである。

ただ、月の光に雪だけがかすかに照るばかりだ。

そんな風景を、僕はいつも想像してしまう。

…悲しい?

いや、悲しいという、そんな人間的な感情さえ完全に枯れ果ててしまった後の、ただ、純粋な孤独が広がるのだ。

そんな、凍りついた零度の風景。

にもかかわらず、この音楽には、これ以外の演奏では決して感じられないやみくもな情熱が張っているのだ。

ここでエネスコは激情のままに弾き狂っているのではない。微妙なピッチ、速度変化、それらが完全にコントロールされ、激情を、無言のうちに描き出すのである。


シシリアーナ、舞曲。

小さな舞曲に描かれる、繊細を極めた花々の歌。

どこにも生き物の気配のない空間の中に、ただ、柔らかい光だけが差すのだ。


プレスト、至高の疾走。

もはや感情も何もなく、ただ研ぎ澄まされた音だけが、暗い空間にぽつんと浮かんだ地球をただ、描き出すのである。

そこには、もう、孤独の気配すらない。

ひたすら、無言の音だけが美しく鳴っている。

いつ果てるとも知れないパッセージ。

僕たちは確かに、ここに、ある、永遠を見るのだ。一つの、鋭利な絶望として。


この録音については、…例えばネットで《エネスコ バッハ》で検索すると、かなりの数のブログやサイトが見つかる。そして、その殆どが、まるで何かの宗教団体か独裁国家のプロパガンダのように絶賛しているはずである。

なぜ、そんな事態が発生するのかと言うと、単純に、この演奏にほれ込んだ人はもう、この演奏以外の演奏など一切耳にしたくなくなるし、命をかけて愛さざるを得なくなるし、この演奏の良さがわからない人が、むしろ哀れにさえ感じられてきてしまうのである。


たとば、大学生のときに知り合った、日本人で、キリスト教にある日突然、目覚めてしまったのだという友人が、言っていた。

信仰を持ってしまって以来、他の人がかわいそうでならない。…まだ、救われてないから。

彼は、ある日本の有名なキリスト教団体に加盟して、いわゆる《布教》をしていたのだが、もちろん、そんな勧誘的な意味合いがあったかもしれない。

徹底的な無宗教の僕は、彼をむしろ嫌悪した。

けれど、エネスコを聴いて以来、その友人の心情が、なんとなくわかってしまった。

…本当に、哀れでならないのだ。

形は違えども、そういう意味で、エネスコのバッハとその賛嘆者との関係は、ほとんど信仰関係でさえある、と想う。


結局、少しでも美しい言葉で、この音楽を《布教》したくてたまらなくなるのである。もちろん、若干のエリート意識のようなものさえある。それは、否定しない。愚劣だが、まったき事実だから。

だから、ネット上では賛美の嵐なのだが、現実に、例えばタワレコのクラシック売り場でアンケートをとったら、たぶん、90%くらいの人が、もはやヴァイオリンをまともに弾けもしない老いぼれの、ピッチさえ調わない演奏だ、と一刀両断するに違いない。


そういう演奏なのである。


僕も含めた、エネスコ信者の熱狂ぶりに対する嫌悪感が、それに拍車をかける。

そんな感じで、褒める人はとことん褒め、けなす人はとことんけなすという、毀誉褒貶の激しいいわくつきの演奏なのである。





Sonata and Partitas for Solo Violin Partita No.1 in B Minor, BWV1002



Allemanda

Double

Courante

Double

Sarabande

Double

Bourre

Double





パルティータは、交互に現れるさまざまな舞曲とドゥーブルの対話である。

ここにおいて、エネスコはソナタにあった極限状態の鋭利さをあえて控えて、それらの音色的、及びリズム的多彩さを余すところなく描き出そうとする。そして、事実、描き出されている。

リズムの顕在的な多彩さ、および潜在的な可能性は、無残なまでに容赦なく克明にえぐられる。

今のヴァイオリニストたちが良くやるように、楽譜が透けて見えるほど説明的に、ではなくて、…なんと言えばいいのだろう?いわば音の実存として描かれているので、聴きなれない人にとっては、そのあたりが単なる指のもつれだとか、演奏上のミスだとか、全時代的なリズムのゆれだとかとして、聴かれてしまうのだろう。

深い軽蔑と嫌悪感を持って。


だが、注意深く聴けば、…もちろん一発録りだから、たんなる若干のミスらしきものもわずかながらあるような気もしないでもが、これらがほぼ完璧に実現された、バッハの楽譜自体が持つ現実と、その可能性の余すところ無き具現化であることに気付く。

ミスがあったとして、あくまでも一音二音、一瞬二瞬のレヴェルである。

だいたい、コンクールの審査員ではないのだ。僕たちは、音楽を聴こうとするとき、ただ、音楽の魂それそのものに、全身をささげたかったはずなのである。


アルマンド、自在な緩急による表現。もっと、リズム的にカチッとした演奏もあり獲るのだろうが、ここでエネスコがあぶりだそうとしているのは、バッハの楽譜自体が孕んでいるリズムの、多弁でポリフォニックな重層性である。


ドゥーブル、単純化されたリズムのうちに、リズム音、和声音、旋律線、それらが音色ただそれだけによって、ポリフォニックに重層的な音楽空間として描き出される。


クーラント、今にも途絶えてしまいそうなか細さの中に、音楽はやっとの想いでつながり続ける。


ドゥーブル、疾走する再分化されたパッセージの中に細かく暗示される無数の旋律的要素、それらの対話的要素、音楽のハードボイルドと言うべきストイシズムが漲る。


サラバンド、いつ果てるともない詠唱。叫び、涙、しゃくりあげ、焦燥、不意の沈黙、ためらい、それら、痛ましいほどに音が描き出す無際限な感情の散乱に晒されるしかない。


なぐさめのドゥーブル、サラバンドの凄惨さを、無意味とは知りながらも、ただただ癒そうとするかのように鳴る。


ブーレ、それでも癒されないブーレは、どこかへ立ち去ろうとしている。多様なリズム的可能性を撒き散らしながら、ただ、音楽は消え去っていこうとする後姿だけを見つめるのである。


激情のドゥーブル、誰かが立ち去ってしまった後の空間に、人称をもたない何かが、ただ、なぜ?と、その疑問符だけを舞い散る雪のようにあららげる。


初めて、この演奏を聴いたとき、僕は生まれて初めて、この、しんねりむっつりとしてただ長ったらしいだけだと想っていたこの曲の根源的な情熱に触れた。

その戦慄は今だに色あせず、そして、癒されることもないのである。



2018.06.28 Seno-Le Ma