シルヴィウス・ヴァイス(Sylvius Leopold Weiss)、作曲家。…リュートを焼き尽くした男。
シルヴィウス・ヴァイス(Sylvius Leopold Weiss)、作曲家。
…リュートを焼き尽くした男。
Silvius Leopold Weiss
(1687.10.12-1750.10.16)
リュート音楽にはまった事がある。
単純に言うと、その音色の美しさに、惹かれたのだ。
エヌモン・ゴーティエ(Ennemond Gaultier)や、ルネ・メッサンジョー(René Mesangeau)、ロベール・ド・ヴィゼー(Robert de Visée)など。
Ennemond Gaultier
Chaconne
個人的な話を公表したいほど自分自身に興味があるわけでもないので、あまり書く気もないし、書いたところで誰も興味もないとは想うのだけれど、若干、個人的な話を。
今、ベトナムに住んでいるのだけれど、僕は自分では亡命したような気になっていて、ようするに、僕は亡命者である。
亡命する前、日本を棄てちゃう前、なんだかどうしようもなく疲弊しきっていて、そんな中で、妙に惹かれたのが、これらのリュート音楽だった。
ごくごく単純に言って、やさしく、美しい。
癒される。しかし、もちろんだが、根本的な問題をは、なにも癒してくれない。
安らぐ。すくなくとも、その音楽が鳴っていて、誰にも邪魔されない限りは。
救われる。結局は、なにも解決せず、ゆえに、だれも救われてなどいないのだが。
なんて、音楽って無力なんだろうと想った。
なにも音楽をなじっているんじゃない。そのあまりの無力さに、切なくさえなったのだった。
ともかく、いずれにせよ、リュート音楽の、無根拠で、無意味な、たんなる美しさ。言うのは簡単だが、いまどき、そんな音楽に出会うことはあまりない。
リュートと言うのは、ギターの原型、というよりは、別の楽器のようだ。ヴィオールとヴァイオリンが全く別の楽器であるように。
系統としては、中央アジアのバルバットという楽器を祖形にする、中国や日本の琵琶といとこに当たる楽器らしい。
そういわれると、形と言い音色と言い、納得させられないこともない。
実際、もともとは撥(ばち)で叩いて鳴らしていたらしい。
爪弾くようになったのは、和音演奏のためだという。
バロック期、つまり通奏低音(バッソ・コンティヌオ、Basso continuo)の時代、チェンバロ=クラブサンとともに通奏低音担当の楽器として使われた。
いくつかのよくある誤解を解いておくと、通奏低音とは、基本的にはいわゆるロック・バンドで言うリズム隊(ベース・ドラムス)のようなもの、である。…打楽器ではないが。
かなりむちゃくちゃな比喩なのだが、言いたいことはわかっていただけるのではないか。
ベースとリズム・ギターがコードを規定とリズムを規定する。ドラムスが打楽器としてリズムをシンプルに明確化する。そして、そうやって形成されたグルーブの上に、リード・ギターやヴォーカル・ライン、ようするに旋律線が絡み合う、のである。
なので、文学的な比喩として使われる《通奏低音》…例えば「この小説は戦前の混乱期の暗い世相を通奏低音として、ある少女と少年の純愛を描いたものである」云々の言表は、結構無理がある。
通奏低音がある意味音楽のすべてと言ってさえよく、バロック音楽に独特のグルーヴを与えるのも、多くは通奏低音の仕事である。
次に、チェンバロはピアノの祖形とはいえない。
まったく、別の楽器である。原始的なピアノ・フォルテがチェンバロであるかのような誤解は、根本的に修正されなければならない。音も違えば、調弦も違い、そもそも弦をハンマーで殴って響かせるピアノのシステムと、弦をはじいて鳴らせるチェンバロのシステムでは、形はともかく、むしろどこも似ている部分がない楽器である。
考えようによっては、むしろチェンバロはリュートなどの爪弾く弦楽器に近い。
故に、同族楽器として、チェンバロとリュートはときに一緒に通奏低音を担当したりもする。
個人的には、チェンバロだけのアンサンブルよりも、リュートの追加されているアンサンブルのほうが好きだ。
より、グルーブがつま先立つし、硬く鋭いチェンバロの音の背後にリュートの柔らかい響きが鳴ると、音に厚みと深みが生じる。
Robert de Visée(1650-1725)
Suite d'Amila
Prelude
Tombeau du Vieux Gallot
Courante
La Venitienne du Mr. Fourcroy
La Montfermeil
Chaconne
そして、リュートはハイドンたちの古典派時代には急激に廃れる。もっとも、それ以前に、バロック期を通して、ゆっくりと衰退し続けていた、と言うべきかも知れない。
衰退の理由については、ハイドン時代においては、単純に音量の問題だ、と言う気がする。古典派を極端に単純化すると、リズムは極端にシンプルにして、逆に暗示されるリズム的な可能性、和声、旋律あるいはモティーフの展開をより自由にした、と言えると想う。
声部はより重層的に展開されるので、当たり前だが合奏主体になる。合奏主体になると、音量の問題で、他の楽器とつりあいの取れないリュートはそもそも存在場所を確保できない。
マーラーの交響曲第7番で、大オーケストラのなかでも何のかんの言ってリュートが聞こえるのは、そう言う風にちゃんと音楽が書いてあり、そして、特異的なソロ楽器として特別に使われるからである。
クラシック・ギターでも、例えば《アランフェス協奏曲》のように、がっつりと協奏曲として書かれてしまえば、実際問題として、ギターの音は殆ど聞き取れない。
だから、あれはあくまでCDやレコードで聴くべき曲だ、という説さえある。
バロック時代の衰退に関しては、単純にチェンバロに負けたのだ、と言う気がする。
リュートの表情豊か過ぎる音色よりも、むしろチェンバロのかつかつ鋭く尖がっただけの美しくない音色(リュートに比べれば、だ)のほうが、作曲としては表現の自由度がより高い。
暗示が効くからだ。美しすぎるリュートはむしろ、すべてを語りすぎてしまう。
逆に、さらにチェンバロがピアノという、それこそ本当に無味乾燥な音色に敗北していくのも、そこに理由がある気がする。
ピアノは、音色の無味乾燥さおよび音量において、楽器の王者になるべくしてなってしまったのだ。もちろん、音色それ自体としては、あの、匂うようなチェンバロには遠く及ばない。
そんな、リュート音楽ばかり聴いていた時期、どうしても苦手だったのはリュート音楽の王者、シルヴィウス・ヴァイスの音楽である。
Silvius Leopold Weiss
Lute Sonata n. 1 in F Major
1. Prélude
2. Allemande
3. Courante
4. Bourrée
5. Sarabande
6. Minuet
7. Gigue
そのとき、初めて知ったわけではない。実は、その前からたまに聴いてはいた。メジャーではないが、結構、バロック・ジャンルでは有名でなくもない人だからだ。…有名じゃないけどね(笑)。全く。
どんなときに聴いていたのかと言うと、強烈な毒薬に媚薬を塗って更に高山の至純の岩清水で飲んだような、あの、ルイ・クープラン(Louis Couperin, 1626?- 1661?)のチェンバロ音楽にはまっていたころだ。
留保無き天才ルイ・クープランをずっと聞いていると、刺激が多すぎてさすがに耳が痛くなるチェンバロの音自体に飽きるときがある。そんなとき、聞いていたのである。
時代も違うので、違う様式の音楽だが、その本質が同じだ、と想う。うまく言えないが。
ようするに、無慈悲なまでのデモーニッシュな情熱が、である。
それも、発熱する情熱ではなくて、冷たく突き放したような情熱。
この、シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス、ヨハン・セバスティアン・バッハのほぼ同時代者である。
すでに、リュートなど時代遅れの忘れられかけた音楽になっている時代だ。
バッハとは、似ていると言えば似ている気がする。
例えば、バッハの《無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータ》や、《無伴奏チェロ・ソナタ》に、どこか似ている音楽をあげろと言われたら、真っ先にあげてしまうかもしれない。
あるいは、チェンバロのための一連の仕事など。
そして、二人とも、かならずしもユーモラスな音楽とはいえない。
ベートーヴェンやマーラーにさえある、想わず笑ってしまう瞬間が、この人たちには極端なほどに不足している。
バッハの場合は、理論ガチガチの変態的な理数性によってであり、ヴァイスに関しては、その情熱のあまりの辛辣さによって、である。
ヴァイスは辛辣で、厳しく、痛く、悲しく、硬質に疾走する。バッハなどより明らかに、その表現の硬さと速度は研ぎ澄まされている。すくなくとも、僕にはそう聴こえる。
ヴァイスの音楽には、バッハの音楽の大半にはない雄弁な情熱があって、リュートは、何をどうというわけでもなく心を掻き毟ってやまない音色を鳴らす。
そして、まるで、チェンバロであるかのように、あの、繊細なリュートがかき鳴らされるのである。
チェンバロとリュートは、基本的に音が似ていなくもない。同じように、弦をはじいて、かつ、共鳴させる楽器だから、かも知れない。
ヴァイスによって、リュート奏法、あるいはリュート音楽作曲法は、チェンバロにおけるそれと同じ表現的可能性を獲得したと言える。
が、それこそがまさにリュートという楽器の存在価値自体を崩壊させた、とも言えるのではないか。
リュートをチェンバロみたいに鳴らすくらいなら、単純にチェンバロを鳴らしたほうが早いからである。
ヴァイスは、リュート音楽にとっての、…誰だろう?ベートーヴェンとか。ビートルズとか?…そんな、王様扱いの作曲家だ…という、勝手なイメージがあるのだが、それはちょっとうけがえない。
むしろ、リュートを美しくリュートそのものとして鳴らす、という、単純な王道から言えば、明らかに異端の狂った音楽だからだ。
とはいえ、それがどうした?
すくなくとも、彼の音楽を聴いている間は、そう想ってしまう。
ここまで研ぎ澄まされた音楽を鳴らすなら、別にそれでいいじゃないか。
もっとも、聴き終わってしまえば、なんだか非常に倒錯的な体験をしたような、ちょっといびつな感覚に襲われてしまう。
リュート音楽にはまっていたとき、私がヴァイスを嫌悪していたのは、単に、この理由による。
ヴァイスの曲には、リュートの音がしない。まるでチェンバロのように鳴らされるリュートを聴くのだが、しかし、もちろんリュートのためだけに書かれた曲だから、リュートにしか鳴らせない音が確かに鳴ってはいるのである。
考えようによっては、とても、居心地の悪い音楽だ。
もっとも、今は、大好きだ。リュート音楽熱が醒めて、単純に多様な楽器の一つして楽しむようになったからである。
先に、僕は亡命したのだ、と書いた。
亡命した瞬間に、僕は日本人になってしまった。
外国にいればいやでも日本人としてみられる。だから、日本人として生きざるをえなくなる。
そして、対象化されたおかげで、日本語という言語が見えるようにもなった。
日本人たちの姿についても、そうだ。
それで、結局、柄にもなく小説などを書いてしまうようになったのだった。
そんな中、不意に想い出されたのが、いびつな、ヴァイスの音楽だった。
評価することは、出来ないと想う。
所詮は、まともにリュートを鳴らさなかったリュート音楽作曲家なのである。しかし。
この取り付かれたような情熱は、にもかかわらず、単純に美しく痛い音楽そのものとして、僕には聴こえる。
僕にとって、ヴァイスは、いかにしても正当化できず、評価に値しない、誰よりも美しい音楽を書いた作曲家なのだとしか、言いようがない。
Lute Sonata n. 5 in G major
1. Prelude
2. Allemande
3. Courante
4. Bourrée
5. Sarabande
6. Menuet
7. Gigue
2018.07.01
Seno-Le Ma