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KAWASAKI TANDEM TWINS

2018.07.05 09:58

KAWASAKI TANDEM TWINS

 1970年終晩、カワサキ製の飾り気の無いタンデムツインがグランプリシーンに出現。その僅か数年後にはWGPの250/350のチャンピオンシップを獲得。独占的とも言える明白な優勢と共に不屈の名声を即座に確立。それは、15年前にとてつもない16バルブ・フォアがホンダに貢献していた状況と殆ど同じ様相でもあった。

 レーシングシーンにおいてのカワサキは、未だ弱小チームというに相応しい存在であった。そのカワサキが70年代後半に残した功績は誰にも信じがたいものとして世界中に衝撃を与えることとなった。カワサキワークスが実践で示したものは、25年も前にワールドチャンピオンシップを獲得したMZのWalter Kaadenの主張であった。インレットポートのピストンコントロールよりもフライホイールリムを介したディスクバルブ・インダクション・システムの方がより効果的であるとの定義を立証してみせることとなったのである。

 Kaadenの主張は、1960年代の中頃まで、誰ひとりとして疑うものはいなかった。当時、スズキとヤマハのディスクバルブが彼の原理を利用して性能的にはホンダと方を並べるまでに至っていた。しかし、10年を過ぎる頃になると彼の主張に近親者達も次第に疑いを抱くようになっていた。

 1967年、スズキとホンダのWGPからの撤退は、必然的にヤマハのTop-Dog-V-fourを対抗馬無きまま孤独なチャンピオンマシンとしてサーキットに取り残すこととなった。そしてその12ヶ月後、FIMは250ccに搭載するパワーユニットに非情なまでの制限を加えることとなった。気筒数は2シリンダーまでとしディスクバルブを事実上禁止としたのだった。

 それでも、ヤマハはディスクバルブよりも劣るものの、表面上はカタログモデルにそっくりなピストン・ポーテッド・ツイン・ベアリングでチャンピオンシップは独占できるであろうと、その機構の可能性を素早く見抜いていた。

 ヤマハの方針変更が優位に働いたのは、技術的にではなくむしろ営利的な面であった。また、非常に不利な条件下での250ccチャンピオンシップではあったが、結果的には勝利を掌握し、ピストン・ポーテッド・エンジンがディスク・バルブとのギャップを埋めたという間違った見解を広めることにもなってしまった。

 反対に、2つのキャブレターを逆方向に張り出させるよりもむしろ、シリンダーの背後に取り付けることによって、吸気抵抗の乱れを減少させるばかりでなく、前面投影面積を狭めることも可能になり、サーキットにおける劣勢を取り除くことにも成功した。しかし、大きな問題として、出力的には5年分もの遅れをとっていた。

 そこで、ピストン制御による誘導の限界を指摘し、技術的な功績によって再びタイトルを奪うことが必要になった。新たな試みとして、超スリムなマシンを用いて、ディスクバルブエンジンの扱いやすさと、より高出力なユニットを組み合わせることが急務となった。

 それは、1969年にKaadenが示してみせた道筋でもあった。クランクシャフトを一緒に連動させてシリンダーをタンデムで配置してみせたのだ。連結ギアにおける僅かなフリクションロスを計算して、空前のスリム化を図るにはより多くの支出が嵩むこととなった。だが、資金不足を解消できないまま長い間挫折を続けていたMZは、新たなエンジンレイアウトを開発することも出来ずグランプリシーンで次第に力量を失うこととなっていく。

 Kaadenは、自らの思いを極東におけるカワサキのレースショップにいる忠実な弟子に託すこととなった。1974年、エンジンデザイナーであるNagato Satoが250ccのグランプリ・エンジンの創作を依頼された。彼は、Kaadenの基本原理原則を敬虔に辿ったのである。

 ポーティングは殆ど純粋なまでにMZであり、広いトランスファー・ポートが各壁で仕切られているシリンダーサイドを押し上げ、第三のトランスファー・ポートは、エキゾーストポートとは正反対の位置に設けられていた。

 ボア&ストローク(54mm×54mm)の個々のシリンダーは、エキゾーストポートは前方には前面に、後方シリンダーにはリア壁面に設けられており、これも東ドイツ的な感覚を示していた。これは、あまり重要なことではないようにも見えるが、この配置は、クランクケースがより効果的にエキゾーストポートから密閉されるために、著しい程に体感的なトルクを生み出すのである。

 32mmのMIKUNI製キャブレターからのインレット・トラックは上方に向けられ、上昇するピストンの根元の空間をうまく埋めている。そして、オリジナルの薄いスチール製ディスクは、マグネシウム鍛造内に直接働く1mm厚のファイバー製ディスクに代わることとなった。

 クランクシャフトとの密接な連結と言う観点から必然的に、2つのディスク・チャンバーが重複することになり、そこでリアのクランクシャフトアッセンブリーを左側に5/8インチ程ずらせることになった。

 各フライホイールのアッセンブリーは、3つのボール・ベアリングに支持されて、左右の連結ギアの各サイドにある。日本製のデンソー・エレクトロニック・スパーク・ジェネレーラーは、フロントのクランクシャフト右隅に据えられ、一方はリアシャフト隅でスプールギア(平歯車)を動かして軽合金の7枚のクラッチ板を駆動。また、スラント・ギアでアルミ製の6枚羽のウオーターポンプと回転計を動かしていた。

 封入式ニードルローラーベアリングがコネクティングロッドの両端に取り付けられている。そのピストンには、それぞれ一つだけテーパーセクション(先細り)のリングがあり、その浅い半円球状のクラウンはコンビネーションチャンバー内の幅広で環状になっているスキッシュと一致していた。

 通常の日本方式でのエキゾーストポート閉鎖からの計算によれば、圧縮比は僅かに7:1を上回る程度であり、ヨーロッパのエンジニアによって手直しがされ、幾何学状の条件で13:1位まで高められることとなった。

 通常、ポンプからの水は、エキゾーストポート近くのシリンダーブロックに導かれるのではなく、ワンピースヘッドの右側に供給されていた。しかしながら、内側の調整弁(baffle)が、その水がサーモスタットを通るヘッドの左側から逃げ出す前に、下部の熱した排気通路に向かうように設計されていた。

 従来のKR750のフレームを踏襲した、Kunio Hiramatsu設計のコンパクトなフレームに250ccツインは搭載された。後方には、ロッカー・アーム式のリアサスペンションが結合されている。ローズジョイントによって一部をフォーク・アームに沿って取り付けられた。この反転したV字ブラケット(inverted-Vee)は、ピボット式のベルクランクのリアエンドを動かし、その先端はギアボックス真後ろのフレームに固定され、垂直に取り付けられたKONI製のテレスコピック・サスペンションの支柱の最上部に取り付けられていた。

 スタート直後から、カワサキワークスは明らかに競争力あるパワー(リアホイール計測:52〜55bhp)と計量(238ポンド)、そして極端にスリムな車体で優位に立っていた。唯一の障害は、事実上ライディングの難解さだった。エンジンを3カ所ラバーマウント固定したにも関わらず、激しい振動が消えることは無かった。

 これは、Satoが奇妙なしくじりをしたことに起因していた。クランクシャフトの連結において、彼は一方のピストンを最上部に置き、もう一方を最下部に置くように配置したのだ。彼は、横並びの2ストロークツインのように、それは実際超スムーズな出力特性を持ち、1969年にDave Simmondsが125ccでチャンピオンシップを取ったカワサキのツインと同様の180度点火を採用していたのだ。

 しかし、Satoは2つのレイアウトの機械的なバランスにおける基本的な相違点を見落としていた。並列のツイン(クランクは一つ)では、ピストンの正反対の運動がrocking couple以下の犠牲で、完璧な一次バランス(primary balance)を提供するように結合されていた。しかしながら、クランクギアのレイアウトは2つのmidstrokeピストンと一致して、最初は前向き、その後は後ろ向きに動く、tdcとbdcの各々のピストンが引き起こす一次慣性を押さえるために、コントロールウエイトを必要とする重いフライホイールを有していた。それが耐え難い前後方向の振動を引き起こしていたのだった。

 その解決策は、ピストンが歩調を合わせて動くように、単純にクランクを連結し直すことであった。tdcとbdcでは、バランサー(100パーセントのバランス係数になるように)を増加して一次慣性を完全に消し去っていた。しかし、midstrokeでは、それらがお互いに敵対していた為に、クランクケース内の水平の力を中和していた。付随的な効果は、両方のシリンダ−が360度の間隔で同時に点火する為にエンジン音がずっと悠長なものとなっていたことである。

 1977年の簡単な修正は、カワサキワークスのポテンシャルが解放される引き金となった。もっと大きなマシンの方が似合うと思われるパワフルな体格であるにもかかわらず、Mick Grantは、その年のオランダとスエーデンのグランプリで、つまらない嫌がらせによる妨害行為で何度かニアミスを起こしながらも優勝を果たしている。

 250ccクラスばかりではなく、350cc(ボア・シリンダー:54mm×64mm)クラスでも優勝を狙うべく、南アフリカ出身の小柄なKork Ballingtonの巧妙さを利した圧倒的なライディングの才能が必要となった。そして1980年、Ballingtonが病気によって一時的に第一線から退き、後に500ccのスクエアフォーに切り替えた時、西ドイツのAnton Mangが350ccに乗ってBallingtonの役割を引き継ぐこととなったのである。

 250は、エンジン・ユニットの基本的なレイアウトを確立し、発展過程をデザイン上の改善に向けられていった。しかし、350ccクラスでは、4シリンダーが未だ許されていたことで、500ccの縮小による、より大きな出力化へ理論的な展望も見込めた。しかし、実際は、FIMが350ccクラスを廃止する恐れもあったことから、KR350はクラス上の排気量のマシンと同じクラスでレースを続行しなければならなくなった。

 KR250/350共に共通した改善が行われていく。内容のいくつかはMangのチューナーであるSepp Schloglにより着手され、性能と整備性の向上が図られていく。シリンダーの分割、ポーティングとエキゾースト効果の改善が主立った改良となった。燃焼はより浄化され、クランクシャフトの支持は堅牢となりディスクの位置も改良。ジェネレーターのサイズは縮小された。空気抵抗は減少し、更にハンドリングが重量配分の変更により向上。ステアリングは幾何学的に改善され、カヤバ製のアルミニウムのリア・フォークが採用される。ホイールとタイヤは革新的に幅広となっている。

 カワサキ・ワークスがチャンピオンシップを積み重ねていくのに対し、Nagato Satoは、遠くはなれた西ドイツのZscopauにおいて、満足とほどほどの代償を受けたWalker Kaadenを惜しむ最後の一人となったのである。