アミール・フスローのウルス
アミール・フスローといえば、13~14世紀の詩人、イスラーム神秘主義音楽家をはじめ多岐にわたる分野で知られていますが、カッワッリーの父としても有名です。そんなアミール・フスローのウルス(命日祭)にデリーの中心部にある所謂ニザームッディーンと呼ばれるエリアまで足を運んできました。
(↑ハズラト・ニザームッディーン・アウリヤと、その弟子アミール・フスロー)
そもそも、このウルスの情報は全く知らなかったのですが、ロンドン時代に、インド古典音楽の授業で苦楽を共にした友人が、現在ラクナウーで研究を行っており、彼の「デリーに行くよ。一緒にカッワッリー観に行こう」という連絡のお蔭で観に行くことができました。
今になって調べてみると、この特別な命日祭のために、インド政府がパキスタンからの巡礼者へもビザを発行し、サムジョーター・エクスプレス(協定急行)という列車を走らせたというほど大きなニュースだった模様(実際はビザの発行が遅れ、巡礼団は祭りの途中から参加になったそう)で、大きな祭事だったことが伺えます。
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6年ぶりに再会する彼から、「イナーヤト・ハーンのダルガー(墓廟)まで来て」と言われ、ウーバーを走らせて、ニザームッディーンまで到着。このエリアは、昔、語劇のツアー中にレストラン「カリーム」で食事をし、ウルドゥー語詩人ガーリブのお墓に訪れたことがあるくらいで、殆ど外から見たことしかありませんでした。
ほぼ11年ぶりにそこを訪れると、その混沌ぶりに、オールド・デリー以上に、まだこういう場所がデリーにもあったのか、という驚きを隠せませんでした。とにかく細い路地が入り組んでいて、所狭しと屋台や商店が立ち並び、すれ違うのが難しいほどの小道に賑やかな人々の往来だけでなく、オートバイまで通っていました。こちらで働き始めたばかりで、仕事の後に到着した私は、この雑多な感じを目の当たりにしてどっと疲れを感じてしまったのですが、友との6年ぶりの再会を楽しみにダルガーを目指して歩き始めました。
(↑屋台の商人。様々なお供えものを売る。)
カバーブ屋台、大衆食堂、献花用の花、お布施の煌びやかな布、イトル(香油)などのお店を横目に、ダルガーの入り口に到着して電話をかけると、入り口まで迎えに来てくれたというのですが、どうも話が食い違い、話しているうちに私がイナーヤト・ハーンではなく、ニザームッディーン・アウリヤの墓廟に着いてしまったことが判明し、ガーリブ・アカデミーの前で待ち合わせをすることにしました。ガーリブ・アカデミーの前で漸く、友との久しき再会ができました。
そこから更に暗くて細い路地を、彼の後について歩くこと5分ほど、古都にありそうな大きな荘厳な門をくぐると、イナーヤト・ハーン・ミュージック・アカデミーという施設に辿り着きました。それまで歩いてきた喧騒とはかけ離れた開けた隠れ家のような空間…感激しました。
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到着後、彼の指導教官とその弟子たちを紹介してもらい、皆で夕食。ラクナウーやハイデラーバードで研究をしている欧米人の二人と、アリーガル、アーザムガルというウルドゥー語地域のムスリムのインド人とのウルドゥー語の会話は、はたまた自分がいかに英語やヒンディー語を混ぜて、適当な語彙で話しているのかを痛感させられましたが、言語や文化、音楽など共通の話題や関心に盛り上がりました。
そうこうしていると、豪雨が降り始め、これから始まる夜の命日祭はどうなるのかと懸念されましたが、墓廟に天幕がはられるという情報が入り、食事を終えて、いよいよダルガーへ。
大雨の後、水たまりだらけになった曲がりくねった路地を皆について歩くこと数分、ある墓廟に到着しました。連れは皆男性なので、皆がお祈りしている間は、外で待つものの、足元数センチまで墓廟敷地ないは浸水状態。少年たちがバケツやたらいで必死に除水作業をしているのはいいのですが、私の立っている脇をすごい勢いで通過するので、かなり水びたしに。
さらに、女性一人で外国人という超目立った状態だったので、心の中で「皆早く帰ってきてー!」と叫びながら待っていると、私の分のお祈りもしてきてくれるといった友人が、花びらを持って戻ってきてくれました。それを食べると良いと言われたので、色んな意味で勇気を振り絞って飲み込んでみました。
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そして、いよいよアミール・フスローのダルガーへ。到着すると、特にまだ何も始まっていなかったのですが、カッワールたちが来るという場所で立って待つことに。床は雨で濡れていたので、うぅ…ここに座るのか…と覚悟していると、雑巾がけが始まり、敷物が引かれ、アザーンが流れ、人の波も押し寄せてきて、いよいよ開演モードになってきました。
アザーンの後は、一族の皆さんや関係者と思われる方々のみ、墓廟の中まで入って行き、お祈りが行われていたようです。ここで驚きだったのが、友人の指導教官がその中にローブを身に着けて入っていったことです!
恐らく、この一族・関係者のお墓への入場のタイミングでナマーズが始まり、皆その方角を向いて両手を天に向け始めました。そして長い人名がかなり長い間アナウンスされ、然るべきタイミングで口ぐちに「アーミーン」の声が聞こえました。こうしている間にも、後から後から人が押し寄せ、すし詰め状態に。
そして、お墓の近くでお祈りをしていた一族・関係者の皆さんが外に出てくると、そこが花道のようになり、その中でも実際に歌ったり、演奏したり手を叩いたりするカッワールの人たちが墓廟に向かって座り、それ以外の人々は花道のようになった場所を挟んで向かい合う形で座り、参拝客たちもそれに習う形で座り、カッワーリーが始まりました。
カッワーリーは序盤からテンション最高潮なので、普段ヴィランビト・ラヤから始まるインド古典舞踊の世界にいる身としては、非常に度胆を抜かれました。声や手拍子のボリューム、迫力、ユニゾン感、全てが最初からスパーーンと小気味良い調子でした。
これまでカッワーリーは均等間隔の拍でしか演じられないと思っていましたが、2曲目はアッダー・ティーンタール(?)みたいな拍子の取り方だったので、カッワーリーのバリエーションを聴けて新鮮でした。20人ほどのカッワールによる、生声、ドーラク、ハルモニウムと手拍子で、これだけのパフォーマンスができるとは、伝統芸能の力は計り知れません。
熱狂に溢れかえった会場は、高温多湿と混雑との闘いでもあり、純粋に音楽だけを楽しめる場所ではなかったことも事実ですが、伝統的な装いの大きな団扇で仰いで回る係の人たちが近くに来た時は、かなり快適で、彼らの装いも趣きがありました。
また、遠方からわざわざこのためにこの歴史的な神聖な建物にやって来た参拝客が、携帯電話のビデオトークやSNSのライヴ配信などで、その場にいない人々を繋いでいて、彼らの信仰心の強さと現代のテクノロジーの組み合わせが、なんだか不思議でした。
また、ローブを来てお墓の中に入って行った友人の指導教官は、なんと一族の人々に近い場所に座り、届けられたお布施を一族に渡したりしていました。欧米人で全く違和感なくそこまで入り込めるなんて、すごい信頼関係を築いてきたのだろうなと心打たれました(友人曰く「カリフ」なんだとか)。
彼は、沢山のお供えの中から香油の香りのする布(チャーダル)を私に渡してくれました。それを手にするとバラカート(ご加護)が宿るそうなので、大切にしたいと思います。
(↑頂いたチャーダル)
さて、2曲目を聴き終えた時点で、既に日付を超えそうで次の日もあったので、友人に送ってもらい、泣く泣く帰宅することにしました。私一人では到底、足を踏み入れることができない場所だったので、誘ってくれた友人に大感謝です。
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