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善立寺ホームページ 5分間法話 R⑩ R5.6.19日更新

2023.06.19 12:42

  「しあわせって」なんだろう―その③

「幸せって」なんだろうというテーマで、その③をお届けします。

 今年は浄土真宗の開祖・親鸞聖人がご誕生されて850年、来年は宗派が開かれてから800年を迎えますので、本願寺ではその慶讃法要が3月から5月にかけて30日間勤修されました。

聖人は90年のご生涯でしたが、晩年に五百数十首にも及ぶ多数の和讃を詠まれています。「和讃」とは、漢文で書かれた経文などを七五調の和文で記された仏教讃歌です。文字を知らず、読み書きのできない当時の人びとのために、おぼえやすく称え易いようにと願われたからでしょう。

その和讃の中に、「愚禿悲歎述懐」と名付けて詠まれた1首4句構成からなる16首の讃歌があります。その末尾には、「以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり」と記き添えられています。「愚禿」(ぐとく)とは、聖人ご自身が生涯名乗られた名前です。その和讃を読みますと、そこには身震いを感じるほどに実に厳しい心の内が吐露されています。つぎに、その中から二首八句を意訳して紹介します。

 〇うわべは誰しも/賢く善人らしく努力家を取り繕っていますが

  内は貪りよこしまな心が多い故に/偽りたぶらかすことが身に満ちているのです

 〇自分の本質である悪性は全くなくすることができず/ 心は蛇のようにしつこく

  蠍のように毒気があります/善行を修めてもつねに煩悩の毒が消えないので/真実でない行  為と名づけられているのです

「愚禿悲歎述懐」全句をとおして、親鸞聖人はご自身について、あらゆる煩悩をあますところなく完全に具え持っている者、すなわち「煩悩具足の凡夫」と述べられている。

煩悩とは、心身を苦しめ煩わす精神作用を示すことばであるが、なんとも赤裸々ですさまじいほどの聖人のお心である。

ところで、人間は、普段何をしても考えても見ても、自分のものの見方、考え方を持って暮らしている。つまり、自分の物差し、尺度を持って暮らしている。それは当たり前のことで悪いことではない。しかし、性質(タチ)が悪い場合が多い。自分の知性や経験のみが判断の規準になりがちで、自分の物差しは正しく、間違っていないと肯定して、自分の考えにそぐわないものは否定しがちになっていることです。したがって、そういう場合に恐ろしいことは、その自分の物差しはJIS規格ではないということを全く忘れているということです。

自分の意に従わない、沿わない考え方をする人に接すると、全く変な考え方をする人とか、了見が狭い人と拒絶し見向きもしません。世間で恐ろしい事件が生じても、なんという恐ろしい人、非人間的な人だと非難したり糾弾こそすれ、自らの自戒に繋げることは少ないのではないでしょうか。非難したり糾弾することを否定しはしません。秩序ある平和な社会を築くためには欠かせないことでしょう。何を述べたいのかというと、

人間は多くの人は心の中に闇を抱えている生き物だということです。親鸞聖人は、弟子・唯円との問答『歎異抄』(たんにしょう)の中で、人間は、「縁」が生じると人をも

殺すこともあるだろうと厳しく諭しておられます。

 

 私が長年にわたって保存している大切な手記があります。1997年に起きた神戸・連続児童殺傷事件のあと、娘さんの彩花ちゃんを殺された母親・山下京子さんが記された手記です。各紙に掲載された手記の一文を抜粋してつぎに紹介します。

 「人間とは、神聖と獣性を併せ持つ生き物。以前からそんな思いを持っていましたが、彼の手紙(加害男性からの手紙)を読んで、やはりこの世には、善だけが百%を占める人もなければ、悪がすべての人もいないのだと感じました。全ての人が光と闇を抱え持ち、ときには湧き上がる自分の魔性と闘いながら生きているのではないかと思います。その魔性に負けてしまった時に、人は罪を犯すのかも知れません。」

ここには、縁が生じると、自分も何をしでかすかわからないという自らの心の闇について凝視され、自分の物差しだけで暮らしがちの恐ろしさを述べておられるように感じました。

 本願寺の前ご門主・大谷光真様は、ご著書の中で「人間を評価する基準として、善・悪に二分すると混乱してわかりにくくなる気がします。この世に善人と悪人という二種類の人間がいるわけはありません。相対的な意味では悪人であってもよい面もあるし、自分は善人だと思い込んでいる人ほど、独りよがりの落とし穴に陥りがちです。自分は正しいと思うことから、他への怒りや憎しみが生じるもので、紛争の種になりやすい。」

と、指針とすべきお言葉を述べておられます。親鸞聖人は『正信偈』の中で、「邪見驕慢悪衆生」じゃけんきょうまんあくしゅじょう=おごりたかぶりよこしまな私、と自らを深く省みるお諭しのことばも示しておられます。

 親鸞聖人にとって、煩悩具足、邪見驕慢な私とは、阿弥陀如来さまのお導きによって

気付かれた内心を隠すことなく吐露されたのが十六首の和讃でしょう。

 私たちも、自分の物差しを常に見直し、仏さまの物差し、JIS規格の物差しを授かるように暮らしていくことが、「幸せ」をかみしめていくことに繋がるように思っています。

※ 次回は9月20日に更新予定です。

 天候不安定に加え、厳しい夏の気象予報が報じられています。皆さんどうぞお健やかにお過ごしください。