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願いと祈り

2018.06.30 08:00

「願う」と似た言葉に、「祈る」という言葉がある。

最近、両者の違いに興味を抱いている。


七夕の短冊に書くのは祈りだろうか、願いだろうか。

神社の絵馬に書くのは祈りだろうか、願いだろうか。

年のはじめに手を合わせ「人類が平和でありますように」と唱えるときのそれは、祈りだろうか、願いだろうか。


人類が言葉を話すようになったのは、諸説あるが、最も最近とする学説では10万年前からで、最も古いものでは、ホモ・ハビリスが生きた240万年前と主張している。

短くみても、人類は10万年以上言葉を発し続けている。


それでは、人類が祈りをはじめたのはいつからだろうか。

言葉がなければ願うことや祈りは生まれないのだろうか。

おそらく、そんなことはない。

言葉がなくても、人は何かを欲求する。

それが願いとなる。

願うとは、現実とその願う先との間に、距離があることを示している。

お金が欲しい、安らぎが欲しい、試合に勝たせてください、芥川賞が欲しい、そのように人が願うとき、願うものはその人の手元にはない。

そして、願うことというのはたいてい達成されない。

その距離が自身の力では縮められないからこそ人は何かに願う。

お金を自身の力で手に入れられる人は願ったりはしない。

勝ち方を知っている人は願ったりはしない。

願うより先に行動して達成している。


では、祈りはどうか。

祈りもまた、言葉が必ず必要と言うわけではない。

祈りは言葉よりももっと原初的な心の所作だ。

では、祈りが通じなかっり、祈りが叶わないと言ったりするのはなぜだろうか。

それは、先ほど書いたように、願いだからである。

祈りとは、本来願いとは別のものである。

人は10万年以上前から祈りを捧げている。

祈ることが何ももたらさない心の慰めだけであったならば、人は10万年も、何かを祈り続けたりはしないだろう。

祈ることは人に現実的な何かをもたらす。

それは何か。


ここからは仮説の話となる。


人間の心というものは、何かを介してつながっているのではないか。

人が誰かに祈りを捧げたとき、それは直接ではなく、間接的に相手に何かをもたらす。

祈りの力が大きい人は人類全体を思って祈りを捧げている。

それが人類全体に影響を及ぼす。

私のような凡夫もまた、祈るときがある。

しかしそれには欲望が混ざっている。

願いをなくし、欲望をなくし、最後に残った祈りのかけらのようなものを天に捧げる。

それがきっと、相手に届く。

祈る者は心が綺麗なのではない。

人間誰しも欲望を抱く。

その欲望を少しずつ削いでいく。

それは心の技術が生み出した結晶である。

捧げられた祈りに不純なものはない。

私の祈りが誰かに届くことを、祈っている。