小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(二帖) ③…共犯者たち。
シュニトケ、その色彩
中
二帖
「見てる?」
「何を?」
「***。…わたしの、」…ね?「****」言う、加奈子は私の顔に**********、なんで?言った。「好きなの?」
「なにが?」
「私の。」
「嫌いだよ」
「穢くない?」
「馬鹿?」
「なんで、そんなに」…さ、…ね?「好きなの?」*******が、またがった私の顔の上で息遣って、見上げられた加奈子******は見苦しいでたらめな肉の塊りに過ぎない。*********************************。うつくしいと、盛んに日本人に称揚されながら、色気も何もない日本の、高尾山の山の樹木が匂いを立てる。樹木の、葉の。吐き出された酸素の。或いは腐った落ち葉の腐敗した香気を。初めて会った皇紀は、すぐに彼=彼女が、少なくともその身体においては明らかに女であることを、誰にでも気付かせてしまうに違いなかった。桜桃会の制服になっていた軍服に身を包んで、私にお茶を入れてくれたとき、あなたは、と、見上げた私が言いかけたのを、ただ、皇紀は微笑だけで返し、軍帽がよく似合った。日野市の桜桃会道場の事務所の中だった。目の前に汪の笑い顔があった。「かっこいいでしょう?」
汪は言った。「美青年、だね」何歳?言った私に、「二十歳。」答えたのは汪だったが、多摩川河川敷の花火を見る。「彼女は、女性ですよね?」言った私に汪は、「大津寄さん?」答えて、一瞬の沈黙の後に笑い、「どう?素晴らしいでしょう?」わたしと加奈子は汪の後について土手を歩く。皇紀が、なのか、花火が、なのか。左の背後に花火の光が明滅して、その音響はいつでも耳の近くに鳴る。ああいう格好するのが好きなんでしょ。加奈子は言って、「…変態だから。」私の耳に唇を重ねた。「すき?ああいうの?」
「なにが?」
「********変態」皇紀は汪が子どもの頃から引き取って育てているのだと言った。加奈子が十二歳くらいの頃に、いきなり妹だと由紀乃に紹介された。まともに言葉もしゃべれない幼児に過ぎなかった。男装癖が始まったのは高校を辞めてからだった。制服と言う縛りがなくなった瞬間に皇紀の言動は男性化した。汪はむしろそれを喜んだ。冗談に私の後継者、と言って笑わせ、それらの笑顔には、汪から後継すべきなにも汪は残していないことへの揶揄も含まれていた。汪はただそこにいるだけの無意味な王様だった。なにか特異な能力を魅せることもなく、何かに長けているわけでもなく、何かを作りだしたわけでもない。作り、こなし、生み出し、膨らませるのはいつも誰かで、汪が実際に手に触れたものなど何一つなかった。「知らないよ」と加奈子は、あいつのことなんか、何も知らない、言って、問いかけた私の「嫌いだった?」その声には、じゃなくって、と、「そういうの以前。どこの十八歳の女の子が六歳くらいの女の子と朝から晩までべたべたああだこうだっておしゃべりするの?」分かるでしょ、言われた私は、なんか、「…ね?」すっごい、他人同士。よくわかった。彼女の言うことに矛盾もなければ無理もなかった。
軍服を着ていても何を着ていても女は女に違いなく、その男装が必ずしも成功しているとは言えなかったが、恭一が何も彼女のその点に触れないことが不思議だと、思った瞬間に、自分も皇紀にそれをは触れ獲なかったことに思いつく。皇紀は明らかにその身体能力において、他の会員たちに劣っていた。相対的な優劣と言うよりは、眼を背けたくなるほどの明らかな劣等性にほかならず、いつの間にか、いずれにせよ、皇紀は彼らにとって特別な存在でありはじめ、あるいは、もとから、彼らとは差異する存在だった。「いつから、はじめたんですか?」初めて桜桃会の道場に連れて行かれたときに、私は「桜桃会?」一列に並んだ目の前の軍服を着た外国人の整列に、順に目線を流し乍ら「二十年前、かな。」もうちょっと前、…か、と、独り語散る汪は一番端の独りだけ際だって背の低い、皇紀を指した。「彼が、今のリーダー。副主将です。」それが皇紀だったが、正面を向いたまま眼を逸らさない彼の、正面に移動した私たちをさえ、皇紀は視線の中には入れようとしなかった。急激な窪地が作った斜面に遮られた向こうとこちらに樹木がある。樹木に通されたワイヤーを、こちらから向こうまで渡るように、恭一は会員たちに指示した。恭一の見本を小一時間ほど練習したあと、始まった実技は、会員の誰にとってもリスクの高い実技だった。桜桃会の会則において、いかなる失敗も失敗が失敗である以上失敗にすぎないのであって、訓練と言う概念を認めない桜桃会は、訓練中の失敗においても制裁を課した。命がけでするものです、と、池田彰浩と言う名の別の自衛官は、それに寧ろ同意した。軍隊が負けるということは国が滅びるということです。「いいですか?」と、たとえ、皆殺しされたとしても、英霊どころか怨霊に成ってでも戦争をつづけなきゃならん。「ですから、…ね、」彰浩の、その、芋虫に生まれ変わってでも敵をうたなきゃならん。踏み潰されても、千回、万回、短髪が汗をかいていた。生まれ変わり続けて、たとえ靴底にでも咬みつかなきゃならん。夏の日差しが直射した。それが、軍隊だからね。会員は必死だった。制裁が怖いばかりだとは思えなかった。自分のプライドが地に堕され、穢されるもを、誰もが明らかに恐れていた。初めての演習で、絡み付けた足の、或いはつかみ出した手の一瞬の迷いや不用意さが彼らの身体をワイヤー上にひっくり返して、そこから更に正位に戻るためにもがかなければならない。百メートル近くの距離をわたる中に、さまざまな苦闘があって、それらのすべては残酷なほどに隊員各自の性格と精神状態を曝してもいた。皇紀以外の誰も、完全な失敗をはしなかった。皇紀にその能力がないのは、最初から明らかだった。正面を向くことさえできず、ワイヤー上をぐるぐると回るってばかりで、前に一手つかみ出そうとした瞬間に崩されたバランスが彼女の自由を一瞬にして奪い、ワイヤーにしがみつくしかない脆弱さを、周囲の誰もに曝さしめる。三メートルもわたらないそこでぐるぐる回り、息を切らし、しかし、誰も笑い声さえ立てない。会員は全員が起立してその演習を見学しているので、曝し者になった皇紀の醜態を和らげ獲る要素など一切ない。沈黙した人々の汗ばんだ体臭と、皇紀の荒れて不整な息遣いが、山の中の音響の中に木魂す。汪はそれでも、独りで微笑みながら彼らを見ていた。恭一と会員の成長について交わされるありきたりな寸評を耳に入れながら、午後の光にそまる渓谷の、目の前の光景は、残酷な見世物のようにしか思えない。二十分近くの時間が経過する。午後の日差しは直視している。汗だらけの身体が、そして汗は、最早、流れ出し獲る全てのところから流れ出して、濡れて垂れ下がった髪の毛が何かの汚物のようにしか見えない。眼差しは進行方向だけを捉え、その内面をは伝えない。皇紀は前に進もうとしていた。だが、それがどうしても不可能だった。その現実の中で、馬鹿正直にもがき続けていた。目の前の光景のすべてが、やがてばかばかしく思え始めたとき、会員の独りが息を飲んだ声が聞こえた。振り向き見ると、皇紀は命綱にぶら下がって、谷間の空中で仰向けに天を仰ぎ、脱力した四肢はただ、粗く震えていた。筋肉が痙攣を起こしたのかもしれなかった。命綱がぐるぐる回す皇紀の、ただ正面をだけ向いた表情が、明らかな敗北と、明らかな屈辱の表情にゆがんでいた。目の前ですべてを失って仕舞った人間の、すでに気付いていた全喪失の現実へのふたたびの驚愕に改めて我を忘れた、そんな表情が、私は、そして凄惨なその汗だらけの顔から目をそらした。「頼む」と、引き摺り降ろされた皇紀は言った。任せる、と、もはや、その手の平に、自分の命綱を解く余力さえ残っては居なかった。躊躇する会員たちの表情は闇雲にお互いを見詰めあい「やってくれ、頼む」とふたたび言った皇紀は上着を脱いで、さらしを巻いた上半身を曝す。頭の上で腕を組み、眼をとじる。何をも見詰めない見開かれた眼差しが、会員たちを有無を言わせないままに強制した。行きます、と言ったフィリピン人の木刀が、にもかかわらず一瞬躊躇したあとで皇紀の腹を殴り、その渾身の一振りが、くの字に曲がった皇紀の体ごと地面になぎ倒す。うずくまったまま、体を震わし、地に唾を吐き、もう一度姿勢を整えると、すぐさま木刀は腹部を打ちのめす。うめき声は立たない。つめられた息の、切れ切れの間歇的なノイズが、空間を穢す。三十回、それは繰り返された。カンボジア人との混血なのよ、と加奈子は耳打ちした。皇紀って、…と言って、だから、違うでしょ。体臭が、さ。…ね?「なにが?」
「ちょっと、****、嗅いでみ。近くで。首筋とか。変な匂いするから。」笑って、そう言った加奈子に誇張があることは確かだった。人種、違うから、言って笑って、加奈子に屈託はみじんもない。汪がかわいがってた女が現地で作った**。ボランティアかなんかだったらしいよ。だまされたんじゃない、どうせ、と、その後父親のカンボジア人は汪に日本で使われていた、と、そう加奈子は言った。「カンボジア戦争の頃、ボート・ピープルっていたでしょ?…知らない?世代的に知ってるんじゃない?そういうのと知り合ったカメラマンがいて、そいつと一緒にいた女の売れない作家かなんかとの間にできた子ども。」数回の殴打で倒れた皇紀は身を起こそうとして立ち上がれずに、会員たちが無理やり立ち上がらせる。傷めた腹部は皇紀が直立しようとするのを妨げて、体は斜めに曲がる。その曲がった身体を再び、木刀が打ちのめす。すべてが終わったとき、力尽きた皇紀は土に顔を埋めるようにして左手だけで草をつかんでいた。右手は何もしないで、へし折れたように投げ出され、突き出された尻が、皇紀が慎重に、深くゆっくりと息遣うたびに、遅れてかすかに痙攣する。なにか、ほどけてしまいそうな連結を、皇紀の身体が必死につなぎとめようとしているように見えた。立ち上がれない皇紀をそのままに、訓練は続行され、皇紀の口が泥をかみながら息を吐く。樹木が連なって、夥しい葉々の群れの切れた先に青空が広がり、いいね、と言った汪は私に微笑みかけた。「いいよ、ああいうのはいい。」なにが?と、問いかける必要もなく、「屈辱って、いい。人間を育てるよ。」笑った汪の私を見詰めた眼差しの先に、汪は皇紀をだけ見ているには違いなかった。やがて道場に寝かされた皇紀は仰向けに、そして彼女は天井を見詰めながら、夕方の日差しが道場の中を照らす。私は皇紀を呼びにきたのだった。道場の戸を開いて、そばに行き、傍らに胡坐をくむと、いまだ汗を洗い流せても居ない皇紀のいやに甘ったるい体臭が匂った。ずっと皇紀は眼を開けていた。大丈夫ですか?言った私に、寧ろ皇紀は目を閉じて、恥ずかしいところを、お見せしました。自分がこうなることは、皇紀は最初から知っていたに違いなかった。会員の誰もがそれを知っていた。何度も皇紀は失敗し、制裁を受けてきたはずだった。皇紀を殴打する彼らの振る舞いには、慣れが見られた。道場の正面の真ん中に飾られた遺影があった。明らかに日本人以外の、古い世代の男だった。誰ですか?「薫さん、と言います。ベトナム人。ベトナム名を、そのまま漢字にしただけです。桜桃会の創始者です。」
「なくなられた?」
「戦争で」
「戦争?」ある意味で戦争、と、皇紀は言ったが、社長が殺したんですよ、とその言葉は私に聞かれながら、なぜ、あんなこと、するんですか?「なにを?」
「無茶でしょう?」鼻にかかった笑い声を立てた瞬間に、皇紀は顔をしかめた。腹部の痛んだ筋肉が皇紀にただ、なかなか沈静しない痛みの鈍い波をだけ立てる。「女の癖に、って?」言った皇紀に、あなたは、じゃ、女なんですか?「ええ。」まだ泥の色彩さえ付着させていた、小作りな唇が発される言葉に合わせてかたちを崩すが、正面のコンクリート壁に日差しは照射した。「私はつまらない人間ですよ。普通の。…奈美、会いましたか?」
「あなたの、」
「私のカノジョ、ですね。彼女のほうが倒錯してる。単に女なのに、女の私を愛してるから」
「でも、あなたが、」
「…誘惑した?」奈美には事務所であったことがあった。地味な格好をした、日本の工場かどこかで働いている貧しい中国人の女たちのような、彼女にはそんな、けなげでも薄穢れたような気配があったが、いやな感じはしなかった。「奈美が自分で誘惑させたんです」どうぞ。…お茶を、と「どんな、関係なんですか?」事務所で奈美は言って「望んだことを与えてる。彼女に。哀れんでるのかも知れない。不幸ではないけれど、幸せとはいえないから。」私に微笑みかけた。そのあとで「じゃ、あなたは?」
「幸せになりたいとは思ってますよ、」皇紀にじゃれ付くような仕草を見せて「普通に。」皇紀はそれを無視し、かつ、奈美の媚態を許した。「桜桃会はあの人が作ったんです。源薫さん。ベトナム名は忘れましたが。知的な人でしたよ。小さい頃に会いました。茶道も生花も、もともとは彼から教わりましたから。」
「うわさは聞きましたが、」
「おかしいの。…わらっちゃう、」と、皇紀は息をひそめ、私は皇紀が女性言葉を使うたびに、なぜか、禁忌に触れた痛ましさを感じていた。「いっつも、ベトナムに帰りかがってるの。ほんとに、」いっつも、と。で、言って、で?
「…で、」そして、一瞬の沈黙の後に「かわいがってくれましたよ。いっつも。加奈子さんも。私も。」…ね、「まるで娘みたいに。姉妹みたいに、かわいがってくれた。」初めて男を抱いたのは東京に出てきてからだった。高校までの閉塞的で、あまりにも接近しすぎた関係の密集のなかでは、私にはその自由は与えられなかった。誰もがそれを知っていたが、私が誰を愛しているのかを禁忌のように聞こうとしない無視の中で、それでも彼らは私の性向を彼らなりに尊重しているように見えた。それは慶介ではなかった。クラブのイベントでDJをしていた西村家納と会った瞬間に、彼が**だと言うことに気付いたが、それはすでに誰もが知っていた。受け入れられることのそのあまりのた易さに戸惑いさえし乍ら、私は確実に、それまでの環境の中で家畜にされていたに過ぎないことに気付いた。あるいは、自分で自分を家畜にしていたのかも知れなかった。いまさら学校教育への憎悪など生まれない。寧ろ、家畜に過ぎない家畜だった自分におののいたが、出して、と言った加奈子の声を耳元に聞く。耳元に触れられる寸前まで近付けられた唇が、そして上に乗った彼女の身体がすでに私の体中に押し付けられていたことに気付く。お互いに腰を動かし乍ら、それは一致し、一致し外れ、あてがって、一致し、探り合って、相変わらずの微妙な不一致を、そして楽しむ。接着した皮膚の面が汗をにじませて、お互いが相手の皮膚だけが汗ばんでいるのを感じる。背筋を這った指先は加奈子の背に中のくぼみのにじんだ汗を確認したが、「**しちゃいなよ」…ね?
まだだよ、と、「なんで?」…ねぇ、
え?「よくないもん」おまえの、…ね、「よくないもん、」ぜんぜん?
まったく。
なんにも?
完璧に。「********」言う声を加奈子は聞くが鼻で笑って、妊娠させてみなよ、何回も、と、「あんただけじゃん、…ね、************」ね?「まだ一回もあんたの、妊娠させられてない」
「分かるの?」
「わかんないけど、知ってる」たまには、と、「どうせ、」妊娠させなよ「堕ろすんだろ?、また」たまには、わたし、「…ね?」何歳?「三十六」もう、結構、きたね、と加奈子が声を立てて笑ったとき、************************************、「名前付けてよ」
「してないよ、妊娠なんか」
「わかんないよ」
「なんで?生むの?」
「生んでほしい?」
「やだ」
「じゃ、聞くな」堕ろすよ、「…ね、」もちろん。じゃ、「気持ちいいの?」なんで、名前いる?「なにが?」…え?いいじゃん。「*****、わたしのさ」つけたげなよ、「中で」あんたの「別に。寧ろ、まったく」子どもじゃん、「関係ないよ」名前くらい。「なんで?でも、」…で、「やりたいんでしょ?」ちゃんと「それさ、」堕ろしたげるから、「気持ちいいからじゃないの?」…さ。名前、つけてよ。
「…加奈子。」私が言ったとき、…最低、言いながら加奈子は笑い出し、笑い崩れ、「奈美が、手首、切りました」******「大丈夫?」私の鼻の先に「いや、ただの、愛情表現でしょ?」皇紀は退屈そうにコーヒーをかき混ぜたが、「全然気持ちよくない」大丈夫ですか?…え。顔を上げて「まじ?」皇紀は「*******」奈美は…、いや。「男は?」違って、その、大津寄くん、大丈夫?「男はそんなもん」じゃ、なくって、「男に***ときは?」笑った皇紀は「一緒。てか、」ぜんぜん。「なんか、ぶよって」まったく、「ぶよってしてんの」…支えますよ。
皇紀は言った。「僕はね。彼女を。」
「めんどくさいけどね、…でも、カノジョだから。」いろいろあったんでしょ、彼女にも、と、風俗嬢は駄目、と、慶介は言った、あれは、「くすり系に手を出してないだけ、」社会のクズ。笑い、俺もだけど、「まだマシじゃないですか?」けど、まぁ、「経験あるんですか?」一緒だね。ホストも風俗嬢も。「わたし?」…くどいからね。うざいし。「わたしが?」と言った皇紀の言葉が、女言葉を使って見せたのか、単なる日本語のIなのか、「…覚醒剤とか?」一瞬の判断の迷いに衝突した気がし、「前の、カノジョです」
「分かれたの?」
「自殺したんですよ」皇紀は声を立てて笑い、わたしたちの話が隣の席の学生らしい二人の女に聞き耳を立てられているのには2人とも気づいていたが、「僕の名前、呼びながら飛び降りたんです。大学生の頃。なんか、大学の構内に来ちゃって。モデルでしたけどね。雑誌の。女の子のね。渡り廊下で目が合って、あれ?…って、いきなり窓から飛び出してきて、そのまま踏み外して堕ちた。事故死と言うか、自殺と言うか。」
「どう思ってますか?」…どうって、と、肩をすくめた皇紀が、仕方ないでしょ、その言葉を言いかけたときに、「じゃなくて、」私は自分の言葉の意味を気付いた。「僕に、されたでしょ?」…ああ、皇紀は独り語散るように何か言おうとし、そして、何も言わない「どう思っていますか?」
「憎んでいるとか、何だとか、ですか?」
「卑怯だとか、愚劣だとか、何だとか」いや、…ね。じゃ、と、皇紀は、「逆に何で、もう一回しないんですか?」あなたを?「もう、わかったでしょ?」もう一回?「何しても騒ぎ立てないって。楽な女でしょ。やりたくなったら、殴って、蹴って、やっちゃえばいいんです」カフェの中の物音の連なりと連鎖を聞く。「なんでやらないの?**だから?」
「いやじゃないの?」
…うー……ん、と、…ね。…「許しはしますね」実際、許しちゃった。言った。けど…、言って笑い、「奈美は激怒してましたけどね、殺すって、柾也さんのこと、殺すって、」病室の中で付き添っていた奈美は、病室に入ってきた私を認めると、ありがとうございます、駆け寄って頭を下げ、わざわざ、と、その一瞬涙ぐんだ奈美は、恋人の突然の暴力的な状況を受け入れ難く、傷ついた皇紀に、寧ろ絶望的な思いに駆られながら、だいじょうぶ、だいじょうぶだから、それだけをことあるごとに繰り返す。「誰にも言わなかったけどね、奈美だけには言ったから。喉、やられちゃってて、声出なかったから、彼女のおなかに指で書きましたよ。」ごめんなさい、皇紀は言った。ばらしちゃって、でも、「…ね、疑ってたんで。彼女。社長がやったんじゃないかって。」綺麗でしたか?ややあって、不意に言い出した皇紀に、聞きなおす隙さえ与えずに、「綺麗でしたか?」言い迷う私に、イエスかノーかで答えたら?
イエスだ、と私は言った。声を立てて笑い、皇紀は、「知ってる」言う。…知ってますか?「そういえば、」と、皇紀はスマホを出しながら、「加奈子さんや、わたしや、瑞希さんや、要するに取り巻きたちと、社長との関係。」ちょっと、過激だけどね、と、息をひそめた皇紀は音の消された動画ファイルを再生して見せ、おかしくて仕方がないように、いたずらな笑みがその眼差しに浮かぶ。動画の中で、*****汪の上で扶美香が*******。汪は両手足を広げて、むしろ無抵抗な下僕のように見えた。隣に、裸の瑞希が煙草を吸い乍ら、そして初めて瑞希が煙草を吸うことを知った。加奈子はベッドの端にうな垂れて、************、怯えたような眼差しでカメラのほうをときに見た。撮影しているのは皇紀だった。いきなり振り向けられたカメラが至近距離で皇紀の顔を捕らえ、近付けられすぎたカメラの距離が斑な翳りで神経質にその顔全体を汚し乍ら、笑い続ける皇紀が何か口走り、向こうの誰かに声をかけ、不意に、カメラに投げキッスをくれる。「加奈子さん、一番、奥手なの」ずっと、ね、いちいばん甘えたいくせに、ずっと、いじけてんの。「めんどくさいんだよ、あの子」言って笑う皇紀に、私は笑いかけて、「たぶん、社長のこと、一番、普通に好きなんだと思う」声を立てて笑う私に指を立てて、しぃ、と言う。「ぞくぞくした」なにが?「合宿で、制裁されたでしょ、わたし。」…ね?近付けた唇が、耳に噛み付きそうな「あれ、…ね?」予感を一瞬、すぐに、皇紀の笑い声にすべては崩れ去る。「もっとも私のことをぐちゃぐちゃに壊した犯罪者が見てるの。その目の前で、もう一回ぐちゃぐちゃにされるの。」ひところしたことあるでしょ?ひそめられた声が言った。「ないよ」うそ。…でも、そのうち、誰か、しちゃえば。笑った息が耳元にかかり、隣の女に着信があった。たぶんね、そのうち、だれか「本物の男になれるよ」殺しちゃう、言った。「だって、そういうタイプじゃないの?」笑うわたしには眼もくれないくせに、皇紀は何度かうなずいて、…社長とか?言った。「汪社長とか。…」繰り返し、そして笑い、…あ。その皇紀の声に振り向いたとき、私は、ややあって、皇紀がなかば口をやわらかくあけて、そのまま静止した一瞬、皇紀はわたしを見つめていた。そういえば、誤解してるかも知れない。「なにを?」私に、皇紀は媚びるような笑みを作って、「どう言ってほしかったんですか?あなたが、その、あの時の事を聞いたとき」
「あの、あなたを、」
「そう、**しとき。」声を立てて独りで笑い「ぐっちゃぐちゃにした時、ね。あなたが犯罪者になったとき、どう言ってほしかった?」
「あなたに?」
「憎んでほしかった?愛してほしかった?…例えば、どっちですか?」浮かんでは消えて行くいたずらな媚の群れが、それでも曖昧な性別を獲得する寸前に、すばやく連鎖し続け、結局は私は皇紀の表情をは捉えきれない。「知ってます?」…ね、と、「気付かなかった?」何も言わない私に、そっか、と、一瞬うつむいた口元で独り語散た皇紀は、「そんなもんかな、あんなだと」なにが?「初めての男なんですけど。」わかりました?言った皇紀の眼差しに、私は目をそらして、汪は、知らないかも知れないけど、もう昔から役に立たなくなっちゃってるので、…「いつ?」言った私に、皇紀は一瞬の茫然とした無表情を曝して、なに?「汪社長とあんなふうに成ったのは、例えば、あなたは何歳のときなんですか?」
「十二、とか?加奈子さんとか、由紀乃さんとか、お姉さんたちがそうだったら、真似するでしょ。でも、最初の最初から**のはずですよ。社長は」
「最初?」
「戦争の後遺症とか、そういうことじゃないですか?義眼だし、片足だし、あれで、相当ひどい眼にあってますよ、たぶん。だから余計戦争信者なんじゃない?いまでも怯えてるのかもね。…覚醒剤はやってないけど、マリファナは毎日、…ね。」噴き出して笑い、ガンジャ、ね、卑怯だよね。…なんか。「でしょう?」だって、だって、さ。…ね?シャブ売りまくってる当人が、一人だけガンジャだよ?
二十五歳くらいの頃、初めて汪に会ったとき、汪は慶介のためにシャンパンを空けていた。歌舞伎町のホストクラブの役つきだった慶介に、汪は寧ろ媚びるように接待し、慶介もその接待に応じて、彼の前で、わざとわがままな王様のように振舞った。私は汪が私たちと同じような人種に違いないと思っていたが、それが勘違いだったのかどうか、結局最後まで分からなかった。はべらして連れ歩いていた、まだけばけばしいほどに美しかった由紀乃も、彼女にも恋愛感情をいだいているようには思えなかった。由紀乃に関してもそうだった。由紀乃は彼に尽くしたが、そこにはいつも、過剰なほどの彼女のナルシズムが感じられた。いつか、と、慶介は酔っ払って私に、「あいつの**に、ドンペリ、突き刺してやろうと思って」耳打ちした慶介は、汪を四つんばいにして追廻し、汪がわざと派手な声を立てて逃げ回った。バブルが弾けた歌舞伎町で、やくざたちや、中国人マフィアたちはまさに生き生きと活動していた。そのどちらでもなく、どちらでもある汪は、抜け目なく立ち回って、つかんだ穢れたあぶく銭をあらゆる形で蓄積した。子飼いの女たちに会社を作らせ、金を浄化し、更に小刻みに貯蓄して行った。桜桃会は彼の親衛隊のように見えた。彼らに汪の親衛隊である気がなかったとしても。北朝鮮から銃器を収集し、密売し、道場を作った。汪が死んだと知らされたとき、汪でも死ねることが驚きだった。加奈子の開かれた唇が、その奥に彼女の口蓋はあけ開かれて、覗かせた歯の白さの純白とはいえない生物的な色彩が、何か言ったあと、…え?、と、それだけただ聞き返した私にはなにも答えないままに。「未来の話をしようよ」