2023.6.18 弘法大師ご誕生1250年記念青葉祭り in 善住寺
令和5年6月15日は弘法大師さまの1,250回目のお誕生日。
その50年ごとに訪れる大きな節目を記念して、全国の真言宗寺院ではそれぞれに法要が行われていますが、その3日後の6月18日に善住寺でも青葉祭り法要を行うことができました。
善住寺の密教婦人会が主催となり、檀家内の婦人会員に広く呼びかけ、また護持会の役員さま方にも来賓として参列していただき、ちょうど100名で盛大にお祝いすることができました。
「南無大師遍照金剛」と弘法大師さまの名を呼ぶ「御宝号」の旗がたなびいています。
午前8時半ごろになると、皆がだんだんと集まって来られました。
「いいお天気となり、本当にありがたい」と皆が口々におっしゃいます。
役員の皆様は特に早く来て、8時過ぎくらいには会員の方々へおもてなしのために待機していてくださいました。
弘法大師様、1250才のお誕生日おめでとうございます!
堂前で花御堂(はなみどう)のお大師様に甘茶をかけてお祝いします。
甘茶をかけるのは、「お釈迦様やお大師様などの聖人がこの世に降り立つ時に瑞気が満ちて龍が現れ、甘露の法雨を降らせて世の中が平和へ向かう合図となる」という言い伝えがあり、皆がその平和を享受させていただいていることを改めて想うためです。
お線香をお供えし、お大師様に甘茶をかけて、甘茶をいただきます。
役員の山本早苗さんと西村裕子さんが皆様に甘茶をお接待していきます。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甘茶(あまちゃ)とは、アジサイ科の落葉低木のアジサイ(学名:Hydrangea macrophylla)の変種の若葉を、8月下旬に採取し、日干しして乾燥させた物に、水を噴霧し樽などに詰めて24時間発酵させたものを蒸して揉捻し、再度乾燥させたもの。
また、それを煎じて作った飲料である。
今日の法要のために、隣町の村岡区和池にある安養寺の西浦住職をお迎えしました。
履物が美しく並び、皆が堂内に入っていきます。
午前中は堂内にまだ涼しさが残っていますが、だんだんと暑くなりそうです。
9時30分、密教婦人会副会長の宮谷恵さんの司会により、青葉祭りの開会が宣言されました。
得度されているお弟子の中村敏さんが「三通三下(さんつうさんげ)」の鐘を打ち、集会所でまつ僧侶たちに参集するよう知らせます。
鐘の音を聞き、集会所(しゅえしょ)より職衆(しきしゅう)が歩みを進めてきました。
鐘が鳴り終わると共に、ご詠歌隊の代表・山本弘子さんの詠頭により御詠歌が始まります。
「善住寺の御詠歌」の声に迎え入れられて「入堂(にゅうどう)」していくのです。
お大師さま、献花(けんか)、職衆の順で本堂内へ入っていきます。
まず、護持会役員の谷岡文彦さんと田村幸史さんに花御堂を運ばれて、お大師さまの入堂です。
甘茶をこぼさないように、慎重に運んでいただきました。
本堂所定の場所に設置完了です。
続いて、お大師様にお供えする一対(いっつい)のお花を持った、献花(けんか)のお二人が入堂です。
今回主催の婦人会会長の川中清美さん。
そして、副会長の中井美登里さんです。
本堂内陣で受け取るのは、お弟子の中村敏さんと藤田照二さん。
大役をお務めいただき、ありがとうございます。
花御堂と献花が安置され、お大師様が皆の目の前におられることを感じられるようになりました。
最後に職衆の三名が入堂します。
職衆は和池安養寺様、善住寺住職、善住寺名誉住職の三名です。
御詠歌隊は法具を鳴らしてお唱えします。
それ以外の会員はそれを聞いたり口づさみながら、入堂の儀式を見守りました。
御詠歌が終わり、つかの間の静寂です。
職衆がそれぞれの座坪(ざつぼ)に着き、作法と読経が始まりました。
弘法大師様の誕生を祝い、我々に救いの手を差し伸べて下さることに感謝する、報恩法要の始まりです。
導師は洒水(しゃすい)という「堂内を浄め、皆の身心を浄める水」をそそぎ、脇導師の二人は「讃(さん)」という仏を讃える声明(しょうみょう)を高らかに唱えます。
讃を唱え終わると、妙鉢(みょうはち)を30回鳴らします。
シンバルのような仏具を鳴らすことで、「心を今に向けること」や、「皆の心に仏の響きを入れる」という意図をもった作法です。
妙鉢が鳴り終わると、名誉住職が「慶讃文(けいさんもん)」を読み上げました。
弘法大師様の一生を讃え、我々末徒は人生の拠り所となる教えに出会えたことを喜び、その教えを守っていくことを改めて誓うのです。
そして、弘法大師様が持ち帰った最高の経典である「理趣経(りしゅきょう)」を唱えます。
職衆が読経している最中に、全員に行き渡るようにお焼香を回しました。
香りによって心が浄められるのです。
この機会に巡り合えたことは、とても有り難いことです。
読経を聞きながら、静かに心を調えていきます。
前半の40分ほどはただただ僧侶の読経を聴いていただいていましたが、後半20分ほどは皆で読める「在家勤行」を一緒にお唱えすることができました。
声を揃えてお唱えすると、とても気持ちいいです。
「青経典」と呼んでいる、出家者ではなく在家者のためのお経です。
光明真言を7回、「南無大師遍照金剛」の御宝号を21回、最後に回向文をお唱えして、読経の終了です。
再び司会が入ります。
御詠歌「誕生和讃」が西村節子さんの詠頭で始まりました。
弘法大師さまのお生まれになった様子を歌にしたものです。
(誕生和讃)
一 帰命頂礼(きみょうちょうらい)遍照尊 宝亀五年の水無月の 望(もち)のみ空に紫の 雲の棚引く朝ぼらけ
二 楠の青葉の香ばしき 館の奧に伏し給う 玉依御前(たまよりごぜん)の懐を 出でゆき給う聖(ひじり)をば
三 朧(おぼろ)に見しは夢ならで 現(うつつ)なりけん人草を 救いまさんとみ仏の 姿を人によそおいて
四 生まれましける嬉しさよ 祝いまつらん諸共(もろとも)に
(楊柳) 南無大師 生まれ給いし よき日をば いざや祝わん 幾千代までも 南無遍照尊 南無遍照尊
皆さん、素敵なご詠歌をありがとうございました。
ここで密教婦人会長の川中清美さんより皆さまへ挨拶があり、皆さまへの御礼が述べられました。
続いての「来賓挨拶」では、善住寺護持会長・川元勝利さんより、主催側への労いと感謝、これからも護持会と婦人会が力を合わせて善住寺を護っていきたいというお願いをされて挨拶とされました。
お勤めを終え、職衆が座坪から立ち上がりました。
そのタイミングで西村みよ子さんの詠頭で御詠歌「相互供養和讃」が発声され、職衆をお見送りです。
退堂します。
今回は渡り廊下まで席で埋めていたので、職衆は外を回ったのです。
「長座ありがとうございました」
集会所へ帰ってきて、いい法要になったことを喜びました。
予定より10分ほど遅れましたが、いい感じの時間配分で次に進みました。
11時10分より1時間ほど「講話」のお時間です。
住職・山地弘純が、「弘法大師の一代絵伝」をお話しました。
皆さんには絵を見ていただいて、その内容を住職が説明していくという「絵解き」という方法です。
皆さんにお配りした資料にある絵図は、高野山金剛峰寺のホームページから使わせていただきました。
これは大正5年4月26日に、東京の細川糸子さんが「高野山御開創1100年記念大法会」の記念として奉納された26枚の「弘法大師行状図絵」です。
この絵図はお大師さまのご生涯を描かれたもので、ご足跡や教えが判りやすく描かれています。
皆が1枚1枚絵を確認しながら
よく耳を傾けてくださいました。
一生懸命メモを取る方もありました。
「うんうん」とうなずきながら視線を合わせて下さる方もありました。
① ご誕生
弘法大師さまは、宝亀五年(774年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになりました。
讃岐の郡司というお役人である父親の佐伯善通(さえきよしみち)、母親の阿古屋(あこや ー 別名:玉依御前たまよりごぜん)の間に生まれた8人兄弟姉妹の第5番目のお子様である言われています。
お名前は佐伯真魚(さえきまお)。 両親共に「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入る」という夢を同時にみられてご懐妊され、それから12ヶ月の長い妊娠期間を経て生まれてこられたということです。
楠の樹の青葉が青々と茂る中に生まれたので、弘法大師様のお誕生日を「青葉まつり」と称して毎年お祝いします。
現在は、お生まれになった場所に、父親の善通(よしみち)の名を取った「善通寺(ぜんつうじ)」というお寺が建てられています。
② 捨身誓願(しゃしんせいがん)
幼年期の真魚さまの遊びは、土で仏さまを作り、草や木を集めてお堂を作ったりして、仏さまを拝むことでした。
七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんがだけ)という崖に登り、「私は大きくなりましたら、世の中の苦しんでいる人々、困ってる人々をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえさせたまえ」と、谷底めがけてとびおりました。
すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、真魚さまをしっかりとうけとめたという伝説があります。
真魚さまは大変喜び、改めて苦しんでいる人々を救う誓いを立ててより一層勉強に励まれました。
七〜十二歳までの間、現在の香川県三豊市の弥谷寺(いやだにじ)にある岩の洞窟(獅子之岩屋)で学問に励んだといわれています。
③ 都へ遊学
真魚さまは勉学に秀でていたので、ご両親は中央の役人になることを望んでいたようです。
十五歳の時に都(長岡京)へ出て、叔父さんの儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)について論語などの学問を学びました。
阿刀大足は真魚さまのお母さんのお兄さんか、お母さんの妹の旦那さんであると考えられています。
そして期待通りに成長された真魚さまは、十八歳で大学に入られました。
しかし、大学で習う儒学を中心とする学問は、出世を目的とするものであり、人々の真の幸福へと繋がるものではありませんでした。
真魚さまはいつしか仏教に興味をもつようになっていきました。
そして、度々奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんぞうだいとく)の元を訪れては、仏の教えについてのお話をお聞きになるようになりました。
④ ご出家(しゅっけ)
人々の皆が幸せになる道を求めて、仏道の修行を始められた真魚さまは、まもなく大学を去って、奈良県の大峯山(おおみねさん)や徳島県の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは高知県の室戸崎(むろとのさき)などの山岳の霊地を巡って人生の大いなる問いに対する答えを得るための修行を続けられました。
そして、ついに親戚の反対を押し切って出家することを決心。
二十歳の時、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳を師として 髪を剃って得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。
こうして身も心もみ仏様の弟子となられました。
僧名はのちに如空(にょくう)とあらためるなど、まだ定まり切っていない時期だったようです。
二十四才の時に「三教指帰(さんごうしいき)」という文書を記し、出家を反対する家族や親族に対する出家宣言書として、儒教や道教ではなくなぜ仏教を選んだのかを説明しています。
⑤ 大日経との出合い
二十二歳の時、名を空海(くうかい)とあらためられ、当時の名僧高僧にかたっぱしから仏の教えを聞きましたが、どうしても満足することができませんでした。
そこで奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願されました。
すると、満願の二十一日目に「大和高市郡(やまとたけちのごおり)の久米寺東塔の中に汝の求めている教えがある」という夢のおつげがあり、信じて久米寺へ行くと、「大日経(だいにちきょう)」という最高の経典と出合うことができたのです。
ところが、その大日経には「曼荼羅(まんだら)」というものなど、どうしても言葉だけでは理解できないところがありました。
ですが尋ねて答えることができる人は、この日本には一人もいません。
そこで、ついに空海さまは、唐(中国)に渡る決心をなされました。
⑥ 入唐求法(にっとうぐほう)
唐(中国)に名僧のおられることを聞いた空海さまは、三十一歳の延暦二十三年(804年)七月六日、留学僧として(薬学を学ぶ留学生として入れてもらったという説もあり)遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆されました。
天台宗を開かれた最澄(さいちょう)さまも、このとき唐に渡られました。
今日とちがって船も小さく、いくたびか暴風雨にあったすえの八月十日、九死に一生をえて福州の赤岸鎮(せきがんちん)に漂着しました。
大使が手紙を書きましたが、唐の役人は一行をあやしんで、上陸させてくれません。
そこで空海さまは大使にかわって州の長官に手紙を書きました。
長官はその文章と書体の立派なことにおどろかれ、「これはただの人ではない」と早速上陸を許されました。
その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上られました。
⑦ 恵果和尚(けいかかしょう)より真言密教を継承
長安の都に入られた空海さまは、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行かれました。
恵果和尚は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。
恵果和尚は空海さまに会われるや「私はずっとあなたが来るのを待っていた」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)という引継ぎの儀式の場に入ることを勧められました。
延暦二十四年(805年)六・七・八月と三回にわたり灌頂を受法した空海さまは、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となられました。
恵果和尚は空海さまに、「真言密教の教えはすべて授けた。早く日本に帰ってその教えを広めよ。蒼生の福を増せ。」と遺言なされ、同年十二月十五日、大勢の弟子に見守られてお亡くなりになりました。
亡くなる折、「空海と私は浅からぬ関係で幾世にもわたり互いに師となり弟子となって真言密教を広めてきた間柄である。来世は東の国(日本)に生まれかわって空海の弟子となろう」と言い遺されたと言われています。
ちなみに空海さまのお誕生日は恵果和尚のお師匠である不空三蔵の亡くなった日でした。
⑧ 五筆和尚(ごひつわじょう)
亡くなられた恵果和尚の生涯をたたえる石碑を建てることになり、弟子四千人の中から、特に空海さまが選ばれてその碑文を書かれました。
その素晴らしさが唐全土に知れわたり、ついには皇帝のお耳に入り、以前王義之(おうぎし)という書の達人の書が飾ってあった宮殿の壁に新しく書をしたためるよう、空海さまに命ぜられたのです。
その場で空海さまは、五本の筆を両手・両足・口にはさみ、一気に五行の書を書き上げました。
その文字の見事なことに深く感心された皇帝は、空海さまに「五筆和尚」という称号をお贈りになりました。
このように、中国でも認められるほどの書の達人であったということです。
⑨ 飛行三鈷(ひぎょうさんこ)
恵果和尚より、真言密教の教法を余すところなく受けついだ空海さまは、大同元年(806年)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。
二十年の留学の予定を、わずか二年で帰国することにしたのです。
空海さまは明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ教えを広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。
すると三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行ったといいます。
この三鈷を「飛行の三鈷」と呼んでいます。
三鈷というのは両側が三つに分かれている金属性の鉾(ほこ)であり、元々はインドの神々が敵と戦う武器だったのですが、それを密教では相手を傷つける道具にするのではなく、人間の心の中にある煩悩を打ち砕くための法具となったのです。
⑩ 立教開宗(りっきょうかいしゅう)
明州から船に乗った空海さまは、帰路も何度も嵐にあいます。
今にも船が沈みそうになった時、空海さまが唐で作った不動明王に対して祈願をすると、不動明王が荒波を切ってその間を進むことにより無事に乗り切ることが出来たという伝説があります。
この不動明王は波切不動と言われ、今でも高野山の南院(なんいん)にお祀りされています。
こうして大同元年(806年)十月、無事九州の博多に帰りつきました。
帰朝の御挨拶と共に、「真言密教を日本全国に広めることを、お許し願いたい」という上表文を天皇陛下におくりました。
大同四年(809年)、都へ 上った空海さまは、翌弘仁元年(810年)、時の帝嵯峨天皇(さがてんのう)に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開くお許しを得て、いよいよ真言密教を 日本に広め、世の中の迷える人、苦しむ人の救済と、社会の浄化にお尽くしくださることになりました。
弘仁三年(812年)に嵯峨天皇の思し召しで高雄山寺(たかおさんじ)に入山し、ここを足場としてに真言密教を浸透させていきました。
⑪ 般若心経で疫病祈祷(えきびょうきとう)
弘仁九年(818年)の春、日本中に悪い病気が流行し、老人も若人も病気になり、国中が火の消えたように、暗い気持につつまれました。
時の帝、嵯峨天皇はとても御心配になり、空海さまを宮中にお召しになり相談しました。
空海さまの勧めで嵯峨天皇は、ただ人々を救いたい思いで般若心経一巻を金字で一字三礼(一文字書くごとに三礼する作法)で写経され、仏前にお供えされました。
空海さまはそのお写経に仏の力を加えます。
その大いなる祈りの力により、今まではびこっていた病気はたちまちおさまり、苦しんでいた人たちは元気になって、空海さまの御徳はいよいよ高くなったといいます。
この時の祈りの内容が、有名な「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」といって、今でも病者に祈願するときに唱えられるお経です。
⑫ 神泉苑(しんぜんえん)の雨乞い
天長元年(824年)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々の苦しみは大変なものでした。
この時、空海さまは淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされました。
神泉苑は龍を生かす水飲み場として作られた場所であり、中心に大池があります。
ここで雨を予知するという孔雀明王を祀り、請雨経法 (しょううきょうほう)というご祈祷を行ったそうです。
すると、善女竜王 (ぜんにょりゅうおう)という竜神が現れ、今まで雲一つなく照り続いた大空はたちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせ、全国の田畑を潤したといいます。
生物はよみがえり、草木は生色をとりもどしたことで、人々は喜ばれ、空海さまのお徳を讃え、その法力をあがめられました。
⑬ 即身成仏(そくしんじょうぶつ)
弘仁四年(813年)正月、嵯峨天皇は空海さまをはじめ、仏教各宗の高僧を宮中へ招き、仏教のお話を聞かれました。
当時の奈良の仏教では「長い間修行しないと仏様にはなれない」といってきましたが、空海さまは「人はだれでもこの身このままで仏様になることができる」という「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説かれました。
奈良の高僧たちは即身成仏の教法を信じなかったので、空海さまは、手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念じました。
するとそのお体からは五色の光明が輝き、大日如来そのものの姿となられまたといいます。
今まで非難していた高僧たちも空海さまを拝まれ、天皇さまの信仰もいよいよ厚くなったということです。
⑭ いろは歌と綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
当時、貴族の学校はありましたが、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。
空海さまは、だれでも勉強できるように、天長五年(828年)十二月、京都に綜芸種智院という学校をお創りになられました。
校名の「綜芸」とは「あらゆる学問・学芸」を意味し、「種智」とは「全てを知る知恵」のことです。
授業料は無料で、衣食は給付制でした。
また、当時学校で習う文字はほとんど漢字で、小さい子供たちには読み書きはむずかしかったので、空海さまは子供たちにもわかるやさしい言葉で、仏の教えの真髄を、四十八文字の仮名文字にして教えられました。
「いのはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす(ん)」
これが有名な「いろは歌」です。
こうして空海さまは教育にも力を注がれました。
⑮ 四国霊場の開創
空海さまは若い頃、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽や、土佐(高知県)の室戸崎で御修行されたことは先に述べました。
その後四十二歳の頃、改めて阿波、土佐、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)の四カ国をお巡りになり、各地でいろいろな奇蹟、霊験をお残しになっています。
医学、薬学にも通じた空海さまは苦しんでいる人々を救って歩き回られたのです。
そんな霊跡にお寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場が開かれました。
今では空海さまの足跡をしたって四国遍路をする人々が年間数十万人にものぼり、悩み苦しむ人々が御利益をいただいておられます。
「あな嬉し 行く帰るも 留まるも我は大師と 二人連れなり」という歌にあるように同行二人という言葉が生まれました。
「一人じゃないよ」と空海さまはおっしゃっています。
⑯ 満濃池(まんのういけ)の改築工事
讃岐国(香川県)に、周囲16キロメートルに及ぶ満濃の池がありました。
雨の少ない讃岐では、田畑を潤すのに大切なため池でありますが、国の役人や、技師が何千人という人を使って何度改築しても、ちょっと雨が降ったり、風が吹くと堤防が決壊するので、農民たちは困っておりました。
弘仁十二年(821年)天皇は太政官符(だじょうかんぷ)を下し、土木技術にも秀れていた空海さまに、満濃の池改築の責任者を依頼されました。
空海さまが讃岐へ着任されると、そのお徳をしたって多勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。
この工法は、現在にも通用するダム技術と言われています。
空海さまは、「工巧明(くぎょうみょう)」という学問書を唐の国から書写して持ち帰っていますが これが工学や技術が含まれる土木の指南書であったといわれています。
⑰ 東寺の下賜(かし)
空海さまはしばらく高雄山寺(たかおさんじ)で、教えを弘めるために尽力されてきましたが、何かと不便なことも多く、手狭に感じるようになりました。
やがて弘仁十四年(823年)正月、嵯峨天皇から京都の東寺を下賜されました。
もともと平安京が作られたとき、東側の心の平安を護る東寺、西側の心の平安を護る西寺が建立されたといいます。
その東側を任されたということは、真言宗の立場はさらにゆるぎないものとなりました。
空海さまは、この御恩に応えるため、東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と称して、皇室の安泰を祈願され、また真言密教のますますの浸透に努められました。
その寺名の如く「王を教え、国を護る」という使命を帯びたお寺となっています。
「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」という歌もあります。
⑱ 弘法も筆のあやまり
ある時、宮中諸門の額の字を書くよう命令が出されました。
すでに日本において「三筆」として名をとどろかせていた空海さまは、応天門の額を担当することになりました。
三筆とは空海・嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)の平安初期における三名の書の達人のことです さて、いよいよ「応天門」と文字を書き、門の上部に掛け終わってから額を見てみますと、なんと「応」という字の第一点が抜けてしまっています。
それに気づいた空海さまはすぐさま下から墨をつけた筆を投げられたところ、見事に「応」の第一点のところに命中し、立派な点が打たれたといわれています。
この逸話から「弘法も筆のあやまり」という諺が生まれたということです。
どんな達人にでも失敗はあるのだということと、それをどう取り戻すかが大事だという事を教えてくれる逸話です。
⑲ 御修法(みしほ)
空海さまはつねづね天皇陛下の御健康と、国民一人一人が幸せになり、世の中が平和になるようにと、祈念しておられました。
このことを末永く伝えるため、正月八日から七日間、御修法(みしほ)という御祈祷会を行い、結願(けちがん)という祈願最後の日には、お大師さまが親しく、天皇陛下の御身体に加持香水をそそがれました。
この尊い法会は承和二年(835年)正月からはじめられ、空海さま御入定(ごにゅうじょう)後も、毎年かかさず続けられております。
同様に、全国の真言宗寺院でも毎年お正月に修正会(しゅしょうえ)というご祈祷会を行い、世界平和と檀家の皆様の幸せをお祈りするようになりました。
善住寺でも正月三日間にしっかりとお祈りして、お札を檀家一軒一軒にお届けしています。
⑳ 高野山御開創(1)狩場明神(かりばみょうじん)
空海さまは真言密教を広める根本道場を開くにぴったりな場所を求めて、各地を探し歩いておられました。
ある時大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会いました。
狩人が「どこに行かれるか」と尋ねられたところ、空海さまは「教えを広めるにふさわしい場所を求めてずっと歩いています」と答えられました。
すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、毎晩光を放つ不思議な松の木があるのです。 この犬たちにその場所へ案内させましょう」といって、そのまま姿が見えなくなってしまいました。
こうして空海さまは二匹の犬と共に高野山へ上ることになります。
この狩人が、現在高野山檀上伽藍の山王院におまつりされている高野明神、別名狩場明神(かりばみょうじん)です。
㉑ 高野山御開創(2)丹生明神(にうみょうじん)
空海さまは、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神(にゅうみょうじん)というこの土地の神様のお社のところまで来られました。
すると、丹生明神さまが姿を現わされて空海さまをお迎えし、「今あなたがこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」と告げられました。
丹生明神は天照大御神の妹君となる神様で、この地はずっとこの女神さまにより神道統治されてきた土地でした。
その地を乗っ取るような形ではなく円満に受け継いでいけることから、ずっと丹生明神のことも大切にすることを誓い、こちらも高野山檀上伽藍のの山王院におまつりすることになりました。
仏教なのに神道の神様を大切にすることにはこのような理由があるのです。
㉒ 高野山御開創(3)檀上伽藍(だんじょうがらん)
二匹の犬に連れられた空海さまは、毎晩光を放つという不思議な松の木の下に案内されると、その松の枝に、なんと帰国の前に明州の浜辺から投げた三鈷がひっかかっているのを見つけました。
この高野山の地を見渡された空海さまは、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになり、早速真言密教の根本道場に定められました。
弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。
ちなみに但馬の大屋町にある天滝は「弘法大師が滝の霊気に打たれて、この地こそ仏陀の我に恵み給いし聖地と谷の数をかぞえたところ、千に一つ足らなかったため高野に求めた」という言い伝えがあるそうです。
㉓ 御遺告(ごゆいごう)
空海さまは、六十二歳の承和二年(835年)三月十五日に、自身の生い立ちや、宗門の今後のことなどを弟子たちに言い遺されました。
これらの二十五箇条の遺言を「御遺告(ごゆいごう)」といいます。
「私はこれより弥勒菩薩のお浄土である兜率天に上る、そして56億7000万年後、弥勒菩薩が現世に現れるとき、私も一緒に戻ってくるだろう」という内容もありました。
またご遺告以外にも素晴らしい言葉を遺しておられます。
「仏の教えは一言で言えば、自分の利益と他人の利益を一致させることである。」
「嫉妬は自分とそれ以外の人とは別々の存在だと思う心から生じるのだ。」
「片手だけでは拍手できない。片足だけでは歩けない。右手と左手が感応して拍手になり、右足と左足が感応して歩く。だから相手が感応するまで祈り続けなさい」
「ものに決まった性質などない。悪人もいつまでも悪人ではない。」 などなど。
大切にしたい言葉ですね。
㉔ 御入定(ごにゅうじょう)
こうして一週間前からお住まいの寺院の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印を結び、ついに三月二十一日に弥勒菩薩の浄土へと入っていかれました。
そして御入定から五十日目に、お弟子たちは空海さま御自身がお定めになった、奥之院の霊窟にその御定身を納められたのです。
「生身供(しょうじんぐ)」は入定後から現在まで1200年もの間続けられている儀式のひとつで、奥之院の維那(ゆいな)と行法師(ぎょうぼうし)と呼ばれるお仕えの僧が1日2回(朝6時と10時半)に、御廟の空海さまにお食事を届けることが行われています。
奥之院の御供所で調理され櫃に入れられたお食事は、嘗試地蔵前に供えた後に、御廟前の燈籠堂まで運ばれます。
空海さまは、天長九年(832年)の万灯万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。
つまり、「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくならないかぎり、私の願いは終ることはない」との大誓願を立てられています。
「南無大師遍照金剛」と唱える者たちのところにすぐに寄り添い、支えとなって下さり、霊験を与えて下さるのです。
㉕ 弘法大師の諡号(おくりな)
延喜二十一年(921年)十月二十一日の夜、醍醐天皇の夢枕に空海さまがお立ちになり、「我が衣が朽ち果ててしまいましたので、できることならば新しいお衣がいただきたいです。」といわれたそうです。
「空海上人は今も高野山に身を留めて、衣の袖が朽ち果てるまで衆生済度をしておられるのだ。」と感じ入られた醍醐天皇は、早速新しい御衣と弘法大師という諡号を贈られることにしたのです。
早速に十月二十七日、勅使である少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前にて詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われ、正式に「弘法大師」のお名前が贈られました。
大師号は二十五人の僧侶に贈られているのですが、単に大師と言うと空海さまを指すことが多く、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言ができています。
㉖ 御衣替(みころもがえ)
続いて観賢僧正(かんげんそうじょう)が、天皇からお預かりした新しい御衣を携えて高野山に登られました。
御廟前に跪いて礼拝し、弟子の淳祐(しゅんにゅう)に御衣を捧げさせて、御廟の扉を開きましたが、弘法大師さまの御姿を拝することができませんでした。
観賢僧正はご自分の徳が足りなかったのかと嘆き、一心に祈られました。
すると、立ちこめた霧が晴れるように弘法大師さまが御姿を現わされ、御衣をお取りかえすることができたといいます。
これ以来、今日にいたるまで毎年三月二十一日の御入定の日に、御衣替の儀式が行われております。
また随伴した淳祐が御衣替式で大師の衣にふれたところ、衣の香気が手からいつまでも消えなかったそうです。
その手のままに書き写した経典が「薫聖教(かおりのしょうぎょう)」と呼ばれ、今も残されています。
弘法大師絵伝(完)
時間配分が気になりましたが、うまく1時間で収めることができました。
みなさん、最後まで真剣に聞いてくださりありがとうございました。
後で「お大師様についてこんなに詳しく聞いたのは初めてでよかったです」と言って下さる方もあり、こちらも嬉しかったです。
12時10分に午前中の部を終了。
婦人会員はお昼休憩に入り、宮ノ下荘から発注した「ちらし寿司」をいただきました。
男性陣はお弁当を持って解散されました。
13時10分に午後の部が再開され、「密教婦人会総会」に入ります。
まずは庶務の西村裕子さんが令和4年度の活動報告をされました。
続いて会計の山本早苗さんが令和4年度の会計報告。
合わせて会計監査の橘政子さんが監査報告をされました。
令和5年度の活動計画は文書配布はなく口頭で行いました。
会長の川中清美さんが、春と秋の奉仕作業についてや、来年度事業として「移動総会」と称したプチ旅行を予定していることなどを述べられました。
事業報告や会計報告は文書を配布し、皆が確認してくさった結果、承認されました。
総会後は「余興」です。
今回は善住寺中級組の御詠歌披露が行われました。
西村節子さんの詠頭(ソロパート)です。
ソロに続いて、皆が一斉に発声します。
25名が狭いスペースにぎっしりと4列に並んでの奉詠です。
先輩方も温かい眼差しで見守って下さっています。
初級組の方々は「すごいな~」と思いながら見ておられるのでしょう。
余興を披露すると決まったのが日にちが迫ってからだったので、練習時間も少ない中での本番となりました。
それでも十分心に染み入る素晴らしい奉詠だったと思います。
御詠歌披露の後には、会員の阪本明美さんに「体操」を指導していただきました。
今日もかなり疲れたことでしょう。
みんなが楽しく笑いながら、身体をほぐすことができました。
阪本さん、ありがとうございました。
最後は福引きです。
みんな何が当たったでしょうか?
ささやかなお楽しみですね。
「今回の大当たりは、高野杉の腕輪念珠に、会員の紀子さんの手づくりバッグなどで~す。」と住職。
司会もいよいよ最後の読み上げです。お疲れ様でした。
副会長の中井美登里さんが閉会の挨拶です。
今日の感想と謝辞などでしっかりと締めてくださいました。
本当に素晴らしい一日となりました。
お大師さま、ありがとうございます。
ご参加の皆さん、ありがとうございます。
主催の皆さん、ありがとうございます。
感激しています。