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真宗大谷派 霊苔山 金相寺

掲示伝道(6月no2)

2023.06.16 05:53

「 悟るといふても 迷うていることを 悟るのです 」安田理深師

 

 聖道門仏教では、自分の力でさまざまな修行をし、仏に成っていくことを目的として、厳しい修行を積んでいきます。これは私たちの日頃の心からすれば、当然のことのように思えます。私たちの日頃の心とは、自らの努力でよりよい人間になっていくことこそをよしとするのです。

 しかし、親鸞聖人は比叡山で20年間そのような厳しい修行を積みましたが、それでも決して救われない我が身の現実を突きつけられました。そして、比叡山を降り、法然上人のもとで南無阿弥陀仏のお念仏の教えに出遇い、救われていったのです。

親鸞聖人はそのようなご自身の信心を『歎異抄』において


いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』第2条)


とおっしゃり、またそのような我が身が救われるのは、


煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれ  みたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(『歎異抄』第3条)


と、迷いを離れることができない我が身をこそ、煩悩の身のままに救い遂げようと阿弥陀如来は願い誓われているのだから、その願いが込められた南無阿弥陀仏のお念仏を申すことこそが、煩悩から離れられない我が身の唯一の道であると教えてくださっているのです。

 ですから、私たちにとって大事なことは、仏さまの教えを聴聞させていただくことを通して、我が身の事実をはっきりと知らされること以外にはないのではないでしょうか。それこそが、念仏の一道であります。