突然の病、死と向き合うには 京大名誉教授・鎌田東二さん
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(こころのはなし)突然の病、死と向き合うには 京大名誉教授・鎌田東二さん
■家族・友人と命語り、最後はお任せ
最近、記者(42)の周りでは病気で手術を受ける人が増えた。30、40代のがんも多く、ひとごととは思えない。突然、死を意識せざるを得ない病が降りかかったとき、どう向き合ったらいいのだろう。心の痛みを対話などで癒やすスピリチュアルケアの専門家で、宗教学者の鎌田東二(とうじ)・京都大名誉教授(72)は自身もステージ4のがんが見つかり、治療を続けている。京都の自宅を訪ねた。
――がんが見つかったのはいつですか。
2022年10月、夕食の後におなかがゴロゴロと鳴り出しました。何日かすると、おなかがふくらんできました。自覚症状の始まりです。12月に大きな病院でCTスキャンを撮りました。ステージ2か3の大腸がんと告げられました。
――すぐに手術を受けたのですか。
23年1月11日に約5時間の腹腔(ふくくう)鏡手術を受けました。そこで肝臓への転移がわかりました。
手術後、合併症になりました。2週間の絶食療法が続きました。2月中旬のPET検査で、大腸、肝臓に加え、肺、へその下のあたりのリンパ節にも転移が見つかり、ステージ4と告げられました。
――スピリチュアルケアの専門家として、どんなことを考えましたか。
「がんを受け入れて生きる」とは、どういうことか考えました。アメリカの精神科医のキューブラー・ロスが1969年、死にゆくプロセスを科学的にとらえています。
病を告げられてから五つの葛藤があり、最初は「否認」です。頭では理解しようとしても、何かの間違いだと否定します。次に「怒り」です。もっと悪いことをしている人はいるのに、なぜ自分が、と考えます。
3番目は「取引」です。信仰心がなくても神仏にすがり、これをやり切るまで生かして、と取引します。4番目が「抑うつ」です。もうだめ、神も仏もいない、とあきらめの気持ちになります。
最後が「受容」です。死は自然なことと考えられるようになり、静かな時間を過ごすことができます。
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――ご自身はいかがですか。
宗教や死生観を50年近く研究し、普段から死を意識してきました。そのせいか、5段階目の「受容」が強いんです。いきなり「受容」したという感じです。
それでも健康を失うと、絶望したり、うつになったり、負の感情が連鎖します。私は合併症による2週間の絶食療法がきつかった。このまま体力が落ちて死ぬかもしれない。治っても今までのように動けるのか。患者が抱く不透明感に直面しました。
このとき、詩を作りました。自分のなかに起こる心の叫びを言葉にすることで、自分自身を支えることができました。
生きていれば必ず逆境が訪れます。逆境は暗く長いトンネルです。しかし、トンネルは必ず抜けられます。抜けたら、大きな光が与えられ、その人の人間性に強い力が加わります。
ただ、信仰心のある人のほうが逆境に強いことは間違いありません。
――どうしてですか?
信仰は心の平安に作用するからです。天国に行って神のもとで暮らす、極楽で先祖に会える、何でもいいんです。ただ、本当に天国に行けるのか、極楽があるのか迷います。
目まぐるしく心が揺れ動きながらも、信仰があれば、自分を内観できるだけの余裕を持てます。心にやさしい風が吹き、穏やかに自分の心の状態を見つめられます。
――無宗教の人も多くいます。
そういう人たちも自分の生き方に信念を持つことがありますね。自分の死生観を含めた生き方を尊重するには、相手の考え方も尊重しなければなりません。多様な死生観や信仰が交わることで、より生きやすい社会になります。
――働く世代は仕事ができなくなった時、心のゆとりが持てるでしょうか。
特に現役世代にとってはつらいことです。職場復帰ができても、もとの仕事に就けないかもしれません。養育費やローンに治療費が加わり、家族へ不安をかけないように気を使います。
その苦しみに対する回答は思い浮かびません。病で死と直面した人に、他人がどんな言葉をかけても、なぐさめになりません。それほど絶望は深いんです。
その状況で生きるかてを得るには、人と人の関係性しかないと思います。家族や友人の支えです。
――家族や友人も不安を抱えています。
だからこそ、普段から家族や友人と「人生会議」を持つことです。「死生観カフェ」でもいいですね。死をどう捉えたらいいか、死に向かうときにどう過ごしていくか、死生観を語り合うことです。そういう人間関係をいかに築いておくか。恥ずかしがらず、堂々と死を語り合いましょう。
若者には古典を読んでほしいと思います。古事記、日本書紀、プラトン、ソクラテス、論語、仏典、何だって構いません。この世には解決できないこと、答えの出ないことが存在していることを教えてくれます。深く考え、問い続けることで死生観の形成につながります。
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――死の恐怖は克服できますか。
病が進行し、体が機能しなくなっても、心のなかで起こることは最後まで生き続けます。その一つが、自分のなかに深く刺さった愛する人の言葉であり、自分の核として残っている言葉です。そういう言葉によって、自分の命を納得させられます。
そして、死を受け入れることは、「お任せすること」でもあります。私たちは、あらゆることを対象化し、分類します。あの人はだれ、これは何と認識することも分類です。
ただ、命は分類できません。丸ごと、そのままの流れにお任せするしかない。何にお任せするか。神でも仏でも自然でも大いなる何かでもいい。重要なのは、苦しみにあっても、心を開いていく道があると考えられることです。それは命を手放すこと、と言えます。命をまっとうできることに感謝し、最後には手放していく。
私も第2幕があるかわかりませんが、ありがとうと言って旅立っていきたいと思います。(聞き手・岡田匠)
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かまた・とうじ 1951年、徳島県生まれ。京都造形芸術大教授、京都大こころの未来研究センター教授、上智大グリーフケア研究所特任教授などを務めた。京都大名誉教授。日本臨床宗教師会会長。最近著に「悲嘆とケアの神話論―須佐之男と大国主」(春秋社)、共著に「グリーフケアの時代 『喪失の悲しみ』に寄り添う」(弘文堂)など多数。
(朝日新聞6月14日)
https://www.asahi.com/articles/DA3S15662082.html?fbclid=IwAR14SowoW4aK3oWPaT_DV0yy83mr5pyyScEt-21mPs0_eMlsVPxVmv4-WDU